雪の古城にて(1)
あれはいつのことだったろう。確か高校生の頃、友人と二人で小さな旅行をした。
友人に誘われての日帰りの旅。ボクは友が恋をしていることを知っていた。
なぜって、ボクは、彼の恋人に相談されたことがあるから。
それは、ある秋の日の午後、空は真っ青に晴れ上がっていて、秋の高く透明な光を惜しげもなく降り注いでいた。
ボクは、クラブ活動など一切しない帰宅組。といっても、真っ直ぐ内に帰ってもすることがない。なので、放課後も、校庭で練習に余念のない連中を、どうしてスポーツに熱中できるのか、などと漫然と思いながら眺めていた。
羨ましいような、でも、面倒臭いような。仲間の輪に加わりたいような、でも、一人の気楽さを失う気には到底なれない。
体育館のコンクリートの階段に腰掛け、テニスボールの音が遠くにあるコートから響いてくる。かと思うと、野球部の連中の、妙に喉を潰したような声が耳を障る。
高い日。でも、一気に暮れる予感が、なぜというわけもなく漂っている。
空っぽすぎるような空の高さに、ボクは眩暈しそうだった。
すると、突然、女の子の声がする。
「そこ、坐って、いい」
彼女などいないボクに声を掛ける女の子。嬉しさと驚きとで、声のほうを見遣ると、それはサッチャンだった。
サッチャンなんて、馴れ馴れしい呼び方をするが、それはボクの友人がそう呼んでいるからで、ボクはというと、ただ、無愛想を装ったような声で、「どうぞ」と言うのが精一杯だった。
ボクは、押し黙っている。何を喋ればいいのか、さっぱり分からない。冗談の一つも言えるような奴じゃないんだ。
が、サッチャン、いや、紗代さんも、頷くボクにただ黙って隣りに腰掛けるだけ。
その行為がとってもさまになっている。
スカートの裾がふわっとして、女性が傍にいるという感覚が、風に乗って広がる。
ボクは、スカートの裾を腕で折り込んで坐る彼女に、あれ、スカート、汚れちゃうんじゃないのか、などと頓珍漢な心配をしていたっけ。
だって、男なら、立ち上がった際に、お尻等をパンパンと叩(はた)けばそれで済むけど、女性はどうなんだろう…。
黙り込むボクに辟易したのか、それとも、ただ、喋るタイミングを待っていただけなのか、紗代さんは、ポツポツと語り出した。
「あのね、彼のことで相談があるの」
ボクは失望もあって、思わず、「彼?」と聞き返してしまった。
「ええ。わたしのこと、聞いてるでしょ。わたしたち、付き合ってるの。」
わたしたち…。なんて羨ましい言葉。それも、奴のいない場所で彼女が「わたしたち」なんて、当然のように言う。ボクにもいつかは、そんな女(ひと)が現れるのだろうか。
「ああ、聞いてる。知ってるよ。」
といっても、ボクは、奴から彼女のことは詳しくは聞いたことがない。ただ、彼女がいる、それは紗代さんであり、下校も時間を示し合わせていることは知っていた。でも、どんな付き合いなのか、うまくいっているのか、そんな仔細など知る由もない。
二人はそれぞれにテニス部であり、華道部で、帰宅組のボクには、二人が連れ合って歩く姿も、一度か二度、目にしたことがあったかどうか、だった。
ボクは、暗くなる前に帰る…。少なくとも、学校は去る。公園をぶらついたり、繁華街をうろついたり、映画館を梯子してみたり、時間をどう潰すかということで頭が一杯なのだった。
こんなボクと奴は親しい気でいる。ボク等は親友だとさえ思っている。いつぞやは、打ち明けたいことがある、近いうちに相談に乗ってくれ、などとも言われたりする。
ボク等。それは、わたしたちと同じほどに、ボクには縁のない言葉なのに…。
どうして、みんな、自分たちのことを複数形で表現できるんだろう。家族。友人。ああ、そういえば、ボクも友人と言っている。友とも。でも、それはそう表現できる相手が、ボクにだっていることを自分に示したいからに過ぎない気がする。弱いからなんだ。
だったら、他の人も弱いからボク等とか、わたしたち、なんて言うのだろうか。
遠い世界から声が聞えてくる。ボクは不意を打たれたようで、一瞬、度を失った。
「あのね、彼ね、最近、冷たいの。なかなか付き合ってくれないの。」
それがどうした、などとは言えない。ボクは、先を促すように彼女の顔を覗き込む。ややカールした長い髪が顔の半分を隠している。美人だ。唇が素敵だ。肌が白い。胸元が蝶々結びされたリボンでしっかり隠れている。でも、喉元の白さまでは隠せない。ああ、これが奴の彼女なのだ。わたしたちの片割れなのだ。離れていても、二人の間には、目に見えない糸で結ばれている。赤い糸、ピアノ線より細く、それでいて伸び縮みする糸、そう、離れるほどに糸はピンと張り詰めて、二人を引き合う力が増す。
「彼ね、今は、ボク等は、受験生だから。離れていた方がいい、なんて言うの。ねえ、わたしって受験勉強の邪魔なの。男の人って、そんなふうに考えるものなの。」
そんなことは分からない。第一、ボクは受験生じゃない。第二に、ボクには彼女がいない。よって、奴の発想法など、分かるはずがない!
