鳥の餌
[ナンセンス小説です。何故かアクセスが多いので、画像をサービスしました。 (07/10/25 記)]
軒先からチュンチュンと鳴き声が聞える。きっとスズメだろうと覗いてみたら、何処かの男女がチュッチュしていた。
羨ましいやら妬ましいやらで、いきなり窓を開けてコラッと怒鳴ってやったら、顎が外れた。
二人は笑っていやがった。で、やっぱりチュッチュしながら立ち去っていく。
やっとのことで顎を元に戻して、公園へ散歩に出かけた。思えば、この頃、外出はトンと御無沙汰だと気付いたからだ。仕事が忙しかったこともあり、休日も、窓も締め切りなら、ブラインドも下ろしたまま、部屋では寝たきりの日々が続いていた。郵便受けも、訳の分からないチラシが一杯に詰まっている。
引っ張り出すのも億劫だったのだ。
これじゃ、誰も居ない家だと思われ、恰好の逢引の場所だと思われても仕方なかったのかもしれない…。そんなシオラシイ反省などして、ブラインドを紐で引き上げ、窓も開放して、部屋の空気を入れ替えることにしたのだ。
なんだかまるで病み上がりみたいだ。
公園に行ってみると、人影が疎らだった。お昼前のはずなのに、どうしてこんなに人の出が少ないのか、今日はどこかで町のイベントでもあるのかと考えていたら、ふと、気付いた。
今日は土曜日でも日曜日でも祭日でもない。週日なのだ。仕事があったはずなのだ。
でも、もう、時間はとっくに出勤の時間を過ぎている。もう、会社じゃみんな仕事を始めているはず。
ま、いっか。今日は休みだ。無断欠勤だ。これで首になるなら、してみろってんだ。
空は真っ青に晴れ渡っている。風も、頬っぺたを擽るように、ゆったりと吹き抜けるだけ。木立は、スローモーションのように、ゆらりぬらりと揺れている。風のメロディに調子を合わせて踊っているようにも見える。
綿菓子みたいなモコモコした白い雲が気持ちよさそうに浮かんでいる。引き千切って、口に含んでみたい!
それにしても、誰も居ない真昼の公園というのは、異様な風景だ。
昼前だから、いつもは公園に屯(たむろ)しているはずの、近所のオジチャン、オバチャンも、家に帰って食事しているのだろうか。
なんだか、エアポケットに嵌ったような、不思議な気分だった。この公園が独り占めできるとは。今日は朝から縁起がいいんだ。いや、朝は、変なことで起こされたから、よくはなかったけど、でも、まあ、あれも、ちょっと大き目の鳥達の戯れだと思えば、悪くはない。怒鳴った方が、よほど、粋(いき)じゃなかったってことなのだ。
老夫婦が、いつもは坐って濃い緑の植え込みや、最近、急に建ち並んだ超高層ビル群や、高架を渡りすぎる電車などを眺めるベンチが空いている。
坐ってみると、瞬間、ひんやりする。でも、坐ってしまうと、妙に安定感がある。すわり心地がいい。ああ、これは嵌ってしまいそうだ。
と、バタバタッという羽の空気を叩くような音が聞えたかと思ったら、目の前の空き地に数羽のハトが舞い降りた。土の上を啄ばみながら、あちこちグルグル回っている。嘴は土の上の大粒の何かを突っついているけれど、目は、しっかりこっちを見ている。
用心している? だったら、わざわざ近くに寄って来たりはしないはずだ。
まさか、同類だと思っている?
