真冬の明け初めの小さな旅
あれはいつの頃のことだったろう。
オレがまだチー坊って呼ばれていた頃だったのは間違いない。太一って言う名前だから、普通なら、ター坊って呼ばれるはずなのに、チー坊。
その訳は、あの頃、近所にター坊で通ってる奴がまだいたからだ。
オレはタイチなんだけど、タが奴に奪われ、(タ)イチとなり、チーが耳に残るらしくって、終いにはチー坊ってことになったようだ。ター坊のほうが聞えがいいし、元気が良さそうだしって、自分じゃ思ってたけど叶わなかった。
名前と同じで、愛称も自分で決めるもんじゃないのだ。
雪の降るのも構わず、外を歩いて回ったり、雪で動物を象(かたど)ってみたり、家の手伝いなんて、ろくすっぽしないのに、汗だくになりながら、ゴム長に雪が入って、気持ち悪いと思いながらも、雪掻きだけは勇んでやっていた。
雪が大好きだったのだ。雪の大変さなんて、分からなかったし。
一面、田圃の広がる、町というより村と呼んだほうがふさわしいような、そんな民家も疎らに集落風にしかない、そんな寂しい町の片隅に位置する我が家だった。あの頃はまだ雪がタップリ降っていた。ともすると一階の窓からは降り積もる雪に視界が遮られて何も見えなかったりする。そんな雪の降り積もった未明などに、こっそり家を抜け出したものだった。
降る雪だけではなかった。屋根から落ちる雪、雪降ろしで堆積した雪などが積み重なって、しかも、建物に面する雪の山は凍っていて、粗目(ざらめ)のような、それでいてツルツルに磨きたてられたような、形容の難しい様相を呈していた。
子供ながらに不思議だったのは、窓など堆積した雪で視界が完全に塞がれているにも関わらず、夜になり部屋の明かりが消されると、外がボンヤリとだけれど、明るく輝いているように見えることだ。分厚い雪の堆積を透かして外部の光が漏れ込む? だけど、真夜中だったり明け方だったりするのだから、外は暗いはずなのだ。
なのに妙に明るい。雪が白いから、なんてのは子供にも納得できる説明ではなかった。雪の欠片の中に光が閉じ込められているのだと思った。
そう、きっと、昼間とか、家の中が明るい時は、そうした真綿で包まれたような雪の光は大人しくしている。だけど、一旦、夜ともなり家々の明かりが疎らになり、やがてポツンポツンと凍えるように灯る電柱の蒼白な光しかないようになると、雪の中の蛍は命を燃やし始める…、そうに違いないと思った。
とっくに玄関の鍵は閉められている。両親も姉達も寝入っている。ボクは眠れなかったわけではなく、早々と寝入っていた筈なのだけど、何故かはしゃぐような気持ちの昂ぶりがあって、起きるはずのない時間に目覚めてしまう。障子越しに蒼白い光が部屋の中に漏れ込んでいることに気付く。最初は暗闇だったのが、次第に薄明に変わって行く。まるで光の洪水だ。
光の洪水。だけど、決して騒々しいものではない。むしろ静か過ぎるほどである。外の世界に漲っていた光が、窓のほんの僅かの隙間を通して足音を忍ばせて流れ込んできたのだ。そして部屋の中が青い光で溢れかえっているのだ。ボクのことを、夢の世界へおいでよ! と、誘いにきたんだ。
とてもじゃないけれど、眠ってなどいられなかった。ムックリと起き上がって、アノラックなどで身支度を整え、長靴を履いて、ついでにスキー板やストックなんかも手にして、玄関の鍵を息を殺して静かに開ける。誰も気がつきませんように。
外に出ると、世界は雪の白と空の紺碧との二色の世界。印象の中では空は晴れ上がっていた。きっと、そんな時だから尚のこと、外の世界への憧れ、遠い世界への郷愁の念が強まったのだろう。寒さなんか、まるで感じなかった。
北陸の空は、冬は常にといっていいくらい雲が重く垂れ込めている。どんよりとした陰鬱な空。浜辺などに立つと、波も猛々しくて、荒涼の感をひしひしと覚えてしまう。平野部にあっても、そんな北の空の猛々しさが感じられて、思わず人恋しくなってしまう。でも、はるかな世界への誘いは魅惑に満ちている。
そうだ、今も特に印象的なあの時は、当時の北陸の冬にはめったに恵まれない星の瞬く空だったのだ。冬に空が晴れ渡るなんて、めったにないことだった。いつも、重苦しいような、分厚い雲が空を覆っている。それだけに、そんな澄み切った藍色の空が自分を待っているような予感があった。
予感。それは、子供だったオレには、誘惑と言い換えても間違いじゃなかった。
満天の星。悲しいかな、その日、月が照っていたかどうか、まるで覚えていない。冬ならではの無数の星たちの煌きばかりが印象に残っている。そしてそれで十分な僥倖なのだ。
田舎の家の周りは田圃や畑が広がっていた。それが今ではマンションや工場や駐車場となってしまって、ほんの僅か残った田圃が肩身の狭い思いをしているだけ。我が家にしても猫の額ほどの田圃さえなくなってしまった…、そんな日が来るなど、チー坊だったオレには夢にも思わなかった。
