透明人間
夢の中にいつも同じような住居が現れる。夢の中だけだ。目が覚めてから、記憶の欠片を手掛かりに、一体、いつのことなのか、自分がそんな部屋に暮らしたことがあったのか、懸命に思いめぐらしてみる。
が、まるで記憶の糸を辿れない。どう、記憶を辿ってみても、自分がそんな部屋に住んだという経験が蘇ってこないのである。
夢の中では、自分はその部屋の住人である。決して、何かの事情があって、誰かの部屋を訪ねたという状況ではなさそうである。
下宿なのか、それともアパートなのかもハッキリしないが、住居は幾つかの部屋に分かれている。四畳半と六畳、入り口となる玄関も、広い。十数足は余裕で置けそうな板張りの玄関。そこを上がると三畳ほどの間。
部屋が複数ある住居。今だって一部屋なのだ。夢のような間取りだ。確かに建物は古い。立て付けの一部に軋みが出ていて、窓もしっかり閉まらない。
それでも、雑巾などで丁寧に、そして徹底して磨き抜かれた、どこか木の香の奥床しい木造家屋独特の佇まい。隣りの部屋がどうなっているのか、自分でも分からない。もしかしたら、住んでから、一度も覗いていないのかもしれない。そんな開かずの間という印象も受ける。
但し、その印象は目覚めてからのもので、夢の中では、どう思っていたのか、定かではない。
かすかに、隣りの部屋の住人を意識しているようでもある。誰か住んでいる?!
が、気持ちの上では、部屋に居て、安堵している。一人で居ることに救われているようでもある。
隣りの部屋が、やけに暗い。何故、覗いてもみないのだ。目が覚めた私は、歯痒いような、苛立つような、もどかしい思いで一杯である。私には、どうしようもないのだ。夢の中に飛び込み、自分を叱咤するわけにもいかない。
かといって、何時見るともしれない夢をジッと待つというのも、芸が無い。
はっきりはしないのだが、隣りの部屋には、誰かいるのだろうと思う。が、その隣りの部屋というのは、自分の住居である三部屋のうちのどれかの部屋なのか、それとも、隣り合っている下宿の部屋なのか、画然としないのである。
思うに、夢の中の自分も、もどかしい思いに辛そうな、どこか寂しそうでもある。仮に隣接する部屋というのが、隣りの住人の居室だったとしても、襖一枚隔てているだけのようなのだ。
あっ、今、思い出した。記憶の欠片が闇の中から浮き上がった。そうだ、夢の中で自分は、何かの拍子に、間違って、襖を開けてしまい、のみならず、その部屋一歩、二歩と踏み込んでしまった……、しかも、自分は、灯りも火の気も、それだけじゃない人の気配さえもない、その部屋の中に、人影を見たのだった。
その人は、蒲団をほとんど頭の天辺まで被って、寝息を立てている。
寝息というのは、自分の、いや、私の勝手な想像かもしれない。
というのは、蒲団には、女性の体の形が浮き上がっているのだけど、微動だにしないにも関わらず、蒲団に触れたなら温みが感じられるという、いや、温いのだという確信というより、確認済みの感覚がある。
死んではいない。生きている。ただ、目が覚めないだけ。起きることはないというだけ。何時の頃か寝入って、そのまま事によると、永遠に目覚めることが無いかもしれないのだとしても、それでも、生きていることには間違いない。
ああ、また、叩き割られ粉微塵となった鏡の、爪の先より小さな破片が闇の海から浮き上がってきた。破片は、ほんの少し触れるだけでも、指先を傷つけそう。それほどに、切っ先鋭く割れている。そのガラスの刃の先っぽが、いき
なり私の脳髄に突き刺さった。私の脳味噌に、一瞬、鋭い痛みが走り、やがて、血が滲み始める。血糊が脳味噌の表面に生れる。マチ針の頭のような可愛い血糊。
蒲団を目深に被っている彼女は、そう、打ちのめされている。
彼女は、高校生らしい。というか、高校生のままに大人になってしまった。高校生の頃に寝入ったまま、ずっとあちらの世界に居る。私の世界ではなく、自分の世界でもなく、裏の世界。彼方の世界。此岸にいながらにして、彼岸にいる。心が死んでしまったのだ。凍て付いてしまって、水中花。それとも、氷柱に封じ込められた心。
ああ、彼女は死んでいる。生きながら、死んでいる。死んで生きている。生きて死んでいる。自分は、彼女を助けたいと思っている。布団を剥がし、彼女をこの世に戻したいと切に願っている。
彼女のことが好きなのか。そうだ、好きなのだ。愛しているのだ!
