遠い海
あれはいつのことだったろう。近所の兄さんに海へ連れて行ってもらったことがある。
我が家からは数キロメートルほどしか離れていない。歩けば一時間以上はかかるけれど、自転車だったので、ゆっくり走っても二十分ほどだったか。
でも、その三十分にも満たない時間の長かったこと。
その後も、海へは何度も行っている。I浜は、ボクには思い出のたっぷり埋まった浜辺なのだ。
なのに、どうしてその時の浜が今も印象的なのか。
一つは、自転車のことがあった。自転車に補助輪なしで乗れるようになったら、海に連れてってやる、そう、兄ちゃんに言われていたのだ。多分、電車では家族で海水浴に行ったことがあるはずだけど、この足で、となると、あれが初めてだった。
ボクは晴れやかな気持ちだった。誇らしくて、もう、何処へでも行けそうな気がしていた。
自転車を漕いで、兄ちゃんの後を必死で追い駆けていった。兄ちゃんにしたら、振り返り振り返りで、ゆっくり走っていたのだろうけど、ボクは、目一杯だった。信号が赤になって、兄ちゃんが止まってくれるのを祈るように願っていたこともあった。
けれど、兄ちゃんは、信号が赤でも、周囲をチラッと見るだけで、さっさと交差点を渡ってしまう。ボクの目論見は呆気なく外れてしまう。
ボクの印象だと、その頃、道路事情が最悪だったはずだ。後から振り返ってみると、我が郷里に限らず、全国的に交通戦争と叫ばれ始めた頃で、交通死亡事故もいよいよ一万を越え始めていたのだった。
そんな中、補助輪をやっと卒業したばかりのボクを引き連れて、自転車で海へ、車のビュンビュン走る産業道路を走るなんて、無謀といえば無理があったのかもしれない。
ボクの朧な記憶だと、歩道と車道とを区別する白線も、まだ引かれていなかったはずだ。中央の白線があったかどうかさえ、記憶に定かではない。ダンプだけじゃなく、普通車だって排気ガスを濛々と吐き出していた。
ボクは汗だくだった。春先で陽気が良かったせいもあるけど、自転車を漕ぐのに必死だったせいもある。もしかしたらほとんどが冷や汗だったかもしれない。
そうだ、今、思い出したけど、道路が緩やかに曲がっているせいもあってか、一度、兄ちゃんの姿を見失ったことがあった。一瞬、ボクは、多分、その一年前だったかに家の近所を歩き回っていて、迷子になってしまった時のことを連想してしまった。
散歩に出た時は、昼下がりだったはずだけど、気が付いたら、すっかり宵闇に包まれていて、そんな中、ボクは見知らぬ町の何処かを滅茶苦茶に歩き回った。見たことのあるような風景、でも、見知らぬ風景、似たような家並み、だけど、町の名前も、歩いている人も、何一つ、馴染みのものがない。行けども行けども、堂々巡りで、同じような光景がボクの眼前に広がっている。
まるでボクは、町という怪物に嘲笑われているようだった。玩具にされている。世の中に弄ばれている。誰一人、味方になってくれる人が居ない。知っている人が居てさえも、ボクを素知らぬ顔をして通り過ぎていく。ボクは、世界で一人ぼっちだ。ボクは見捨てられてしまった。童話のようには、ひょんなところから、優しい誰かが現れてはくれないし、素敵な女の子に出くわすこともない。この世界は物語の中のいつか結末の来る閉じた世界とは違う。
そうじゃなく、ボクは、放り出されている。このまま、闇の彼方へ消え去っても、世界は微動だにしない。ボクは相手になどされていない。
あれから、ボクは、童話も昔話も嫌いになった。もっとストーリーのハチャメチャな漫画しか読まなくなった…。
兄ちゃん、もしかしたら、ボクのこと、連れ出しておいて、他所の町で置いてきぼりを食らわすんじゃないか、ふと、そんな疑念に囚われた。
が、すぐに、兄ちゃんの大きな背中が見えた。兄ちゃんも背中が汗でびっしょり濡れていて、シャツが張り付いている。あの背中に追いつくんだ!
その後も、幾度かゆったりと曲がりくねる道路の途中で兄ちゃんの姿を見失ったけど、もう、驚くことはなかった。幸いにも、脇道が少なくて、道をまっすぐ走っていれば追いつくってことが分かってきたのだ。脇にはデッカイ工場や学校、バスの車庫などがある。我が町を離れると、民家も、道端に散在しているだけで、見通しがよくなる。
それでも、やたらと海が遠かったという記憶があるのは、何故なのだろう。
もしかして…、ボクは兄ちゃんのことが怖かったのか。
ここまで思い出してきて、オレは、あの頃のある場面の記憶が蘇ってきた。あの迷子の事件は、あれは、本当は兄ちゃんのせいだったのだ!
