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2005/04/30

紫苑の丘へ(断片)

 前橋駅前に降り立って見る風景は、東京暮らしの長い俺には、場末のような、しかし東京とは違う小奇麗さとだだっ広さがあって、戸惑うばかりだった。
 駅の正面には何かの風景写真で見たような山が望める。駅の案内板によると、赤城山だという。赤城山というと、国定忠治くらいしか連想できない自分が悲しい。
 駅のロータリーの先には、欅(ケヤキ)並木が続いている。欅の並木道というと、表参道とか、府中の並木道を思い浮かべてしまう。
 周囲の風景に呆然としているうちに、男女の二人連れの姿を見失って、焦りかけた。
 が、考えてみるまでもなく、別に彼らの後を追うのが目的ではなかったのだと、気が付いて苦笑してみたりして。
 来るには来たが、これからどうしたらいいのか、まるでアイデアが浮かばなかった。
 駅前の案内表示を眺めているうちに、土屋文明記念文学館という名前に目が向いた。高崎駅からバスで30分だという。前橋駅からだとどれくらいなのか、ピンと来ない。第一、土屋文明と紫苑と関係があるとも思えない(ないという根拠もないけれど)。
 前橋の何処かに紫苑の咲く場所があるのだろうか。とうとう、本当に行き詰まってしまった。この町に紫苑が咲く場所があるという保証などない。そもそも、仮に咲く場所が在っても、10月ともなって咲いているという保証など、何処にもない。
 ふと、紫苑が湿原の地に咲くという知識を思い出した。

 湿原! どこか植物園か公園か原っぱのような場所で湿原っぽい地域。
 ネットカフェがあったので、中に入ってみた。ネットでなら、何か分かるかもしれない…。俺は、珈琲の香りに神経を癒しながら、「紫苑」という言葉で検索してみた。ほとんどがハンドルネームか旅館やホテルの名前だった。
 それで、「紫苑」と「キク」で検索したら、情報をかなり絞ることが出来た。案の定、紫苑は「九州とか中国地方の山地の湿原地帯にまれに生育する」とある。
 が、前橋で撮影と表示された紫苑の写真を発見することができたのは収穫だった。野生か、それとも庭に栽培されているものなのかは分からないが、とにかく前橋にも紫苑があることだけは確認することができた。
 告白するが、紫苑の花を初めて写真で見た。ネットの御蔭だった。写真で見ても、花に疎い俺は、菊と何処が違うのか、全然、分からなかった。
 面白いのは、春紫苑という花があるということだった。ハルジオンと読むらしいが、野暮な俺などは、つい、ハルシオンと読みたくなる。
 薬物のハルシオンだ。
 ハルシオンという言葉で、あいつの薬好きを思い出した。俺は薬物は大嫌いなのだが、あいつは薬には目がない女だった。そんなにあれこれ飲んで大丈夫なのかと、傍で見ていてハラハラするほど、あいつは多種多様な薬を服用していた。
 その中にハルシオンがあったはずなのだ。
 「私って不眠症なの。もう、寝つきが悪いってもんじゃないのよ。これがないとダメ。」
 そう言って見せてくれた薬の一つがハルシオンだった。彼女に言わせると、あまり効き目がないという。
 「第一、お酒と一緒に飲んだらダメなんだって。肝臓がやられるかもしれないし、朦朧状態になるかもしれないし、軽い記憶障害が生じることもあるんだっていうし、お酒好きの私には向かないわね。」
 俺は、薬と酒を併用しちゃ、なんだってダメだろうって突っ込んだことを覚えている。
 俺はあいつとは違って、薬恐怖症の人間なのだ。酒も煙草も、薬も怖い。食品添加物も怖いから、食べるものを選ぶのに実に苦労する。もう、さすがにこの頃は添加物など気にしないようになってきたけれど、薬だけは風邪薬でも受け付けない。
 「あのね、薬って、面白いわよ。ちゃんと服用の仕方を間違えなければ大丈夫なんだから。私、お医者さんとあれこれお喋りするのが大好きなの。特に薬の話、ね。睡眠薬のことだったら、専門家かもね。私、頑固な不眠症だから、薬なしじゃ、今日まで生きてこれなかったと思うくらい」
 そうは言っても、素人考えかもしれないが、数多くの薬をダブって服用したら、想定外の副作用が生じる事だってあるはずではないか…、そんな忠告めいた説教をしたこともあった。
 段々俺は、あいつの墓を見つけたら、ハルシオンか何かの薬を手向けてやろうか。そのほうが、よっぽどあいつは喜ぶかもしれない、などと思うようになった。
 もしかしたら、あいつは薬中毒で死んだのじゃなかろうか…、ふと、そう思った。
 そうだ! 薬の飲みすぎで肝臓がやられてしまって、それで死んだのだ。ただの直感かもしれないけれど、何故だか絶対に間違いないような気がしてきたのだった。
 あいつと付き合った最後の頃、あいつは体の調子がおかしいと、よく呟いていたじゃないか! 吐き気がするとか、頭痛がひどいとか、動機が激しくなることがあるとか、変に眠気が襲ってくることがあるとか、度忘れがひどくなったとか、眩暈がするとか、腹痛だとか、体がだるいとか、とにかく愚痴のオンパレードだった。
 あんたが私の体を求めすぎるからよ、変なところに突っ込もうとするし、などと俺を睨んでみることもあった。でも、瞳の奥には笑みがあったので、冗談だと思って受け流していたけれど。
 もしかしたら、あいつにとっては俺との情交も、薬の一種だったのかもしれない。体の相性がよかったから、常用していた…?!
 俺は、紫苑などどうでもよくなっていた。というか、紫苑の咲く場所を探す具体的な糸口が見つからなくて途方に暮れていたのだ。
 そして俺があいつのことを本当に何も知らなかったし、あいつの本当の姿に関心を抱いていなかったことに愕然たる思いがし始めていたのだ。

                           (02/10/14)

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