蒼い月(前編)
確かここよね、と祐子。
えっ、何が。
何も聞いてなかったのね。
いや、だから、その藤村だろ。
もう、透谷のことよ。
トウコク?
オレは、咄嗟のことで、トウコクなのか、ドウコクなのか、分からない。それより、祐子の「もう」と言った時の、吐く息の白さが妙に懐かしい。口から吐かれた言葉が小さな霧となって立ち上がり、呆気なく闇に消えていく。
日中の東京とは思えない風雪も、暮れなずむ頃には目覚めた時の夢のようで、何か狐に抓まれたような気分さえ覚えている。そのうちに、やっとトウコクとは、北村透谷のことだと気付く。
透谷って、自殺したのよね。縊死って奴ね。
そうか、首、括って死んだのか。
まあね。その自殺の場所が、この近くなのよ。
へえ、この公園の何処かで死んだってわけか。首を括った木が今も記念に残されているとか。
もう、茶化すんだから。透谷の自宅がこの界隈にあったのよ。彼、自宅の庭で死んだの。
そうか。
オレには、透谷に思い入れはない。透谷で知っていることというと、祐子に教えられたことだけ。それも、覚えている事といえば、奴が親友か知り合いの婚約者を奪ったという話だけ。
祐子とは大学に入って知り合った。オレは祐子より一年先輩に当たる。先輩といっても、大学に入った途端、学業には身の入らなくなったオレとは祐子はまるで大違いの生活を送っている。演劇部に入って、日々、仲間達と演劇論に口角泡立てて語り合っている祐子。何事にも真正面から取り組む祐子。物事を白か黒に分けたがる祐子。困難があったら乗り越えるため、妥協せずにぶつかっていく女。若々しさの持つエネルギーが小柄な体から発散している。
オレは、キャンパスには、暇を潰すために来ているようなものだった。広い講義室でも、後ろの方に座り、窓の外の光景をボンヤリ眺めている。大学に入るために頑張り通したけれど、さて、入ってみたら、何のために頑張ったのか、さっぱり見えないでいた。
そんな二人が出会ったのは、考えてみたら不思議な縁としか言いようがない。
が、透谷の話を虚ろな思いで聞き流していたように、出会いの切っ掛けも、オレも本当のところは分からないでいる。内心、祐子から近付いてきたように思うのだが、自惚れのようで、縁という言葉で誤魔化しているだけのような気がする。
オレは、物事を斑(まだら)模様に見てしまう。白黒に截然と分けるなど論外で、灰色や中間色に目が向いてしまう。別にニヒルを気取るわけじゃなく、煮え切らない性分が、断固たる結論を避け、曖昧なゾーンに逃げ隠れてしまっているだけのことだろう。
そんなオレにどうして祐子のような女が近付いてきたのだろう。付き合い始めて半年になるけれど、つい、聞きそびれてしまう。訳も分からず近付いてきたように、そのうちに、オレには理由も掴めないまま去っていくような気もする。風のように来り、風のように過ぎ去っていく。
が、半年、付き合ってみて、この女とは、案外と長く腐れ縁が続くように感じられたりもする。むしろ、取り憑いて離れないのではないかと、時折、妙な恐怖感めいたものさえ、覚える。
ねえ、この前も言ったけど、透谷って、Loveを初めて愛と訳した人なのよね。つまり、恋愛を日本に輸入した人なのよ。それまで、日本には愛なんて概念はなかったってわけね。そんな言葉がないんだから、恋愛なんてありえない…だとしたら、江戸時代とか明治の初めの男女の情熱って何だったのかしら。
オレはLoveなど鬱陶しかった。ラブより何より、欲しいものは、肉体? いや、それさえ鬱陶しい。祐子の肉体が眩しい。吐息が夜気に妖しく浮かんでは消えていく。佑子の魂のようでもある。魂とは、肉体の象徴。否、肉の影。いや、肉体そのものなのだ。
オレは祐子の体が欲しいのだろうか。
