春の雨は(2)
あの日、あの公園でマミという女の子に出会って、二ヶ月が経っていた。
気が付くと季節は梅雨。春の雨の朧さの中の淋しさが、今では鬱陶しさばかりが募っていた。マミとも、今では抜き差しならぬ関係になっていた。
マミは、篠崎真美だとは、分かっている。でも、彼の中ではこの子はマミなのだ。何故だかカタカナのままで呼んでいた。
何処か、腰が引けている、そんな気が、自分でもするのだった。用心しないと碌でもないことになる、多少は世間ずれした知恵が彼にそう警告しているのだった。
彼はマミを中性的な、抽象的な存在のままに保っておきたかったのだ。
いつでも逃げられるように? そうかもしれない。
マミという子は不思議な女の子だった。もう、二ヶ月も付き合っているのに、未だに正体が掴めないのである。住所は分かっている。分かっているどころか、ほんの数回だけ、マミの家を訪れたことがあるのだ。
が、それは、彼女の家に誰もいない時だった。もしかしたら、普段は誰もいないのかもしれない。マミが一人っ子で、鍵っ子でもあるのだから、考えてみると当然といえば当然の話なのだ。
それなのに、敢えてマミの家にいかないのは、ただただ、彼が世間の目を恐れて、できるだけ近づかないようにしているだけなのだ。それに彼だって、自分では立派な社会人なのだと思っていた。仕事だってある。昼間から、そうそう呑気にマミと付き合えるわけもない。夜はさすがに彼も遠慮していた。
最初のうち、彼は自分が腰が引けているのは、マミの親たちや世間の目が怖いからだと思っていた。マミの口ぶりからは父親も母親もどんな仕事をしているのか、さっぱり分からないのだ。水商売のような、あるいはそうした仕事は表向きのことで、裏では何か胡散臭い稼業に勤しんでいるような、掴み所のなさがあって、下手に近づきにならないほうがいいと彼は直感していたのだ。
が、もっと得体の知れないのはマミのほうだったのだ。
マミは不意に奇妙な笑みを浮かべる。その笑みの不思議さに、彼は呪縛されていた。彼がさんざん妄想に耽った際にも、そんな微笑を想うことはなかった。それはエロチシズムというのではない、しかし、彼の神経を逆撫でするような、それでいて愛撫されていると錯覚しそうな怪しい笑みなのだった。
(マミはすべてを知り尽くしている)彼は、そう信じた。
そのすべてということで何を意味しているか、彼は敢えて考えなかった。考えるのが怖かったのかもしれない。
マミと付き合いだしてからは、例の公園の女の子たちとは一切、会わなくなった。そもそも公園に足が向かなくなったのだ。彼は、マミを連れて、街の方々を歩き回った。時間の許す限り、日の暮れるまで、マミとの時を持った。
「小父さん、好きよ」
と、マミは突然、言うことがあった。
その一言は、彼にはまさに不意打ちのように思えた。なんとか、マミを突き放したいと思った瞬間に、マミが彼の気持ちを察したかのように言うのだ。そう言う時のマミの目は濡れているとしか思えないのだ。
一度だけ彼はマミに親のことを問い質したことがあった。もう、マミのことが厄介でならず、ほとんど逃げ出すつもりでいたからこそ口に出来た言葉だった。
「親は心配しないのか、お前のこと」
「いいの」ポツンと、それだけだった。
でも、その時の彼は自分を抑えられなかった。
(何だってこの子は、こんなに重苦しい子なんだろう。もう、うんざりだ。俺は公園の女の子たちのほうが良かったんだ)
「体の傷、どうしたんだ。誰にそんなふうにされたんだ」
マミは黙っていた。悲しいような、それでいて皮肉っぽい、マミ特有の笑みを浮かべつづけるだけだった。俯いて、膝の辺りを眺めていた。太ももには痣や傷があった。古いものもあれば、新しいものもある。明らかに親の手によるものだった。マミは親と彼以外に付き合う相手など、誰もいないのだ。
それなのに敢えて聞くのは、ただの意地悪に過ぎないのだ。というより彼はマミを遠ざけるために、わざと傷口に塩を塗ったのだと分かっていた。マミの母親が後妻だということも、彼は既に知っていた。マミが彼らには疎ましい存在になっているということも、問わず語りの会話の中で、とっくに気付いていた。マミは、母親の、男を繋ぎ止めるための飴玉だったのだ。
その飴玉を彼は、詰問することで、彼自身がしゃぶろうとしていたのだった。それは、直接、男がマミを苛むよりひどい仕打ちだったかもしれない。少なくとも彼はそう感じていた。
「どうしたの、こんなに優しくしているのに、なぜ、黙ってるの」
その日の夜、彼は夢を見た。マミと男との夜の夢だった。襖の向こうには母親がいる。マミに逃げ場など、何処にもないのだ。出口なしだった。男にとって、これほど完璧な強姦の状況はありえないだろう。
マミは物心付いた時には、もう、女だった。それはマミ自身が手の届かないほどの高見にある女だった。体も心も置き去りの深みの底に女の顔があった。闇の鏡の中にだけ映る女だった。根っからの娼婦。根っからの遊女。
遊女とは、遊びの世界にだけ生きる女のことだ。男が架空した、魂と心が漂白された肉体だけが息衝く女のことだ。心を捨て去った魂の骸であるからこそ、男が思い入れをすること存分にできる、男のための女なのだった。死に至るまで救いの許さない地獄の底を這い回る女だった。宗教的世界からも閉め出された穢れた女なのだった。
だからこそ、男は好き勝手な夢を見ることができる。女と世間のしがらみを断った、純粋な肉の欲望の滾り迸る、赤い闇の彼方の夢を見ることができるのだった。
赤い襦袢の女が、こちらに背を向けて立っていた。今にも襦袢を脱ぎそうだった。白い足と腕が艶かしかった。長い髪が乱れ舞っていた。あと、ほんの僅か男が手を懸ければ、女は落ちる。
けれど、女は襖の向こう側へ歩き去ろうとしていた。
「何故だ! 俺はここにいるんだぞ」
女は知らん顔だった。
「俺より、あいつがいいのか」
襖が後ろ手に静かに閉められた。(俺は置き去りか)
彼は懸命に襖に向かっていった。その襖は固く閉じられたままだった。
「お前は、俺の女じゃなかったのか!」
涙でグジャグジャになって喚いていると、やっと襖が開いた。そこにいるのは
嫣然と微笑むマミなのだった。
……未完……
(02/06/23)
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