春宵花影…
影がちらついて離れなかった。
昼間の喧騒に紛れていた何かが、夜の帳(とばり)が降りると、やにわに蠢きだす。
それは、生きること自体の不可思議への詠嘆の念に近い。
この世に何があるのだろうとしても、とにかく何かしらがあるということ自体の不可思議への感動なのだ。この世は無なのかもしれない。胸の焦慮も切望も痛みも慟哭も、その一切合切がただの戯言、寄せては返す波に掻き消される夢の形に過ぎないのかもしれない。
そうだ、蠢いているのは、あの人の影などではない、ただただ、春の夜の悩ましいまでの妖しさのゆえに過ぎない…。そう言い聞かせた。
そうだ、それで十分なのだ。他に何もない。朧なる春の霞に誑かされているだけのこと。
今夜も眠れるはずがない。たとえ夜通しになろうと、春の夜という幻の世に導く隧道(ずいどう)を歩き通そう。
春の夜の妖しさゆえにあくがれて
己など、太陽でもなければ、地上の星々の一粒でさえない。塵芥(ちりあくた)の類いに過ぎない。
でも、どんな塵や埃であっても、陽光を浴びることはできる。その浴びた光の賜物を跳ね返すことくらいはできる。己の中に光を取り込むことはできないのだとしても。
たった今、ここにおいて感じる魂があるということ、それは、つまりはこの地上世界に無数に感じ愛し悩み喜び怒り絶望し感激する無数の魂のあることのこの上ない証拠なのであって(だって、自分だけが特別なはずがないのだ。誰もが一個の掛け替えのない存在なのだとしても)、その感じる世界の存在は否定できないような気がする。
春の夜の夢の宴に舞う我か
月の形は変幻する。満ちたり欠けたり、忙しい。時には雲間に隠れて姿が見えないこともあるだろう。でも、それでも、月は命のある限り、日の光を浴び、そして反射し、地上の闇の時を照らそうとしている。
月の影は、闇が深ければ深いほど、輪郭が鮮やかである。懸命に物の、人の、生き物の、建物の形をなぞろうとしている。地上世界の命を愛でている。柔らかな光となって世界を満遍なく満ち溢れようとする。月がなかったら、陽光が闇夜にあって、ただ突き抜けていくはずが、その乾いた一身に光を受け止め跳ね返し、真の闇を許すまじと浮かんでいる。
塵芥など、忘れ去られることのほうが実際には遥かに多いのに。誰にもその存在に気付かれないことを望んでいるのに、月影はその優しさで塵の己を抉り出す。
そう、地上世界の恒河沙ほどの砂粒の一つに紛れ、ひっそり生き、やがて消えていくことができたら、それでよかったのだ。浴びた光の賜物を跳ね返すことくらいはできる、なんて、ただの強がりだったのに。
優しさは罪だ。
月影のゆゆしきほどの優しさか
月の影は、闇が深ければ深いほど、モノたちの輪郭が鮮やかである。
懸命に物の、人の、生き物の、建物の形をなぞろうとしている。地上世界の命を愛でている。柔らかな光となって世界を満遍なく満ち溢れようとする。月がなかったら、陽光が闇夜にあって、ただ突き抜けていくはずが、その乾いた一身に光を受け止め跳ね返し、真の闇を許すまじと浮かんでいる。忘れ去られることのほうが実際には遥かに多いのに。
忘却の海に沈み行くことを望んでいるかもしれないのに。
海?
あれ、あそこに浮かんでいるのは何?
桜の老樹の枝影の切っ先が示す辺りに曖昧に輝く不思議な物体を見た。それは生気を失った海月(くらげ)とも見えた。
桜の花びら?
風に吹き散らされた数知れぬ花びらたちが、春の海に漂っている?