オレは、自分の体を持て余していたのだった。大学に合格が決まって、時間が余るようになると、ひょんな気紛れからアルバイトに精を出した。それは、親にバレたら叱られるかもしれないバイトだった。何処かのピンクチラシとか、不動産屋の売り出し広告のチラシなどを電話ボックス、電信柱に貼って回るのだ。当然ながら、自分の町では出来ず、馴染みのない町で、人目を憚りつつ、警察官やパトカーに注意を払いながら、それでもせっせと貼って回っていた。
ピンクチラシなど、写真を見て、文句を読んで、それだけで妄想が逞しくなってしまう。夜の闇の中でチラシの写真のモデルとなっている女の子のことを思い浮かべながら自慰に耽ったりした。エロ雑誌のもっとえげつない写真より、妙に現実感があって、想像力を刺激したのだった。 このチラシ一枚で、呼べば女を呼ぶことができる、そのことが生々しくて、脳味噌も何も膨らむばかりだった。
オレには愛より何より食欲だ。そう、餌が欲しいのだ。が、餌を前にして、ガツガツと貪り喰う自分の浅ましさが怖くて、欲望に駆られたオレが何を仕出かすか、自分で怖くてならず、ひたすらに欲情の沼を澱ませていくばかりだった。
チラシを電話ボックスの中で貼っていたそんな或る日、オレは視線を感じた。あ、誰かに見つかった、まずい、逃げなくっちゃ。が、その視線は粘りつくようであり、吸引するようでもあって、何故か、身動きがならないのだった。
恐る恐る視線を遣ると、開いた門の庭には洗濯物で一杯の駕篭を胸に女が居た。四月の始めの、やたらと暑い午後だった。女は下はジーンズ地のスカートで、上は胸の開いたTシャツだった。胸には汗が滲んでいた。オレは、やっとの思いでボックスを出たけれど、足が竦んでしまった。恐怖の故ではなかった。そこには、何か招くような紅蓮の焔が燃え上がっていた。
そのとき、オレは何をどうしたのか、さっぱり覚えていない。ただ、扇情の導くがままだった。女のシャツは汗で背中に張り付いていた。後ろから見ると、お尻の形が厚手の生地にぷっくりと浮かんでいる。二つの白い脹脛がゆっくりと動く。サンダルを履いている足の踵が歩を進めるたびにオレの目を叩く。歩くにつれ、お尻の二つの山が交互に盛り上がる。
オレは飛び掛っていったのだったろうか。それとも、ただ誘われていっただけなのだろうか。オレは女に向かっていった。一瞬、女は笑みを漏らしたように見えた。シャツを捲り上げると、真っ白な胸が広がった。夢中でかぶりついていった。広い海に飛び込んで溺れていく。熱い海。どこまでも溺れさせるようでいて、決して溺れさせない。いつまでも波の上を漂い彷徨う。
オレは、女のなすがままだった。女は自分でスカートを剥ぎ、オレのズボンを脱がし、火照るオレを導いてくれた。その時、初めてオレはトコトン、溺れ満ち溢れることが出来たのだった。
呆気ない出来事だった。なんだ、これだけのことだったのか。疲労感で足が重いような、その実、体が軽くなったような、長く抱えていた重荷を下ろしたような、掴み所のない気分のままに、気がついたら、オレはまた、チラシ貼りに精を出していた。
あれは夢だったのか。
一夜の夢に過ぎなかったのか。同じ場所に近付いてはいけないような気がして、チラシを決められたエリア以外の場所で貼ったりして、そのうちにバイトも止めた。大学生になったのだ。学生生活を送る町も、まるで違う。
オレは、たった一度のことに過ぎないのに、妙に自信めいた安堵感のような感覚が湧いているのを感じていた。あの日は、導かれるがままだったけれど、今度は、オレが主導権を取ることができる。
同時に、重荷を下ろしたら、今度は、自分が軽く感じられすぎて、逆に自分が取り留めのない人間に感じられだしたのである。
空っぽになったようだった。女とはその気になれば、いつだって。幻想に過ぎないとは分かっているけれど、重しが取れた以上は、羽根が生えてしまって、ふわつく自分をどうしようもなかった。何を悩んでいたのか。何を悩めばいいのか。そもそも、オレは何かを考えている人間なのか。
