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2005/01/14

冬の薔薇

 夢を見ていたようだった。そうに違いない。だけど、あまりに長い夢で、一つの場面や光景が記憶に鮮やかに刻まれるのではなく、何処か遠い世界を旅してきたような気がする。
 遠い世界。思い返すとセピア色に褪せてしまって、無理にも覗き込もうとすると、波の砂浜に染み入るように消え果ていく。
 あれは、あの人だ。あの人が現れたんだ。いや、あの人に再会した。夢なんかじゃない。本当に会ったんだ!
 そう思えてならなかった。
 部屋の中は水銀灯が煌々と照っている。
 虚ろに眺められてしまう壁の汚れ。埃を被った棚の上の書類。あの封筒の中には何が詰まっているのか、今では思い出すこともできない。
 冷え冷えとしている。蒲団に潜り込みたい。蛍光の灯りの白々しさが、寒さを剥き出しにしている。
 あの人は会いに来たのだろうか。それとも、いつだったかのあの人と一緒に居た風景が蘇ってきただけなのか。
 夢の中で、何を語らっていたのか。何を言い、何をあの人は応えていたのか。
 明かりを消してしまいたかった。でも、ウソっぽいほどの明るさを失いたくなかった。胸のうちに、やっと逃れたんじゃないか。あの日々とようやく縁を切ることが出来た。あの人を青い海に返して、それとも森の闇に沈めて、それで清算したつもりでいる。
 今更、現れて欲しくない。
 今のこの寂しさに吐きそうになっているとしても、それでも、一人を生きる。いや、生きるんじゃなく、命の灯火をそっと吹き消す。最後の吐息で蝋燭の焔を揺らす。魂を吐き出してしまう。肺胞を窒息させる。真っ暗な心を白熱する孤独で焼き切ってしまう。
 今、やっとそれがうまくいきつつある。あと、もう少しなのだ。
 化粧室のドアに掛かるワインレッドのバスローブ。セピアの世界で唯一、それだけが己の色を持つ。バスタブに一つ、また一つと伝い落ちていく深紅の滴たち。湯煙に香り立つ女の体臭と薔薇のフレグランス。
 あの日、あのあと、白いマンションを立ち去り、朝焼けの街を彷徨った。朝霧に全てを掻き消そうと思った。ボクだけのモノ。そう、あの人はボクだけのモノになったのだ。誰にも所有されない、姿も見えないモノとなった。なぜなら最後の姿を見たのはボクなのだから。
 何処をどう歩いたのだったろう。何処かのビルの谷間の更地に立っていた。杭が打たれ、ご丁寧にも鉄条網で仕切られている。そこがそんなに大切な場所なのか。聖域だとでもいうのか。
 不意に視線を感じた。突き刺すようだった。そう、まるで薔薇の棘のような眼差し。恨むような。あの人の末期の喘ぎと口から噴出す泡。
 出窓には、一輪の薔薇が飾ってあった。涸れ果てた深紅の薔薇。まるで遠い昔、冬の到来間近な或る日に田舎で見た野バラのようだった。萎れて見向きもされない薔薇。
 だけど、棘だけは、やたらと目立つ野バラ。
 ああ、そうだ、夢の最後でボクを刺したのは野バラの棘だったのだ。胸には、あの日のあの人と同じような深紅の薔薇が咲き零れた。ボクの命の灯火も流れ去った。
 やっと、ボクたちは一緒になれる。
 いや、なったのだ。長い長い夜の旅の果てにボクもあの人のいる白々とした世界へ迎え入れられたのだ。
 永遠に共に居る。そのためには、部屋の中を光で一杯にする必要がある。ボクの目を焼き尽くすほどに眩い光の洪水が要る。水銀の光の海に溺れる。鬱勃と蠢く心なんてものを抹殺する。
 それが分かるからこそ、ボクは、白けた部屋の中、天井を飽くことなく眺めつづけるのだろう。

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