彼岸花の頃
「彼岸花の頃」
或る日のことだった。仕事で郊外の町を車で走った。
用件が済んだので、早く会社に戻ろうと、余裕があったら、どこかでお茶でもしてのんびりしようと、近道を選んだのが間違いの元だった。道に迷ってしまったのである。
経験からして住宅街の中で、これが近道だろうと下手に勝手に決め付けて走るのは拙いと分かっていた。けれど、魔が差したとでもいうのか、つい、何処かの生垣の角を曲がり、小道へと車を向けてしまった。
道は、綺麗に舗装されている。所々には、駐車されている車もある。道は細いが、車は通れる筈なのだ。実際、何処までも道は続いていて、ブロック塀やら竹垣やら、中には石を積み上げたような壁もあったりして、時間的余裕さえあれば、走っている分には快適だった。
が、不思議なことに、曲がり角がまるでないのだ。真っ直ぐというわけじゃないが、延々と道が続いている。曲がり角どころか、とにかく、交差する道に遭遇しない。何か適当な道があったら、そっちへ曲がるつもりが、ひたすらに何処とも知れない先へ先へと走るしかない。
オレは段々、不安になってきた。これで、さんざん走った挙げ句、行き止まりです、なんてことになったら、悲惨だ。バスが通りそうな道じゃないので、バス停などで地名を確かめるわけにもいかない。
こうなったら、何処かの民家に飛び込んで、道を尋ねるしかないのかもしれない……そんな思いに囚われ始めた頃だった、道がやっと雰囲気を変えてきた。そこが何処なのかは別にして、長い長いトンネルのような道からは脱出できる……そう思ったら、まさに望みどおり開けた場所に行き当たった。
車は、小さな橋に差し掛かっていた。野原とでもいうのか、一面の曼珠沙華の原がそこにはあった。小川が流れていて、その両岸を遥かに見渡す先まで、曼珠沙華の花々が咲き誇っているのだった。
彼岸花。体調でも悪かったら、自分が彼岸の入り口に立っていると勘違いしそうなほど、見事な赤い花の乱舞なのだった。三途の川が菜の花畑なのだとしたら、曼珠沙華の原は、何処へと導くのだろうか。地獄へ? そんなはずがない。
それだったら、彼岸花なんて呼び名はつけられなかったはずだろう。地獄花なんて付けられるはずもないだろうけど、でも、曼珠沙華は、あまりに毒々しい。おどろおどろしいとさえ、感じられる。
あまりに鮮烈な赤に圧倒されて気が着かなかったけれど、真っ赤な花の野を取り囲むように、黄色っぽいような花の原がまたはるばると広がっている。まさか、菜の花畑?
そうではなかった。よく観たら、それは稲穂の海だった。まさに収穫を待つばかりの稲穂が実った頭(こうべ)を垂れながらも、緩やかに吹き渡る風に気持ちよさそうに、体を揺すっている。
オレはあまりに幻想的な風景に圧倒され、思わず車を降りた。この風景を逃してはならないと思った。霊的というのか、宗教心があれば聖性と錯覚しそうな郷愁感をさえ覚えそうな風景。この世のものでありながら、そのままに彼岸である世界がここにあった。此岸と彼岸が小川とで区切られている。
オレは、小川の土手沿いの道を歩き出した。
歩きながら、脳裏に何かが顔を覗かせ始めているのを感じていた。何か分からない、遠い遠い日の体験。すっかり忘れ去った何か。忘却の淵の深くに沈みこんでしまって、その上に堆積したあれこれの経験の日々に顔など擡げるはずもなかったはずの何か。
それが、何かの拍子に重石を外されて、今にも蠢き出そうとしている。
一人ぼっちで臆病なオレは、とてもじゃないけど、今の今、そんなものに立ち向かうのは御免だと思っていた。何か得体の知れない記憶が蘇ることを恐れていた。一人では耐え切れないに違いないと思った。
けれど、それは、土葬された墓地から死に切れなかった奴が棺桶の蓋をこじ開けるように、記憶の欠片は襤褸(ボロ)屑の格好そのままに、むっくりと鎌首を擡げてくるのだった。
オレは臆病者だが、同時にどんなことにも抵抗する気概もない奴だった。もう、どうにでもなれと思っていた。
次第に記憶の切れ端がつながり始めてきた。土中から、薄汚れた紐の先っぽが見えていて、心ならずも引っ張り出そうとすると、その紐が案外と丈夫で、しかも、やたらと長い。ズルズルと、無際限なまでに長い。しかも、その紐には、芋蔓式とでもいうのか、枝分かれした無数の細い紐が繋がっていて、オレの腕力では引っ張り出せるはずもないのだった。
が、それは杞憂だった。いや、杞憂というより、むしろ、油断だった!
そう、その紐は、オレの腕に、足首に、太股に、腰に、そして体全体に巻きついてきたのだった。オレの体を糸巻きにして、どんなことがあっても、土中に埋まる何かの全体に日の目を見させようと、執念を燃やしていると思われた。
不意に、土中から腐った板の角が見えた。蔓に絡まれて自由の利かないオレは、無理やりにも板の上に残る泥を払うしかなかった。すると、見えてきたのは棺桶だった。土葬!