ボクは、そう言ってやりたかった。妬みもあるし、悔しいし、二人の仲を引き裂きたいし。どうしてボクじゃなく、奴なのかを彼女に問い詰めたいほどの気持ちだ。
「男にとって、進路の決まる今って、大事なんだよ。彼も必死なんじゃないか。決して、キミのこと、嫌いなわけじゃないと思うよ。」
本当だろうか。奴に真意を確かめたことがあるのか。いい加減なこと、言って、あとで取り返しがつかないってことはないのか。でも、ボクも、いい格好しいになりたかった。知ったかぶりを言って、彼女の前で男になりたかった。
ボクは、その後、彼女とどんな会話をしたのか、覚えていない。口から出任せを言ったとまでは思いたくないけれど、さりとて、責任の持てる発言や忠告をしたとも思えない。
やがて、小さく「ありがとう」と言い、覚束なげな足取りで去っていく彼女の後ろ姿を見ることになった。
彼女は、お尻を払うこともなかった。なんとなく、ガッカリした。お尻の辺りが、テラテラしていた。それが彼女について覚えている最後の印象なのだった。
それからしばらくして…。でも、しばらくとは言いながら、どれほどの間が空いていたのかは分からない。でも、秋の真っ盛りに彼女の相談を受けたのが、今度、奴に相談を持ちかけられたのは、冬の気配が漂ってきそうな頃合いになっていたことは覚えている。
男同士の、つまらない話だった。
「お前、オナニー、やってるか。」
ざっくばらんを装うのが奴の常套手段だった。単刀直入に話を肝心なところへ持ち込む。おっちょこちょいで、時にひょうきんで、でも、真面目に進学のため、勉学にも励んでいる。糸の切れた凧のように、目標を見失っているボクとはまるで違う世界へ、ドンドンと踏み込んでいく。
その度に、ボクは置いてけ堀を食らってしまう。進学も恋も男の世界も。
当惑しながらも、ああ、やってるよ、と答えるしかなかった。うそを言う必要もない。
「オレ、激しくてさ、日に何度もだよ。お前はどうだ。」
そんなこと、なぜ、オレに話をするのか…。と不審に思った瞬間だった。なんだ、奴、受験する身だから、今は二人はあまり付き合わないほうがいいってのは、つまりは、彼女が傍にいると、欲求不満が募って辛いからなのか! と勘付いた。
「オレか、オレは、やっぱり、そうだよ。仕方ないじゃないか。多いのは自然なんじゃないか。」
オレは、何故か、この話題にビビッテしまって、一般論に持ち込もうとした。
「男は、でも、きっと女もだろうけど、若い時期は、欲望がムンムンしているものさ。お前が多いったって、別に変じゃないよ。」
「そうか。」そう、呟いて、奴は安堵したように見えた。
ボクは、聞きかじりの哲学者か誰かの言葉を持ち出した。倫理社会か何かの教科書に書いてあった言葉だった。
「お前さ、昇華って知ってるか。」
「昇華?」
「ああ、浄化とも言うけど、ま、原語だとカタルシスなのかな。」
「カタルシス?」
「行き場を失ったような、遣る瀬無いような欲望とか本能とか衝動とか、ま、ストレスって奴をさ、単純に行動に、つまりさ、性欲だったらあHとかさ、オナニーに耽るんじゃなくて、芸術とか文学とか音楽とか、そういった高尚なものへの表現行為に転換することさ。」
「ふうん。それっていいな。」
ボクには何がいいのか、分からなかった。口から出任せなのだ。自分にはまるで出来もしない理屈に過ぎない。仮に出来たって、何年も何十年も掛かるかもしれないのだし。
その後、何か、お喋りを続けた。何を語らったのだろうか。
それから、しばらくして、奴から、どうだ、雪の古城公園なんか、散歩してみないかと誘われたのだった。
奴は、どのように彼女のこと、オナニーを昇華したのだろうか。
そんなこと、できるはずもないのに。ボクはとっくにめげてしまって、その世界に溺れてしまっているというのに。
まさか、奴、ボクが昇華しているとでも思っているのだろうか。
列車を降りると、古城のある町は、ボクたちの町より雪が降り積もっていた。
長靴で歩道を歩くと、雪に靴がごぶって、ギュッギュッとか、キュッキュッといった雪道特有の音が聞えてくる。雪が踏み固められる音なのか、それとも、固められる際に、雪の層の中に篭っていた空気が漏れ出す音なのか。
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