猫じゃらし!のネロ
そうだ、ネロとスピッツの追っ駆けっこで思い出したことがある。
あれは、何がきっかけだったのか。オレが、いや、ボクが保育所から道草して帰るのが癖になっていたってこと、話したよね。近所の兄ちゃんの影響で、ああ、ウソ、ついちゃいけないね。姉ちゃんの日記を盗み見たという疑惑で、姉ちゃんとの仲が悪くなったってことも。
姉ちゃん、根に持つんだね。あれから、ボクと姉ちゃんは、ことあるごとに喧嘩するようになってしまった。朝はトイレにどっちが先に入るかとか、歯を磨くのに、どっちが洗面台を先に占領するかとか…。
食卓に向かっても、目玉焼きの大きさがどうだとか、刻んだキャベツの盛り上がりがどうだとか…。かあちゃんもうんざりしている。
一番、かあちゃんが呆気に取られたような顔をしていたのは、たまたまハンバーグだったかを父ちゃんが残業して食べ残して、朝の食卓に出た時だった。
ハンバーグを出したはいいけど、さて、どうやって二人で均等に分ける問題で、姉ちゃんなど、ナイフを振り回したりして、延々議論し、とうとう、二キロほどまで量れる台秤を持ち出してきて、一グラムまできっちり計って分けているのを見たときだった。
ボクらは、母ちゃんのそんな表情に気付いていたはずだけど、無視していた。というより、本当は眼中になかったんだと思う。それより、姉ちゃんとボクとは面子を賭けて戦っていたんだ。
あ、今、思い出した。ボクは、その頃、食卓じゃ、必ず母ちゃんの隣りの席に坐っていた。それが暗黙の決まりになっていた。なのに、あの日から、姉ちゃんは、ボクが洗面所から戻ってきたら、さり気なく、母ちゃんの隣りに坐ることが増えた。
ボクは、そこはボクの席だ! とは言えなかった。母ちゃんの隣りが好きだけど、甘ったれていると思われたくなくて、目がウルウルしそうなのをグッと堪えて、普段なら姉ちゃんの席に坐る。
姉ちゃん、(お給仕、手伝わないとねー。姉さんだもんねー。)なんて言って、澄ましている。母ちゃんも、いい加減、呆れ果てちゃって、何も言わない。一度だけ、姉さんなんだから、大人になりなさいよ、なんて愚痴なのか忠告なのか、姉ちゃんに意見していたような気がするけど、姉ちゃん、聞く耳なしの態(てい)。
ということで、母ちゃん、もう、勝手にしなさいと腹を決めたみたいだった。
父ちゃんは、ボクらが取っ組み合いをし始めると、外でやれ! と一喝するだけ。口喧嘩しても、うるさい! 外へ行ってやれ! のワンパターン。
ネロも、我、関せずとばかりに我が侭のし放題。ボク、本当にネロが羨ましかった。ネロに許されるのに、どうしてボクはダメなのって、真剣に悩んだこともあった。拗ねて、裏の小さな庭の端っこで、植木の根っ子を穿り返していたりした。
すると、当て付けみたいにネロがやってくる。そのうち、ボクの真似をしたのか、ネロの奴の方が本気になって、土を前足でガリガリし始めてしまった。ちょうど、そこに母ちゃんがやってきた。ネロ! と、まるで父ちゃんがボクらを叱るみたいに一喝。ネロは、すごすごというか、素知らぬ顔をして、退散していく。
ボクは、思わず、両手を後ろにやって、ネロの奴、困ったもんだねー、なんて、いい子ちゃんぶってみたりして。
或る日だった。いつものように保育所を出てから、道草をして帰り、玄関先から、「母ちゃん、お八つ!」って、叫んだ。
けど、返事がない。返事がないどころじゃなく、家には人気がまるで感じられない。
灯りのついていない廊下の奥が、真っ暗で、ひんやりしていて、まるで赤の他人の家のようだった。
ボクは、家の玄関先で途方に暮れてしまった。鍵は開いている…、確か開いていたのだから、家の近くに母ちゃんがいるはずだと、ボクは、石畳の上で佇んだり、道端の石ころで石蹴りしたりして、所在無さを誤魔化していた。
しばらくして、隣りの小母さんがやってきた。
「あ、ボク、お母さんね、入院したのよ。病院に行ったの。さっきまで、ここでボクのこと、待ってたんだけど、なかなか来ないし、保育所に連絡しても、とっくに帰ったという話だったらしいし、もう、何処、行ってたのよ。さ、一緒に病院、行きましょうね。」
ボクは、ビックリした。昨日まで、いや、今朝まで、あんなに元気だったのに、どうして? 何があったんだろう?