オレは、知らず知らずの内に、土葬の墓地の域内に迷い込んでいたのだ。曼珠沙華の原は、墓地の区画を示すシグナルのようなものだったのだ。
棺桶の全貌が見えたとき、これは祖父の棺桶だ、という直感が閃いた。
が、オレには祖父の記憶がまるでない。物心付く前に死んだはずだったから、当たり前だった。せいぜい、オレがガキの頃、家の土間で遊んでいて、その隅っこになんだか錆び付いてボロボロの短い棒切れを見つけ、父に、「これ、何?」と聞いたら、「これは、じいちゃんの形見さ。短剣だよ。戦争に行った時に身に付けていったものだ。もう、何十年も経つから、錆びてボロボロだけどな」
オレの祖父の思い出というと、仏間に飾られている祖父母が並ぶ写真と、その錆びて見る影もなくなっていた短剣だけなのだった。
なのに、どうして、今更、祖父の棺桶が姿を現すのか。
大体、祖父も祖母も火葬のはずだった。少なくとも、祖母は火葬で、その葬式に小学校に上がる前のオレも立ち会っている。曇天の空に焼かれた煙が立ち上がるのを見上げた記憶がある。焼場のどこかで、祖母の焼かれたお骨もみんなで見させてもらった。不思議と悲しいとも不気味とも思わなかった。死がまるで実感できなかった。祖母のことも、ほとんど記憶にないのだ。祖母には可愛がられたと、父母にも近所の小母さんらにも言われたけれど、オレには、何一つ思い出せるものがないのだ。
まして、祖父となると、生れて間もない頃に亡くなっているから、思い出などあるはずがない。
なのに、なぜ、今、祖父の棺桶が姿を現す?!
「おじいちゃん、焼かれたんじゃないの?」
急にオレは、ボクになっていた。ボクの目の前に祖父が姿を現したのだ。
その祖父の目には、ボクが映っている。
「ワシか、ワシは、焼かれてなど、おらん」
「えっ、火葬じゃなかったの?」
「そうさ、ワシは、土葬だ」
「えっ、どうして、村の人はみんな火葬じゃないの?」
「ふん、それは、ワシのあとの時代のことじゃ。ワシの頃は、火葬なんて贅沢は、貧乏人には縁がなかったもんじゃ」
「えっ、じゃ、じいちゃん、どこかに埋められているの?」
「何を言う、目の前におるじゃないか。お前は、ワシの棺桶を掘り起こしたのだ」
祖父は、ボクをじっと見詰めていた。瞬き一つ、しない。乾いた血の色の濁った眼球が不気味だった。瞳などなく、血走ったような眼差しだけが眼窩に光っていた。
眼光、それだけがそこにある。そのまさに刺すような視線は、ボクを睨んでいるように思えた。いや、まさに睨みつけているのだ。
(どうして、ボクを睨むの?)
ボクは、そう、祖父に問いたかったけれど、その問いは唇が乾いていて、言葉にならないのだった。
「ふん、その訳は、お前が一番、知っておるんじゃないか」
意地悪そうな、それでいて、悪戯っぽいような、得体の知れない笑みがあった。
ボクは、立ち竦むばかりだった。まるで心の中が見透かされているようだった。
「どうした、ええ、ワシはお前のせいで、土葬となったんだぞ。その訳は、お前が知らなくて、どうする!」
ボクには言いがかりとしか思えなかった。物心付く前のボクに、何も分かるはずが無い…。
「物心だと、下手な言い訳をするんじゃない! 物心はなくても、心はある。四つのお前は全てを見ていた。お前の手がワシを封じたのだ。お前がワシを殺したんじゃ!」
ボクは凍り付いていた。身じろぎ一つ、取れなかった。息も苦しくて出来ないのだった。
(ボクが、じいちゃんを、殺した?!)