ボクがまだ保育所に通っていた頃のことだった。兄ちゃんが、ボクの家に遊びに来ていた。兄ちゃんは、ボクの遊び相手になってくれていたけれど、ボクの家に来ることは、めったになかった。友達も多かったし、学校でクラブ活動していたし、ボクが遊びに行った時には相手にしてくれるという風だったのだ。
でも、兄ちゃんがボクのウチに来ないのは、実は、ボクの遊び仲間が嫌いだったからだ。兄ちゃんがそう自分で言っていた。あいつ、ざいごもん(田舎者)臭くって、オレ、嫌いだ、そう、ある近所のボクより一つ上の子のことを言っていた。
ボクも、なんとなく、そんな匂いを奴に嗅ぎ取っていたけれど、兄ちゃんほどには嫌いというわけじゃなかった。第一、兄ちゃんは、たまには相手にしてくれるけれど、普段の遊び相手は、あのYちゃんたちだったし、好みを言ってられなかった。
その、兄ちゃんの毛嫌いしている奴が、よくボクの家に来る。だから、奴の匂いがするといって、ボクの家を敬遠していたのだ(本当かどうか、分からない。他にもっと理由があったのかもしれない)。
が、或る日、兄ちゃんはどうしたわけか、ボクの家に来ていた。兄ちゃんは、ボクの姉ちゃんの部屋に案内させた。それは屋根裏にあった。姉ちゃんは、その時は、部屋に居なかった。だから、ボクは兄ちゃんをこっそり案内したのだ。
兄ちゃんは部屋の中をジロジロ見回していた。当時のボクは、兄ちゃんがしげしげと眺めるのを不思議に思っていた。
そのうち、兄ちゃんは、窓辺のベッドに横たわった。窓からは、我が家の田圃どころか、近隣の農村風景が見渡せる。あの頃は、今は、マンションや工場などが邪魔になって見えなくなってしまった神社が見えていた。
稲穂が実っている時期だったりすると、窓を開ければ、じゃりじゃりしたような、微細な棘が無数に混じっているような、鼻の穴の奥がこそばゆいような香りが風に乗って舞い込んでくる。
兄ちゃんは、ベッドに横たわり、腹這いになってしばらく身動きしなかった。そのうち、モゾモゾするような奇妙な動きを見せ始めた。
「こっちに来いよ」
兄ちゃんがボクに言った。ボクは、兄ちゃんと時折する、相撲かプロレスの真似をするのかと、言われるままにベッドに入った。
けれど、兄ちゃんは、ボクを横たえて、その上から覆い被さるような態勢になった。そして、ボクをじっと眺めた。
ボクは、今でも、兄ちゃんのあの時の、ギラ付くような、まさに獣としか思えないような眼差しを忘れられないでいる。ボクは射竦められていた。兄ちゃんは、我を忘れているようだった。一匹の獣がいるだけだった。ボクは、身動き一つできない。息さえ、叶わない。空気はピタッと止まってしまっていた。凍り付いた一瞬だった。
そのうち、ボクは耐え難くなって、泣き出してしまった。
ボクは、何故、自分が泣いているのか分からなかった。恐怖感だったのだろうか。食べられてしまう、それこそ、童話の中のオオカミに食われる赤頭巾ちゃんのように。
その後、どうなったのか、全く覚えていない。
その日だったかどうかは覚えていないが、ボクは散歩に出て、そのまま迷子になってしまったのだ。
そうだ、ボクは、自転車に乗って、兄ちゃんを追い駆けながら、気持ちの何処かで兄ちゃんに追いつきたくないと思っていたのじゃなかったろうか。
自転車を漕ぐ爽やかさ。晴れ渡った青い空と白い雲。排気ガスの充満する道路。行き交う車の激しさという活気。何故か人気のない校庭や工場の、ガランとした空虚感。ボクは、自分の気持ちがどうにも定まりが付かず、茫漠たる気分だけを覚えていた。
もうすぐ海だ。あの海だ。ボクを掠めて走るダンプカーの脅威から逃れられる。遠い目的地に辿り着ける。兄ちゃんに追いつける。近所のボクより逸早く自転車に乗れている連中に追いつける。
でも、あの海には、あの日の忌まわしい出来事の続きが待っているような予感も、胸の何処かで感じていたはずなのだ。あの日は、きっと中断してしまった何かの続き、それがボクを待っている。
兄ちゃんの大きな汗みどろの背中を眺めながら、ボクは、ただ、懸命にペダルを漕いでいるのだった。
(04/12/05 作)
[たった今、書き上げた作品です。出来立てのうちに、どうぞ召し上がれ]
| 固定リンク
「小説(ボクもの)」カテゴリの記事
- 昼行燈116「遠足」(2024.08.27)
- 昼行燈113「里帰り」(2024.08.13)
- 昼行燈106「仕返し」(2024.07.29)
- 昼行燈103「おしくらまんじゅう」(2024.07.23)
- 昼行燈7(2023.09.29)
コメント