ディープスペース:デルヴォー!
「ディープスペース(5):デルヴォー!」
オレは、夢の中で見た女を捜していた。
女はオレのすぐ傍にいたのだ。まるきり表情など見せてくれなかったけれど、目を閉じているオレの頬に女の肌の
温もりの放つ熱気が当たっていた。肌のかすかな石鹸の香りが脳裏を突っついていた。
目を開けると女は、遠ざかり、窓際で背を向けている。長い髪が梳けて流れている裸の背中。丸いお尻。長い脚。真っ白な肉体が宵闇にトルソーのようだった。
肉体というより大理石を思わせる木目の細かさが、冷酷さと紙一重の情の深さを想像させた。
そうだ、遠い国の山の中の湖のように冷たく固い水面。もしも触れたなら、指が凍るか、そうでなかったら、水に浸した指の先が切れ落ちてしまいそうだった。
オレは、女の肌に触れたくてならなかった。
もう一度、あの感覚を味わいたくてならなかった。
あの感覚…。そうだ、オレは、ガキの頃、たっぷりとあの感覚を味わっていた。あの感覚の世界にどっぷりと浸っていた。オレはあの感覚そのものだった。
何故なら、夜毎にあの女がガキだったオレを褥(しとね)の奥深くに招き入れ、火照る肌という褓(むつき)で包んでくれたのだ。
オレは窒息しそうだった。快感と苦痛とが入り交じっていて、もがきながらも、気がつくと、もっと闇の奥深くへ分け入っているのだった。深みの底には、真っ赤な闇の河が流れていて、オレを溺れさせてくれるのだった。
赤い水がオレの喉に情容赦なく流れ込む。それは長い舌先に違いなかった。情の滾る裸の心を剥き出しにした女のペニスなのだった。ベロがオレの喉の奥を、オレの体躯を、オレの足先を、そう指の先までも愛撫しているのだった。
そこには、一分の隙もない愛惜があった。女の孤独という匕首(あいくち)の切っ先がオレをズタズタに引き裂くのだった。
女は、ただただベロで舐めまわしているだけのつもりだったのだろうけれど、オレにしたら、刃先を全身に突き立てられているだけのことだった。
オレは体以上に心が血の涙を流していた。あまりの快楽の洪水に圧倒されていた。幼児に過ぎないオレには、到底耐えられるはずのない、横溢する愉楽だった。
オレの体も心も、満ち満ちた愉悦の淫靡なる液体に漲り、膨らみ、そして破裂してしまったのだ。
なのに、ベッドを共にした翌朝には、能面の顔をした見知らぬ女が、感情の一切を示すことなく、オレを躾ようとする。礼儀作法を徹底する。行儀の悪さなど、決して許さない。完璧なる子供であることを要求する。
母は、決して女などではなく、女性なのであり、妻なのであり、貞淑なる人形なのだった。
部屋の中に、一粒の埃をも許さないように、オレの肩にもフケも髪の一本も落ちていることを許さない。
そしてオレは夜の人形。玩具。無数の女達を追いかける亭主に気が狂った女の忠実なる臣下。そう、完璧なる奴隷であり主人なのだ。
館の中の、夜の果ての旅の宿でオレたちは不即不離の、そう一心同体の夢を営んでいたのだった。
女は窓の外にどんな風景を眺めていたのだったろう。
女が見ていたのは、都会の一角だとは、とても思えないほどに静まり返った街の石畳だったろうか。煉瓦の壁に変幻するガス灯の気紛れだったろうか。街路を縫って漂う霧に、昼間、二人で乗った機関車の蒸気を想っていたのかもしれない。
それとも、噴水広場の真ん中に立つ搭に、シンメトリーの極を極めた古代ギリシャ神殿の柱を想っていたのかもしれない。
屹立する柱のエンタシス。紺碧の空の下で玲瓏なる耀きを放つ柱身の胴部の磨き込まれた表面。
母は、いや、女は、決して自分のものとはなりえない運命を、あの遠い柱身に見ていたのだったろうか。