前の晩に降ったのだろうか、一面が新雪の原になっている。銀世界という言葉が決してただの絵空事の表現ではないことを実感していた。
満喫していたと言うべきか。
子供だった自分には茫漠すぎるほどの世界が見渡す限り広がっていた。スキー板を履いて、表面が凍り始めている雪面を歩く、滑る、走ってもみる。粗目(ざらめ)というのか、雪より氷の面を削るようにスキー板が走る。
かすかに畦道らしき起伏があるだけの、眩しいほどに白く輝く世界。夜空が地上世界の強烈な光のシャワーに圧倒されてしまうのではと思えるほどだ。
けれど、冬の空は、何処までも青い闇が深い。星の瞬きが闇の凄さのゆえに目どころか心の中をも射抜くほど強烈に感じられる。淋しい! だけど、今の自分なら、まるで我が故郷を捨て去ったかのように、とでも表現したくなるような、そんな思いに駆られて、我が家を背にして遠くへ遠くへと滑っていく。
ふと、遠くに黒い影。雪原を疾走している。藍色の空の光と真っ白な光との間を切り裂くように駆け抜けていく。クリスマスなら、サンタクロースだろうけれど、もう、そんな季節は過ぎていた。年も明けている。
(ボクの仲間だろうか。それとも、敵なんだろうか。)
それどころか、童話か、それとも近所の兄さんに聞かされた人攫いかも、なんて思った。
だとしても、こちらに来る気配はない。この眩い世界に人が居るなんて、ありえないようにも思えた。居るとしたら、それは、天からの使者、そうでなかったら、町の誰かの魂が深い眠りに就く誰かの肉体からこっそり抜け出して、夜を通して遊び回っていた。それが、気がついたら夜明けの時が近付いたので、慌てて帰るところなのかもしれない。
そう思うと、怖いより、滑稽に思えた。
ボクは、奴の正体を知りたいと思った。スキーをそちらの方へ走らせた。奴は、決まった道の上しか走れないみたいだけど、ボクは、雪原の上だったら、何処でも滑ることができる。ボクの方が、遥かに力がある。魔力が今のボクには備わっている。
ボクは、得体の知れない万能感に漲っていた。限りなく透明な青い世界を何処までも旅することができる…。
音のない世界。音が生まれようとしても、雪の中に吸い込まれていく。耳が痛いほどの沈黙の世界。そんな中、スキー板が凍て付く雪面を削る音だけが、響いている。生きる証しは、そのガリガリという音だけのようにさえ、錯覚されてしまったり。
走ることを止めることはできそうになかった。この世界に明かりの灯る家は、ほんの数えるほど。ホントはもっとあるのかもしれないが、雪に埋もれて外には洩れてこないのだ。そう、ほんの数匹の蛍が白銀と透き通った紫の世界を自在に舞い踊っている、ボクにはそう思えた。
それでも、走っているうちに橙色の灯りを遠くに見つけることがある。あれが目的地だ! なんとなくそんな気になってしまう。いつしか、あの謎の影の奴を見失ってしまって、当てどなく走っていたのが、そこに筋道が出来たような気がした。
はるかに遠いあの弱々しげな蝋燭の焔に会いに行くのだ。蛍の光にも似た命の、末期のささやかな慄きに触れに行くのだ。そのために生きているような、そんな気さえしてくる。そう感じつつ、夢中になって、今にも絶え入りそうな、朧な光の揺らめきに向かっていった。
気がついたら、風前の灯火のター坊の家の前に立っていた。ボクより夢の世界への旅に熱中して熱を出し、ついには肺炎になってしまったター坊の家の前に。
所詮は臆病で引っ込み思案の自分だった。奴の家の奥の部屋の弱々しげなオレンジ色の窓明かりを見て、ボクは、急に怖気付いてしまった。ター坊がいなくなったら、今度は、ボクは、本当にタ抜きのチー坊になってしまう。魂のないチー坊になってしまう。
スキーの板の描くシュプールは、半端な円弧を描いて、思わず知らずの内に我が家へと向っている。
空が白みかけている。もう、帰らないといけない。誰にも気付かれないうちに家に入って、蒲団の中に潜り込むのだ。ター坊の末期を看取ってしまった、奴の魂が天へと登っていったのをボクが見送っただなんて、誰にも言えるはずがないのだ。
そうそう、鍵を閉め忘れちゃダメだぞ。戸締りをきっちりしておかないと、奴、一人じゃ寂しいからって、行きがけの駄賃とばかりにボクの魂まで持ち去りに来るかもしれないし。
ボクは、朝になりお袋に起こされるまでの残り少ない眠りの中で、勇気がなくて実際には行けなかった、はるかな彼方へ、限りなく透明な青い空へと旅する夢を貪ろうと思ったのだった。
[原作は、エッセイ「真冬の明け初めの小さな旅」です。虚構という味付けを施してみました。比較して読むと、一層、面白い(?)かも。(04/12/01 記)]
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