確かに、この数年、風呂に入ったことはないし、いや、たまにシャワーくらいは浴びるけれどね、服だって洗濯はしてない、そう、舌切りスズメ…じゃない、着たきりスズメだけれど、ハトさんたちよりはましだと思っている…、ま、思わせてよね。
ハトさんたちは、体の汚れ、どうしているんだろう。確かに雨風という天然のシャワーをたっぷり浴びるし、晴れた時には日光を浴びて、消毒もされているから、外見の汚から感じるよりは、案外と清潔なのかもしれない。黴菌は、きっと、ハトさんの体の中には巣食っているんだろう。
しばらく考えて、やっと、気付いた。
そっか、ここにいつも坐っている老夫婦達は、きっと、餌をやっていたんだ。ハトたちは、それを目当てに寄り集まっているんだ。今か今かと餌を撒くのを待っているってわけだ。
けど、生憎、何も用意していない。そんなことだとはまるで思っていなかったし。
ハトさんたちは、右へ左へ、前へ後ろへと、ちょこまかと動き回っている。でも、目線はしっかりこっちに向けている。どうしたものか。なんだか、身動きが取れなくなってしまった。期待を裏切ったりしたら、どんな目に遭うものやら、想像するのも怖い。
それどころか、ハトさんたちの数がドンドン、増えている。数羽どころか、数十羽、もしかしたら、町じゅうのハトさんたちがここに集まったんじゃないかと思われるほどの数だ。
アルフレッド・ヒッチコック監督の映画『鳥』を連想してしまった。今や映画の登場人物、しかも、主役だ。ただ、観客がいない主役ってのが寂しいけど、緊迫感はあの映画以上だ。
だって、今、現実にハト達に迫られているんだし。あの映画じゃ、カモメだったけど、カモメだろうがカラスだろうが、スズメだろうが、ハトだろうが、群れをなす鳥には変わりない。相手が弱いとなると、平気で襲ってくるという習性に、なんら違いはないのだ。
そうだ、あの映画に原作があるってことに気付いたのは、ほんの数年前だった。書店で本を物色していたら、アルフレッド・ヒッチコック監督の映画『鳥』の原作を所収と帯に書かれた文庫本が目に付いたのだった。それが、ダフネ・デュ・モーリアの短編集『鳥』だった。
その本を買ったはいいけど、忙しくて読めなくて、ずっと気にはなっていたのを、つい先日、とうとう読む機会がやってきた。面白くて、手放せなくて、終いには徹夜してしまった。
どんなに熱中したかというと、モーリアが「レベッカ」の作者でもあることに、最後の最後まで気付かなかったほどだ!
影に怯える主人公。影。鳥の影に怯える今の姿。
映画『鳥』の結末部分はどうだったろうか。鳥に取り殺されるんだっけ。それとも、助かったんだっけ。なんだか、運命は映画や小説の結末次第だと思われてきた。
なのに、肝心のラストが思い出せない。小説だって、読んだはずなのに。怖くって、怯えちゃって、竦んじゃって、何もかもを忘れたというのだろうか。
手も足も出せなくなっていた。息もできないでいた。下手に動くとハトたちに気付かれる。野生の動物ってのは、人間よりはるかに敏感なのだ。
ああ、段段、息苦しくなってきた。手術の時、全身麻酔を掛けられる、あのいよいよ麻酔が効き始め、胸が痛いような苦しいような切ないような、そう、まるで身体がコンクリートかゴムの塊になってしまったような、もしかしたら、このまま息絶えてしまうんじゃないかと思えてしまうような、あの末期の恐怖感と同じだった。
世界が真っ暗になった。世界がハトで一杯だ。ハトが平和のシンボルだなんて、一体、誰が言ったんだ。奴らは、存在するだけで、恐怖の的、世界を奈落の底に突き落とす悪魔の手先じゃないか!
ついには意識も朧になってしまった。
いいんだ。どうせ、会社も首になるに決まっている。借金で首が回らない。
この小春日和の公園であの世へ旅立つのも一興だ。鳥に囲まれて、きっと、せめてもの最後の慰めに天国へ運ばれていくに違いない。
碌でもない奴だからって、骨になるまで啄ばまれてお終いってことにはならないだろう…。
絶命ギリギリの瞬間だった。また、チュンチュンという鳴き声が聞えてきた。意識が朦朧としているから幻覚に襲われているのだろうか。そうだ、そうに違いない。
だけど、聴き直してみると、それはチュッチュという音だった。朝、叩き起こされた音。その音が近寄ってきたかと思うと、ハト達は羽を思いっきりばたつかせてみんな飛び去っていった。
喧騒が立ち消えたあとには、チュッチュという音を鳴らす男女がいるだけ。
なんだか狐に抓まれたような心境のまま、部屋に戻った。
憎たらしいやつ等だったけど、助けられたんだから、感謝しないといけないのか…。
そんな複雑な胸中のまま、部屋に戻ったら、驚愕の現実が待っていた。
部屋の中からハト達の喧しい鳴き声。ドアを開けると、部屋の中はハトだらけ。
ああ、窓を開けっ放しで出かけたから、やつ等、今度は部屋の中で餌を待っていたというわけだ。
仕方なかった。ボクは、自分が餌になることに決めた。
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