テラコッタの夢
夢を見ていた。夢を見ていると、自分で分かっていた。目覚めて欲しいような、でも、もう少し、この世界に止まって居たいような、中途半端な気持ちだった。
まるで南海の海の底を、そう、西表島の何処かの水道の底の岩場を縫うようにして、マンタを追って潜り続け、濃密なブルーの空間を彷徨っていた時の、身も心も、その全てを世界に委ねたような、不思議な安息感に満たされていた。
それとも、遠い夏の日、家の近くの高い塀に囲まれた屋敷の中に忍び込み、人気のない、薄暗く、ひんやりした廊下を、足音を潜めながら、何処までも歩いていた時のような、胸の締め付けられる好奇心に満ちていた。
夢の世界の奥の彼方には、何があるのか、まるで分からない。不安で一杯の自分。
でも、脳裏の何処かに、後戻りはいつでもできるという、遥か天の上の世界からの囁きが小さく木霊しているようで、大丈夫だ、どんなに遠くへ踏み入っていっても、大丈夫なのだと感じていた。
不意に、夢の回廊が途切れ、いつか何処かで見たような町並みの一角に、ぼんやり立っている自分が居た。
ここは、何処なのか。何処から来たのが分からないように、何処へ行き着くとも知れない。
でも、ここに自分が居る。その<ここ>という感覚が妙に安定している。太平洋の真っ只中に漂流しているのだけど、永遠の凪が保障されている、誰に見守られているわけでもなく、ただ、自分は居るべき場所に居る、だから、安泰で居られるのだという感覚が自分を包んでいる。
何故か、小樽、という地名が頭の片隅に閃いた。
小樽に行ったことがあるのか。
確かにそうだ。三十年も昔、バックパッカーを気取って、北海道を歩き回ったことがある。テントなど背負って、無闇に歩き続けた。何処へ行く宛てなどなかった。ただ、町の外れへ、なだらかな山並みの向こうへ、峠の彼方へ、足が棒になるのも構わず、若さに任せて歩き通した。
でも、帯広や摩周湖や襟裳岬や、広尾という地名や、登別、網走などと、朧ろにではあっても、思い出せるのに、小樽のことは、脳裏をどう掻き削ってみても、何も出てこない。
すると、デジャビュというのか、いつだったか、自分はここに来たことがある。そして、もう一度、ここに来るんだと誓ったことさえあったのだという、確信めいた念が湧き上がってきた。
あの、レンガ色の古びた建物の角を曲がるがいい…。
誰が囁いたのだろう。
素直に従った。セピア色の町並みだった。光も闇も木立も窓に映る空も、雲さえも、全てセピア一色なのだった。
角を曲がった。
すると、そこに、懐かしい造形が自分を待っていた。何十年という歳月をひょいとばかりに乗り越えて、その縄文時代に埴輪があったなら、こんな造形に違いないと思わせるような、心底、自分を和ませてくれる粘土細工の人形が、かそけき微笑を浮かべて、あの日のように自分を迎え入れてくれるのだった。
そうだ、ここに来なければならなかったんだ。
ボクは、約束の地に来たんだ。
約束を果たすために、遠路はるばる、風の回廊を渡り、夢の回廊を抜け、緑の回廊を越え、アカデミーのコリドーを漲るように照り輝く柱廊に擦られながら、澪標(みおつくし)に導かれつつ、ボクは、小樽にやってきたのだ。
そこには土と火の祭りがあった。粘土を捏ねまわした自分の、ありうべき姿があった。泥に塗れて、大地に平伏し戯れた自分が居た。抽象の海を渡りきれずに、イカルスの失墜の二の舞を踏んでしまった自分には果たしえなかったつちの世界があった。
ああ、そうだ、ボクは、あの日、このテラコッタを思いっきり、馬鹿にして通り過ぎたのだった。こんな土の塊(かたまり)なんて、池にでも放り投げてしまえばいいとさえ、思った。
もしかしたら、生意気だったボクは、本当に、そのように口に出してしまっていたのかもしれない。
脂汗が滲み出してきた。恥ずかしさで絶え入るような気分だった。
ボクは、はるばる北海道を旅しながら、何一つ、得るものなく、反って、自分を抽象の砂漠に追いやってしまった。人の肌から逃げ去り、密封された空間の中に棲息し、とうとう窒息して果ててしまったのだ。もう、脳味噌を引っくり返しても何も出てこない。
ボクは空っぽになってしまった。
土に還ろう。土に平伏すんだ。泥に塗れるんだ。原始の魂を取り戻すんだ。そうしないと、本当に息絶えてしまう。
ボクは、展示されている素朴極まりない、無心をそのままに造形したような顔の前に向かっていった。
けれど、ボクは、その場に足を留めることはできなかった。ボクは、陽炎だった。蜃気楼だった。夢の中の骸(むくろ)だった。土の造形をすり抜けて、闇の彼方へと消え去っていった。
そしてボクは目覚めた。ボクは、パサパサの土埃になっていた。汗さえ、掻いていない。
ああ、ボクは、こんなにも惨めな奴になってしまったのか。これじゃ、砂漠に放置されたミイラより哀れじゃないか!
と、感じた瞬間だった。ボクは、今度こそ、夢から覚めた。
[「本郷新とテラコッタ 土と火の祭り、本郷晩年の真骨頂」を参照させていただきました。(04/12/13 記)]
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