自分が伽藍堂(がらんどう)になったようだった。糸の切れた風船だった。一時は哲学さえ進路志望の候補にしていたのに、何を考えるべきかで惑うだけの、空疎を食む痩せた豚になっていたのだった。
そんなオレがどうして祐子と付き合えるだろう。祐子には情熱があった。問題には真正面から取り組む、眩しいほどの正直さがあった。オレの、空虚感を蔽うための、あまりの空っぽ振りに呆気に取られている実情を知られたくないばかりに深刻ぶったような表情を装っているのとは大違いに思えた。
そう、オレには祐子が今は重荷になっているのだった。
透谷はオレには手が余る。
恋愛と自由。透谷の時代なら、恋愛の自由が即ち人間性の自由の発露だったろうけれど、その気になれば能力さえあれば何でも可能なはずの今の時代において、恋愛など、成り立たないのではないか。封建制とか身分制、義理、柵(しがらみ)があってこそ、それに抗する恋愛であり自由の渇望なのだ。
でも、オレは一体、何を求めたらいいのか。自由? 恋愛? いつだって可能じゃないか。だったら、何も好き好んで恋愛などに飛び込んで自分を縛る必要がどこにあるというのか。それとも、現代においては、恋愛という頚木で自分の首を括れというのか。恋愛とは自由の圧殺なのではないか。恋愛で縊死すべしなのか。
そう、だからこそ、オレは祐子が鬱陶しいのだ。オレが欲しいのは、ただの空虚に過ぎなのかもしれない。空疎感という安逸をこそ、至上に感じているのかもしれない。
オレは恋愛など要らないのだ。別に女を肉欲の道具だなどとは思っていない。必要なら互いが道具になればいい。肉慾の衝動が生じたとき、喉が渇いたら水を飲むようにニーズの合う相手と交わればそれでいい。水を欲するから、餌を求めるからといって、水や食糧に恋愛などしないように、相手を対象をメニューを選り好みをするのがせいぜいであるように、肉慾という本能は肉慾のレベルで処理すればいい。恋愛とは全く別次元の、まるでカテゴリーの違う両者に過ぎない。そんな両者を無理に重ねようとするから、おかしなことになる…。
芝大神宮や増上寺の境内、そして三門を二人して歩いていた。未だ、5時を回ったばかりのはずなのに、すっかり宵闇に包まれていた。芝公園に立ったら、増上寺の甍の上にオレンジ色にライトアップされた2004と表示された東京タワーが姿を見せた。
透谷が、藤村があるいた芝界隈。そこをオレと祐子が歩いている。透谷は恋愛あってこその人の世だと高らかに謳い上げた。が、彼は人の婚約者を奪い取ってしまった。恋愛の自由とは、決まり事さえ簡単に破ってしまう自由でもある。誰かが自由を追求したら誰かが奪われる。奪い奪われることの勝手のし放題でもあった。その矛盾に透谷は敗れ去っていったのだ。内部生命をどこまでも追い求める。それは結構だ。が、恋愛も勝者と敗者が生まれてしまうことは、封建の世と同じなのだった。その責任を親や世間が負うか、人それぞれが個々に負うかの違いに他なからなかった。藤村は大学の既に婚約者のいる教え子と恋に落ち、世間の指弾を受けた。それも、彼の行動の結果なのだ。
透谷の時代とは違う。違う…はずなのに。
オレは自分が分からなかった。こんな不甲斐ないオレに何故に寄り添うのか、祐子の気持ちが分からなかった。
歩きながら、オレは次第に祐子に邪険に接するようになった。祐子が邪魔? 違う、オレの中にトグロを巻く気鬱が重苦しいのだった。
いつだったか、祐子は、恋愛って嫌い? などとオレに問い掛けたものだった。
恋愛なんて好きとか嫌いの対象じゃなく、気がついたら、陥っているのに気付くかどうかじゃないかと、その場は口を濁しておいた。オレは逃げたのだった。