「姉ちゃんは?」と、小母さんに聞くと、
「あら、お姉さんにはすぐに連絡が取れたから、もう、学校から真っ直ぐ、病院に行ってるわよ。ほら、あの、近所の兄さんが盲腸で入院した○※病院。」
ボクは、この期に及んでも、姉ちゃんに先を越された、なんて感じていたような。
「母ちゃん、大丈夫なのかな。」
「お母さん、うん、大丈夫みたいよ。ちょっと、疲れが出たんじゃない。神経が胃に来たとか何とかで、心労って言うのかな。でも、一日、点滴を受けたら、退院していいんだって、おばさん、お母さんから電話、もらったもの。」
疲れが出た…。ボクは、てっきり、ボクのせいだと思った。ボクらのせいなんだ。ボクと姉ちゃんのせいなんだと思った。シンロウという言葉がボクの頭の中をグルグル、駆け巡っていたのを思い出す。
病院に行ったら、玄関には姉ちゃんが立っていた。小母さんは、子供を迎えに行かなくちゃいけないからと、姉ちゃんに言って、すぐに車で帰っていった。
ボクは、姉ちゃんと暗黙のうちに休戦協定を結んだ。分からないけど、きっと、姉ちゃんも、自分のせいだと感じていたのだと思う。
恐る恐る病室に入ると、母ちゃんは、いつものように、いや、いつも以上の顔色で、ボクは、心底、安心した。
(よかった! ひどい病気じゃなくて。)
あの、小母さんに言われたシンロウという言葉が頭にこびり付いているボクは、母ちゃんが、そのままどうにかなったら、ボクのせいだ、一生、後悔の念から立ち直れないと思っていたんだ。
あれは、ボクが言ったのか、それとも、姉ちゃんが言ったのか、記憶が曖昧だ。
「母ちゃん、御免ね、これからは、喧嘩したりしないからね」と、ボクが言ったんだろうか。それとも、姉ちゃんが、しおらしく言ったんだっけか。
母ちゃんも、ベッドの脇でボクら二人が神妙にしているのを見て、微笑んでいた。
微笑んでいた…、というのは、ボクの見立て違いだったってことは、後になって分かったけれど。
内心、ほくそえんでいたし、心のもっと違う場所では、泣いてもいた。
何年も経って、ひょんなことから知ったのだけど、実は、出張していた父ちゃんが浮気をしたと、母さんが思い込んでしまったらしいのだ。そういえば、病院へも父ちゃんは、とうとう、見舞いに来なかった。一泊だけの入院で、見舞いには間に合わなかったっていうことなのか。その辺の事情は、今もって、分からない。
でも、ボクらは、そんな状況なんて、まるで見えてなかった。きっと、姉ちゃんにも。
その晩は、小母さんが迎えに来てくれて、ボクと姉ちゃんは、小母さんが泊めてあげるという誘いにも乗らず、我が家で寝ることにした。
寝所で姉ちゃんと、夜、遅くまで語り合ったのを覚えている。わたしたち、もっと、大人にならなければ、ね。そんなことを姉ちゃんが言えば、ボクも、そうだよね、ボクだって、男の子なんだ、我慢も覚えないと。
すると、男の子だから、という言葉に姉ちゃんは、何か言いたそうな顔を一瞬、見せたけど、押し黙って、薄闇に朧に見える天井の梁か何かを眺めていた…。
翌朝、また、ボクらは小母さんに連れられて、病院へ向かった。姉ちゃんと二人で行けるからって言ったんだけど、車で子供を送りに行くから、そのついでだからって、半ば強引に乗せられて行ったのだった。
