雪幻想
降り頻る雪の道を歩いていた。
振り返れば、あるのは足の跡だけ。それも、ほんの数歩ほども形が残っているかどうか。
みんな雪に降り込められはかなくなっていく。
道などない。なだらかな白い起伏に細い筋がゆるやかに続いているように見える。
その一本の影の筋を辿っているだけである。
フードを深く被り、俯きになり、口を真一文字にし、背を屈めて歩いている。
息が苦しい。胸が痛い。冷たい空気が肺を凍て付ける。
歩く一歩一歩が雪にごぶっていく。サラサラの乾いた軽い雪。一息吐けば、飛び散りそうな淡い粉雪。なのに、雪は容赦なく僅かな透き間を見つけては入り込んでくる。
何処から来て何処へ行くのか分からない。ただ歩いている。無闇に前へ前へと歩いている。ただあの人に会いたくて一人歩いている。怖くて怖くてならないのに、会いたくてならない。会わないといけない。
このまま雪の世界に埋もれていくのかもしれない。もしかしたら、そう願っているのかもしれない。この道の先に誰が待っているという確かな証しがあるじゃなし。
白い影に我が身さえもが染まっていく。掻き消されていく。
朝、見た夢は幻だったのか。ただの誘惑の声に過ぎなかったのか。紺碧の海から浮かび上がってきたあの姿は、あの人そのものだった。氷の彫刻のように輪郭が鮮やかで、触れれば指が氷の刃に鋭く抉られそうなほど、あの人は厳然とそこに立っていた。
会いたくてならなかった…。
そう、呟いたのはオレだったか、それともあの人だったのか。
オレに会いに来たんだろ。会うために現れたんだろ。そうでなきゃ、こんな雪深い里の一軒家に来るわけがない。
雪は降り続いていた。誰一人いないはずの世界で、どうしてこんなにも津々と、倦むことなく降りつづけるのだろう。
あの人の影は、固く閉ざされたはずの窓の外に消えていった。手招きするように、小さく手を振りながら、後ずさりしていき、やがて真っ白な砂丘に姿を埋めていった。
胸を掻き毟られるような悲しみがあった。
寝床から飛び起きた。
枕元は濡れていた。間違いない。あの人の涙で濡れたのに違いないのだ。末期の喘ぎに溢れた涙に違いないのだ。
追わなければいけない。今、追わないと、二度と逢えなくなる。
消え行く姿を追い求めた。
そうして、今、闇雲に歩いている。もう、方角など分からない。意識が朦朧としている。苦しいのか痛いのか悲しいのか、それとも痺れるような快感に陶然としているのか、分からなくなっている。
あの日、どうして捨て去ったりなどしたのだろう。
捨てた?! 違う。オレはただ、見えなかっただけなのだ。何一つ、見えなかった。愚かだった。あの人より夢を貪っていた。でも、それが罪だというのか。
いつの間にか真っ白な世界だったはずが、真っ赤に燃え上がる灼熱の世界へと変貌を遂げていた。手足の指先どころか鼻の頭、耳朶、肩と凍て付いていて、神経が麻痺していたはずが、今はジンジンするほどに熱い。体中が耕運機か何かを長く運転しすぎたような痺れ具合だ。
深紅の洪水。怒涛の波飛沫。吹き上がる熱湯。膨れ上がった風船が破裂して腸(はらわた)の全てが飛び散っていくかのようだ。
しどけなく縒れ曲がる小腸がまるで長すぎる襟巻きのように、それとも温血動物に変身した蛇の身のようにオレの体に絡みつき巻きつき、やがて雁字搦めにしてしまった。
喉さえも締め上げられている…。
なのに、何処か温みに満ちた快感があった。
全てが弛緩していた。弛みきって、オレの体が放恣に解けた帯のように赤い空間に与太っていた。
帯は愛しいあの人に寄り添うごとくに艶かしくくねらせている。あの人がオレの腕の中にいる。あの人が寝床でオレと一緒に臥している。心地良さそうに寝息を立てている。
オレはあの人の中に入ろうと思った。蛇になった。あの人が好きだといつか言っていた蛇になったのだ。
にょろにょろとゆっくり白い起伏を舐め登り這い伝い滑り降り絡み擦り赤い闇の中のさらに紅い深淵に伝い下りていった。
ああ、今だ。今こそ、全てが叶う。
そしてオレは雪の寝床であの人と結ばれたのだった。永遠に。
雪の道足跡だけが付いてくる
見返れば来た道さえもはかなかり
雪女郎怖くて怖くて会いたくて
一人行くこの道の先雪の中
深深と降り積もる雪誰も見ず
雪道に消え行く影を追う我か
消えた影夢見に出ては朝悲し
雪女末期の枕濡らすのか
いつの日か現れ出でて消える人
雪に臥す恋しい人に添うごとく
みちのくの雪の音にも騒ぐ胸
(以上の句は、「雪女郎」よりのもの)
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