テイスティング
外は吹雪いている。こんな日に出かける用事がないということ、会う人など誰一人いないということ、訪ねてくる人もいないということは、なんてありがたいことだろう。
窓のカーテンも開けきっている。窓枠には雪が儚く鋭く悲しく積もっていて、どんな額縁よりも外の世界を疎遠にしてくれる。
それとも、縁取られ孤立した空間に落ち込ませてくれる。ガラス窓には凍て付いた氷がモンドリアンの描くブギウギより愉快な幾何学模様を形作っている。窓の外の景色が歪んでいる。まるで涙に滲む暗い海のように。
窓に生まれやがて消えゆく氷と雪との巧まざる芸術。どんな天才も創るあたわざるレリーフ。ガラスさえもが水の変幻となりたがっているようだ。
氷が雪が水の偶さかの位相に過ぎないとは信じられない気がする。窓を開けて手を差し出し、事の真相を確かめてみようか。
部屋の片隅では薬缶のお湯がシュンシュン唸っている。この湯気があの雪の仲間だとは。部屋を満たし、やがて溢れた湿気が壁や窓の隙間から漏れ出していく。叶うなら、その分子たちに紛れ込み、世界を旅して回りたい。
水は、きっと、光の仲間なのだ。いや、仲間になりたいのだ。光を嫉妬しているのかもしれない。水には時間という桎梏が運命のように付き纏う。
けれど、光には時間がない。光は世界を経巡っているというのに、常に今なのだ。光は寄り集まって物質という恍惚の時をも味わえる。
貯蔵庫には秘蔵のワイン。灯油を消そうか。室内の温度を確かめる。18℃。文句なし。
今日は、白は試さない。赤に専念する。テーブルに赤ワインとグラスを持ってくる。勿論、水彩画用の白い紙を敷いてある。
そう、白い紙を背景にしてワインの色を確かめるためだ。
色を楽しむのだ。
(誰にも秘密にしていることがある。それは、ほんの一滴だけだが、ワインを紙に零すのだ。白い紙にワインの赤紫が滲んでいく。血の滴りのえげつない丸みとは違う、何処かか弱げな、形のない形を描く。そう、ハンカチに広がる血の涙の滲みにも似た、夢のような幻想にじっくりと眺め入るのである。)
ウイスキーの琥珀色のあの濃密なる神秘。醸造の過程で無色透明のはずの原酒が琥珀に生まれ変わる瞬間の奇跡に、いつか立ち会いたい。そのウイスキーをグラスで傾ける時も、画用紙を用意して、色をトコトン堪能する。香りを嗅覚中枢に、脳味噌に漲らせる。
でも、今はワインだ。
ワインはグラスに三分の一ほど。静かに傾け、ディスクと呼ばれるワインの表面をまず、見透かす。透明でなければいけない。濁りがあってはならない。くすみが微かでもあったら、失格である。
また、ディスクの厚みを確認する作業も大切な過程だ。
ふむ、十分な厚みがある。熟成されたワインの証拠だ。コクのあることが保障されたも同然なのである。
テーブルに脱ぎ捨てられたドレス、いや、ただの画用紙だった…、その白い世界を背景に色合いや色の濃さを観る。
心は急(せ)いている。逸る心を抑えるのが大変だ。涙を見たいのだ。ワインの涙を。
ワインをグラスをゆっくり回すことで、ワインを優雅に転がしてみる。すると、ワイングラスの壁面に縋りつくように残る微量のワインが見える。やがてはディスクに覆われたワインの海に流れ落ち混ざっていくのだけれど。
その壁面に流れるワインをワインの涙と称するわけだ。時にワインの脚と呼ぶこともある。脚が若い女性の脚を意味するならいいけれど、脚だけでははっきりしない。だから、ワインの涙という呼称が相応しいに違いないと思う。
不意に窓を叩く音がする。カチンという金属音…。否、氷の罅割れたような、何処か親しみのある音。
ふと、遠い昔を思い出す。
姉と喧嘩した夜のことを。
あれは、近所の小母さんにもらった羊羹をめぐっての姉弟喧嘩だった。あまりに小さい切れなので、誰が食べるかで、奪い合いになったのだった。
いや、その前に、羊羹は、もっとたくさんあったはずなのだ。けれど、あの日、学校で雪合戦をやっていて帰りが遅くなった。帰宅してみると、姉がいる。いないはずの姉が。確か、そろばん塾に行く日のはずなのに、なぜ、居たのだろう。