ボクらが病室に行くと、もう、母ちゃんは、退院の準備が整っていて、(病室の窓から、眼下の様子が見えていた。あとで小母さんにお礼しないとね。憂鬱。)などと言っていたような記憶がある。
それこそ、乗っていたのは、ものの数分で基本料金の距離だと分かっていたけれど、タクシーに乗って帰った。(今日は、奮発よ)と、ボクらに向かってなのか、呟いていた。
母ちゃんの顔見知りの運転手らしく、世間話やら、軽くてよかったですね、なんて、お見舞いやら慰めの言葉やらを掛け合いしていた。
家に着いてからが大変だった。安心したら、なんだか、緊張の糸が切れてしまったみたいだった。隣りに姉ちゃんが立っていて、偉そうに母ちゃんを先導しようとしている。
(なんて、生意気なんだろう!)ボクの脳裏にあるのは、悔しさだけだった。
(ボクが先に家に入る、入って母ちゃんを案内する!)
だけど、一歩、姉ちゃんに先を越されてしまった。ボクは、母ちゃんの荷物や花束に目をつけた。病院でお見舞いに貰った花束を三つも両脇に抱え、その上、一泊とはいえ、ボストンバッグも腕にぶら下げている。
(母ちゃん、ボクが荷物、持つよ)
すると、それを見ていた姉ちゃんが玄関から飛び出してきて、あんたには無理よ、なんて、言い掛かりをつけくる。
とうとう、また、喧嘩が始まってしまった。元の木阿弥だ。
玄関先には、花束の紐がほどけて、薔薇やらカーネーションやらが散乱した。
そこへ、軒先の道路からスピッツの奴が飛び込んできた。そして、花束を口に咥えて走り去っていったのだった。スピッツの奴の家の庭に咲く花の仲間だとでも思ったのだろうか。
ボクらは慌てて、追い駆けたけれど、呆気なく見失ってしまった。どうせ、あの家に逃げ込んだに決まっているのだけど。すると、何処から来たのか、ネロがボクらを追い越し、スピッツの奴を追い駆け始めた。
ネロ! ボクらは、ネロのことを昨夜からすっかり、忘れていた。姉ちゃんは、もともとネロと相性が悪いから、目の前に姿を現さない限り、ネロのことは話題にしないし。
そういえば、昨夜だって、ネロの姿を見かけなかったっけ…。
ボクは、ネロの消え去った方へ走っていった。もう、母ちゃんは大丈夫なんだし、姉ちゃんの好きにしろ、なんて、半ば、自棄だった。
ネロにはすぐに追いついたように記憶する。というのは、スピッツの家ではなく、家の近所の空き地にネロとスピッツがいて、真っ赤な薔薇の花を口に咥えたまま走るスピッツをネロが追い駆けているのだった。空き地は、ススキやらエノコロ草やら、名前の知れない雑草なんかが生い茂っていて、まるで猫じゃらしの野だった。
その野に、深紅の花びらが、数知れず、散らばっている。
そこを誰かが見かけたなら、それはそれは不思議な光景だったろう。
そうだ、我が家に来た当初は、ボクはネロと猫じゃらしでさんざん遊んだっけ。
ボクも、仲間入りした。もう、三匹の追いかけっこだった。いいんだ。母ちゃんも無事だったんだし、姉ちゃんのことなんか、放っておけばいいだ。ボクは、青空のもと、思いっきり、翔けるんだ!
[本作品は、連作「黒猫ネロ」の「イチジクのネロ」に続く第七弾です。(04/12/13 記)]
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