そうだ、オレは、息も詰まるほど間近だったエデンの園で絶望していた。熟れ切ったリンゴの実を、今生の限り口にすることはありえないのだという、悟りと似て非なる悲しい諦めの念。
浸っている。惑溺している。とっくに溺れて死んでしまっている心。
なのに、決して溺れることは許されない。禁忌の彼方に女はいる。肉と肉を雁字搦めにしていてさえも、女は遠い。遠くでなければならない。
オレは恐怖していた。自分が快楽を女から、いや、母の肉体から貪っているのではないか、貪っていることを母に悟られているのではないか、そんな二人の関係が父に、いや、世間に知れ渡ってしまうのではないか。
否、もしかして、とっくの昔に周知の事実になって、陰で哄笑されているのではないか。
もしかしたら、オレは、完璧なる世界を知っている。我が身心で、とことん、その至福なる球体の世界に生き尽くしてしまった。生き過ぎて、安息なる空気を吸い過ぎて、とうとう窒息してしまった。
オレが現実の世界を恐怖するのは、球体が壊れるからではないか。
オレは、視線が怖かった。きっと、母はオレ以上に世間の目が、父の目が怖かったのに違いない。だからこそ、感情を一切、押し殺していたのかもしれない。
それとも、単に冷え切った愛情が心の重石となり、女を湖の底深くへ沈めてしまったのかもしれない。
オレは、夢の中で見た女を追っていた。
あの女は間違いなく、いる。母を真似て窓際に立って、外を眺めていた時に、遠くの町角を過ぎ去り行くのを、オレは決して見逃してなどいないのだ。
見た瞬間、あの女だと直感した。オレの勘に狂いがあるはずがないのだ。あの女はオレに自分の存在を気付かせようとしたのだ。遠い日に禁忌の塒で絶望と歓喜の狭間で引き裂かれていた、あの…、底なし沼のような充実感。
その漲る悲しみへの郷愁の念を、あの女は掻き立てたのだった。
あの女に間違いない。あの女こそ、オレを救ってくれる。
オレは女を追い続けた。探し回った。どこかにいる。オレを待っている。オレを誘っている。オレを誘惑するために、姿を垣間見せたのだもの、見つからないわけがないのだ。
いた! やっぱりだ。オレを待っていた。石段を登りつめた天辺で、あの日のあの女のように背中を向けて、遠くを眺めている。優しげな曲線を描く肌も露わな肩、凪いだ海のような背中からお尻、柔らかな草原の輝き、誘って止まない懐かしき湿地。
幾度、オレはあの亀裂に夢を見たことだろう。呑み込まれ、吸われて、オレの精の全てはあの世に霧消していった。
脹脛の緩やかな膨らみ。まるでエンタシスだ。エクスタシーそのものだ。
オレは、女を目掛けてまっしぐらに駆けていった。今、このチャンスを逃したら、永遠に出会えないと感じられた。胸は焦がれていた。やっと、禁忌の海を渡りきることができる。息も絶え絶えの、情の根の涸れた心に潤いを導くことができる。パサパサに乾き、冷え切った心に生気を蘇らせることができる。
女の肩は、オレを待っている。微動だにしないで。オレに抱き竦められるのを今か今かと待ち焦がれているのだ。
オレは、息を弾ませて階段を登りきり、力一杯、女を抱き締めた。
その瞬間、夢は弾け、オレは崖から落ちていった。
(04/11/15 作)
[ デルボーとは、ポール・デルヴォー Paul Delvauxのことですが、名前、あるいは彼の世界と本作品の内容とは、架橋しようのないほど懸け離れているものと思います。尚、テーマ的に近い作品として「ディープタイム/ディープブルー」があります。 (04/12/12 記) ]
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