死んで生きている彼女だけが、自分のものなのだ。彼女だけが自分を助けることができる。自分をじゃない、私を助けることができるのだ。
そうだ、私は、彼女に助けを求めている。夢の中の彼女に救いを乞い求めている。懇願している。ああ、死んでいるのは私なのだ。この世にあって、虫の息となり、息も絶え絶えなのは、何のことはない、この私だったとは。
ああ、夢見ている私。私は、死にかけている自分を直感している。この世にありながら、まるで生きることのなかった自分を哀れんでいる。ペラペラの私。存在感のない私。透明人間の私。
透明人間。そう、私は、あってないもの。そこにいるのに、誰にも見えない存在。透明な私は、目が無いのだから、この世の何をも、見る能がない。誰しもが私に気付くことなく、私に近付き擦れ違い行過ぎていく。私の存在は、相手を半歩も動かすことはないし、私を見るために、瞼さえ、一度だって動かない。
瞬きする間もなく、私を突き抜けていく。
私は、ここに、居る。けれど、居ない。
私は、自分となって、夢の世界にあって、眠りについている彼女を探しに行ったのだ。私が透明人間でなくなるのは、私が彼女への思いに胸を焦がしている間だけ。
ああ、あの人。あの人よ蘇れ。この世に舞い戻って、私を助けてくれ。私は今、死にそうなのだ。脳を失い、肌を剥がされ、内臓が引き千切られ、骨格は粉砕され、心は断末魔の悲鳴を上げている。
あの悲鳴が聞えないか。何も分からない。何も見えない。何も感じない。悲しみと絶望以外に、私は居ない。
私は、夢を見ようと懸命だった。夢の中でなければ、あの人に会えない以上は、眠るしかない。眠りに就いて、そうして命を担保に差し出して、私はあの人に会い、恋しいあの人をこの世に引き戻す。私を生き返らせるために。
ああ、こんなことなら、あの日、あの人を手に掛けるんじゃなかった。あの人を自分一人のものにするために、喉輪を手で締め付けてしまった。真っ赤に充血した目の玉が飛び出し、口が思いっきり開き、涎が溢れ放題になり、体が弛緩し、流血し、真っ赤な顔が膨れ上がり、やがて凋んで、そうして私は、末期の彼女に口付けた。
私は、あの日の彼女の寝床に横たわる。彼女の蒲団に潜り込む。きっと、今度は、彼女が私をあの世へと送り込んでくれる。あの襖で仕切られた部屋の片隅で私の骸を見詰めるあの人が居る。私が断ち切った命が今も行き場を失って、躊躇っている、あの部屋。忘れてしまったはずの、あの、家。夢の中にしか現れない薄暗い居室。忍び込んだ私の目の前に居たあの人。ああ、確かにあの日、彼女はそこに生きて居たのだった。あの日のまま、時は止まってしまったのだ。
だからこそ、あの部屋に戻る必要がある。あの古びた木造家屋の奥の一室であの人を待たなくてはならない。あの人が忘れずに舞い戻ってきたなら、私も、やっと、そのときは、憩うことができる。息が出来る。
その時、初めて、私は、透明人間ではなくなるはずなのだ。
(04/09/30)
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