でも、驚いたのは、炬燵板の上にあった羊羹だった。そうだ、小母さんはちゃんと箱に入った一本の羊羹を持ってきてくれたのだった。それを切り分け、皿に盛り、みんなで食べていた。父はいなかったので、母と近所の小母さん夫婦も一緒にということで食べていたらしい。
残ったのが、小母さんの分の一切れ。事情は忘れたが、小母さんは全く手を付けないまま、旦那さんと一緒に帰っていった。
<事件>が起きたのは、それからだった。どうしてボクの分を取っていてくれなかったの。あんたは、今日は遅いはずじゃなかったの、と姉。姉ちゃんだって、今日は算盤じゃなかったの。今日は、雪がひどいから塾は休みにするって電話があったのよ。そういうあんたは、どうなのよ。学校の帰り、みんなで映画に行くって言ってなかったっけ。ボクは、言われてカッとなってしまった。約束を忘れていたことに、今になって気付いたからだ。雪合戦が楽しくて夢中になりすぎて、約束のことなど、きれいさっぱり忘れ去っていたのだった。ボクは…、ボクは…。そんなことより、羊羹、ボクだって食べたいよー。
口喧嘩しているうちに気付いたのは、姉も帰宅したばかりで、羊羹はまるで食べていないことだった。姉も甘いものには目がない。
けれど、ボクは、なんとなく姉がもう、既に食べているのだと思い込んでいた。思いたかったのかもしれない。姉が食べたのなら、残りはボクのものだと言い張れるわけだ。
姉も食べると言い張った。姉の口の回転には敵わないけど、意地だけはボクも負けてはいなかった。母は呆れて、黙っていた。とうとう、バカらしくなったのか台所に引っ込んでしまった。
ボクと姉は二人、延々と喧嘩し続けた。終いにボクは姉の口に負けそうになった。ついにはボクは情ないことに泣き出してしまった。ボクだ、ボクが食べるんだ、羊羹はボクのもんなんだ。姉ちゃんは他に食べるもん、あるだろー!
そのうち、母が姉ちゃんを台所に呼んだ。泣きじゃくるボクを他所に、何事か話している。そのうち、姉ちゃんは喧嘩している最中より顔を真っ赤にさせた。「あんたは姉ちゃんなんだから…。」という一言だけが聞えてきた。
そして、羊羹なんか、アンニャにあげるわよ! そう言い捨てて、目を真っ赤にして寝室に引っ込んでいった。
母ちゃんも、臍を曲げきったボクを置きざりにして、台所で食器などを洗っていた。あんた、食べられ、と、一言、優しく言われたような気がする…。
ボクは、居間で一人になった。炬燵板の上には、一切れの羊羹がある。目障りなほどに色鮮やかな焦げ茶色の羊羹。濡れているような、それでいて乾くことを知らないかのような濃密なる甘美の塊。
ボクは、誰も居ない部屋で炬燵に座り込み、しばらくは羊羹を眺めていた。久しぶりに見る御馳走だった。お八つに羊羹が出たのは、いつのことだったか。
喉から手が出るほどに欲しい羊羹。
でも、手が出ない。
出ないはずが、出てしまった。食べたかった。
ボクは姉ちゃんが断念したこと、お袋に言い含められたことを幼いながら直感していた。
でも、ボクの我が侭が勝った。勝ったけれど、気まずい。気まずいけれど、羊羹の魅力には勝てない。
末っ子の甘えん坊の勝利。
羊羹がどんな味だったのか、さっぱり覚えていない。
覚えているのは、シーンと静まり返った居間の空虚感だけ。お袋も、いつの間にか台所から姿を消していた。姉のところに行ったのだろうか。
そうだ、寝室で瀬戸物か何かが割られるような音がしたので、慌てて母ちゃんが飛んでいったのだった。
味わうこと。一人で味わうこと。ボクは、あの日、一人で味わう楽しみを覚えてしまったのだ。
シューという音が耳に障った。後ろで薬缶が沸き立っている。
目の前には赤ワインがある。今はテイスティングを楽しむ時なのだ。
さあ、続けよう。たった一人であることを味わうというテイスティングを。
でも、面倒になって、ワインを一気に飲み乾してしまった。
グラスの壁面に一杯の涙が流れるのを見たくなって。
もう、姉も母もいないのだ。
[テイスティングは、「ワインテイスティングの技法」というサイトの、「第3章 ワインテイスティングを始める(実践編)」の頁を参照させてもらいました。]
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