島崎藤村は、陸奥の地・仙台に赴いて初めて清冽な詩を謳い上げることができた。女性の影の全くない世界に逃れ去ることで初めて自由を感じた。女の存在から遠ざかることでようやく恋愛の詩を書くことができたのではなかったか。
藤村の小説『新生』を読めばそのことが分かる。
オレは、もしかしたら祐子とは違う意味で恋愛を欲しているのかもしれない。恋愛至上の世界を高らかに歌ってみたいと願っているのかもしれない。だけど、そのためには祐子が、女が傍に居ては困るのだ。祐子が邪魔なのだ。
あの日、あの女に一皮剥かれたはずなのに、オレの中には、未だ、何か固い殻があった。殻がオレを窒息させそうになっていた。眩しいほどに真っ直ぐな祐子をオレは受け止めきれないでいる…。
そのうちに、オレの中で悪魔が囁いた。なんだか祐子を滅茶苦茶に虐めてやりたくなった。それも、肉体を持つ女としての祐子をではなく、佑子の謎めいた恋愛感情を傷付けたい一心で。それも、肉体しかないモノとしてのオレを曝け出すことで。
が、やったことといえば、自分に更に一枚、余分な殻を被せるだけなのだった。
オレは、あの春の日の女との事を洗いざらい喋った。それも、尾ひれをつけてまで。自虐的になっていた。自虐の余り、甘ったれのオレは、自分だけではなく、祐子をも、似たような憂鬱なる本能の色に染めてやりたくなった。
オレは、女には肉体しか求めない。いや、肉体という名の魂しか求めない。恋愛なって、御免被る。真剣ぶって恋愛ゴッコするなんて、真っ平御免だ!
ほとんど、自棄だった。あの日、女の中に劣情を吐き出した後の不毛感が蘇った。擦り切れた心。空っぽな胸。徒労感ばかりの漂う冬の夜の魂の彷徨。
芝公園の木立は、すっかり冬ざれていた。冬木立が寒々しい光景を一層、寂しく悲しい色に染めていた。葉っぱもすっかり落ち尽くした裸の木の枝の透き間から、煌々と照る月が垣間見えた。
月影は目に痛いほど冴え冴えとしている。
祐子に、言わずもがななことまで喋った後、オレは自分い無性に腹が立った。どうしようもなく恥ずかしくなった。居ても立っても居られなくなった。逃げるようにして、その場を去った。
☆文中の写真は、「βlog 写真倉庫の奥」からお借りしたものです。デジカメ歴は小生より短いくらいなのに、腕前は、御覧の通り。努力する人としない人の差は、開くばかりなのです。
北村透谷は、以下などを参照:
[「特別展 《北村透谷展-透谷文学と多摩の人びと》」]
島崎藤村は、「臼井吉見の『安曇野』を歩く」の中の「10.仙台の藤村」を参照。
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コメント
蒼い月(前編)読ませて頂きました
前編ですので、後編も読むつもりです。
透谷、藤村 明治は遠くなりにけり
ですが人の心はさほどには変わらない
ようにも思えます。
blogは弥一さんよりもう少し早く
始めましたが 一日で終わり塩漬け状態です。
まだあるか怪しいです。コンテンツに
自信がなく、blog不向きと判断。でも世はblog全盛
を迎えてます。では また。
投稿: 健ちゃん | 2004/12/31 09:32
健ちゃんさん、コメントをありがとう。明治の人は文学者に限らず、大転換の真っ只中にありました。小生、21世紀を迎え、一見すると小さな事件が頻発するだけのように見えて、価値観など社会の根底が揺らいでいるように思えます。タカ派の連中が跋扈し始めているのも、世相の不安があるから、居丈高な論調に乗っかって、自分が正しい、他人は間違っていると言い募りたい心理が作用している面もあると思っています。
その意味で明治の文学者達の試行錯誤は今の時代の我々には改めて慕わしく敬意を払うに値すると思うのです。
健ちゃんサイトは、般若心経の独自の解題という立派なソフトが厳然とあります。小生のように、ジタバタする必要などないのです。
投稿: 弥一 | 2004/12/31 12:29