ゆらゆらと光の海の花の宴
月の光は、優しい。陽光のようにこの世の全ての形を炙り出し、曝け出し、分け隔てするようなことはしない。ある柔らかな曖昧さの中に全てを漂わせ浮かばせる。形を、せいぜい輪郭だけでそれと知らせ、大切なのは、恋い焦がれる魂と憧れてやまない心なのだと教えてくれる。
花びらたちは、ひらひらと舞いつつ、裸身の全てを惜しげもなく晒してみせた。
枝から吹き千切られた花びらに、今となっては、もう、何の役目もありはしない。
だから、闇の海に浮かび、流れに身を任せ、遠い彼方へ流れ去りたいのに違いない。
なのに、月の光は容赦もなく照らし出している。
お前は、優しいんじゃない、ただただ己の力を誇示しているだけなのだ…。
春の月断ち切れなぬほど憂きかとも
どうにも我慢がならなくなった。月が憎くてならない。
もう、よせよ。花びらたちに、春の海でゆっくりと末期の時を迎えさせてやればいいじゃないか。
可哀想に、花びらたちが波間に身を寄せ合っている。塊になって、浮き上がって…、居たたまれないでいるに違いないのだ。
それを、花びらたちは群れをなし、夜の海に白装束が浮かび漂っているみたいじゃないか!
白装束!
忘れていた何かが脳髄を断ち割るように噴き出してきた。とっくに忘却の河の彼方に消え去っていた何か。あの日、真っ白な衣装が鮮血に染まってしまった。草葉に倒れ臥したあの人の骸(むくろ)を必死になって森の奥へと引き摺っていった。葉っぱを千切っては、あの人の体の上にばら撒き、覆い隠そうとした。
けれど、あの日の風は、葉っぱを無情にも吹き飛ばしてしまって、そのたびに眩しいほどに白く輝く衣装と烏羽玉(うばたま)の夢の深さよりも深い鮮血とを曝け出してしまうのだった。
烏羽玉の夢とはてなん罪とても
無数の花びらたちは、夜の海の一点に集中し始めていた。一個の塊になっていた。その花びらの蠢きは、次第に形を露わにしていった。
もう、間違えようがなかった。闇の海に沈めたはずのあの人の骸が、浮かんできてしまったのだ。
花びらどもが骸の形に雲集しているのだった。蒼白なる姿を月光のもとに晒している。
まずい! 犯行が露見する。
焦った。岩を括りつけて海に深く沈めてしまったはずなのに。せっかくの完全犯罪が破綻してしまう。
春の海へ飛び込んでいった。証拠を消し去らなければ。遺体さえ見つからなければ、この世には何もなかったことになる…はずなのだ。これまで、そうだったじゃないか!
夢とても拭い去りたき罪ならん
桜の花びらどもは、一片(ひとひら)の大きな百合の花びらとなっていた。蒼白いオフェーリアが眠っていた。月光に浮かぶあの人が、すぐそこにあった。
けれど、間近に来てから、一体、どうしたらいいのか、分からないでいるのだった。岩など、あるはずもない。
いや、その前に、あの人はとっくに海の藻屑と成り果てているはずなのだ。
そうだ! 桜の花びらどもを蹴散らしてしまえばいいんだ。花びらどもが味な真似をするから、蒼白なる骸なんてものが月の光に浮かび上がってしまうのだ。
月光を背に受けて、闇雲に花びらどもを掻き毟ろうとした。毟っては千切り、千切っては投げた。
けれど、いくら毟り取っても、際限なく花びらの堆積が続いているのだった。
それどころか、風に舞ってか、夜空に無数の花びらが舞っている。
舞っているだけじゃなく、こっちへ向かって舞い降りてくるではないか!
花の宴虚無への供物あればこそ
気が付いたら、桜の花びらどもがあの人ではなく、この俺に纏わりついているのだった。俺を花びらの海に沈めようとしているのだった。耳にも目にも鼻の穴にも、口をも、情容赦なく花びらが襲い掛かってくる。
違う! 俺を襲っているのではない。俺があの人の骸を抱き締めているだけなのだ。
許してくれ、俺が悪かった。お前を殺すつもりなどなかったんだ。俺の指が勝手にお前の喉輪を締め付けていたんだ。
ああ、息が詰まる…。
気が遠くなる…。
許してくれ…。
いや、いいんだ、許して欲しくなどない。
俺は一刻も早く、お前の元に行きたかった。その日がやっと今、やってきたんだ。
春なれば花の元にて息絶えん
ひといろの夢の形となぞる指
variousmoonさん主宰によるTB企画参加中です。
本作は、企画参加作品です(2005.04.09作。作成直後、季語随筆ブログにて公表済み):
「桜月夜の記憶」
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コメント
最近、この作品へのアクセスが幾度か。
松林桂月「春宵花影」へのアクセスのオマケかな。
投稿: やいっち | 2007/03/27 15:45