「そうだ、やっと、分かったか」
ボクは、分かるはずがなかった。闇が一層、濃く深くなっている。記憶の淵の底を目を凝らして眺め下しても、何も見えてこない。
「ふん、そんなところで、のんびり眺めても、何も見えないのは当たり前じゃ。さあ、もっと顔を崖から出してみろ。全身をとは言わん。上半身だけでも、闇の淵に乗り出させて、そうして闇の谷底を根性の限りを尽くして、見るのだ!」
ボクは、逆らうことができなかった。崖底にまっ逆さまに落っこちるという恐怖もあったけれど、じいちゃんの射竦めるような、冷徹そのものの眼差しのほうが、はるかに怖かった。理不尽としか思えない、じいちゃんの言い草。けれど、逆らうなど、ありえない。
ボクは、ただただじいちゃんの命令に逆らわないために、身を乗り出して崖底を覗いた。が、その瞬間、背中を押され、ボクは闇の海の底深く、落ちていった。
どこまでも落ちていった。何処かの郊外の町の細道をずっと辿ったように、今はボクは中空を落ちているのだった。
落下に終わりはないのだった。落ちている。
けれど、上も下もない世界に、そもそも落下などありえないのだった。
そこには、真冬の雪の空を見上げているような浮遊感覚があった。雪の舞う藍色の空を見上げていると、雪が舞い降りるのか、それとも、自分の体が競り上がっていくのか、分からなくなってしまう。
そう、自分の体がふわっと浮いて、そうして紺碧の宇宙へと舞い上がっていくような感覚に眩暈しそうになってしまう。
ボクは、闇の宇宙を彷徨っていた。宇宙を流れる闇の川の流れに乗っていた。流れに押し流されて、何処へとも知れない世界へ旅立っていくのだった。
どれほどの時間、ボクは漂っていただろう。ボクの体は、いつしか、何処か馴染みのあるような川の土手にあった。いや、その曼珠沙華の咲き乱れる土手にあるのは、ボクではなくて、じいちゃんの体だった。じいちゃんの背中が見えた。ボクは、もう四歳になっていた。じいちゃんがボクが二歳の頃に死んだというのは、間違いなのだった。
ボクは、じいちゃんのゴツゴツしたような背中が慕わしかった。逞しい肩甲骨。広い背中に乗ってみたかった。乗りかかって甘えてみたかった。おじいちゃんを驚かして、そうして、こら! なんて言われてみたかった。
ボクは、思いっきり、おじいちゃんの背中に圧し掛かった。すると、じいちゃんは、油断していたのか、足場が悪かったのか、それとも、ボクのほうが逆に落ちそうになったので、ボクを庇おうとして無理をしてしまったのか、川に頭から落っこちてしまった。
突然のことで、慌ててしまったのか、じいちゃんは、心臓麻痺を起こしたらしい。そのまま川底に頭から腰の辺りまで突っ込んだまま、動かなくなってしまった。
ボクは、じいちゃんの脚をつんつんしたりしていた。そうして、じいちゃんがまるで身動きしないことに、恐怖感めいた感情を覚えて、誰かを呼びに行った……ような気がする。
ボクは、また、記憶の闇の宇宙に消えていった。忘却の黒い河の彼方に消え去っていった。残ったのは、罪の意識にも似た、重苦しい感覚だけだった。オレは泣いていた。訳もなく、無性に悲しくなって泣いていた。
ボクが悪かった、許して、じいちゃん! 嗚咽が苦しいほどだった。じいちゃんの祟りが今もボクを責め苛んでいる。記憶の淵の彼方に沈んでいるはずの、誰ひとり、じいちゃんの死の真相を知るはずのない、オレ自身にさえ秘密のベールに包まれている記憶の欠片がオレの心をズタズタに引き裂いている。
オレは幸せになってはいけない人間なのだと、胸の底の何かが問い質しつづけてきた。もう、許して、じいちゃん、ボクには何も分からなかったんだ、悪気など全くなかったんだ、あったのは、ただの甘えの気持ちだけ、それだけだったんだ……。
嗚咽するオレがいた。じいちゃんが土葬されたと、ボクに向って言ったわけがやっと分かった。
気が付くと、オレは、相変わらず曼珠沙華の原に立ち尽くしていた。悲しみの風景が広がっていた。真っ赤な、毒々しい光景なのに、何処か憂わしげに映っていた。
それでも、ほんの少し、体が軽くなったような気がした。彼岸にいるじいちゃんへの贖罪が、何十年も経って、やっと果たせたように感じた。
既に宵闇が迫っていた。暮れなずむ空と彼岸花の原。
オレだけの彼岸の旅は、今、ようやく終わった。
トボトボと歩き、車に戻った。
今、車を走らせると、今度は、戻りようのない迷い道に踏み入ってしまいそうな予感がした。
でも、いいのだ、なるようになればいい。
オレは、アクセルを吹かした。
(04/09/19)
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コメント
彼岸花の赤は 何故禍々しいような あの世の風景を思い起こさせるようなものがあるんでしょうね。
わざとじゃないのに お年寄りや乳幼児の死にかかわってしまうことって あるかもしれない。
思ったよりもろい身体だったり 生命だったりするものね。
封じ込められた 罪の意識は 何かの拍子にフタをあける。。
読書の秋、させてもらいました。(^_^)
投稿: なずな | 2005/09/30 13:40
こうやってコメントを戴くと、嬉しいと同時に過去の作品を読み返すいい切っ掛けになりますね。
読み直してみて、細かな記述に気になる点があるけど、案外と面白いと思ったり。
記憶の曖昧さ。何もフロイトを持ち出すまでもなく、物心付く以前の封印された闇の世界は書き手にとって宝の山のような気がします。
掘り出そうにも、どこに宝が埋まっているか分からないけれど、今の自分の心をどれほど掘り下げられるかに懸かっているような。
小説を書くって、事実をなぞるわけじゃなく、心の真実だけが頼り。心は話のウソを嗅ぎ分けるし。人間性が現れてしまうし、その意味で虚構作品を作るって怖い…。でも、楽しいんだね。
想像力が枯渇しないよう、これからも、なずなさんワールドに刺激を受けていきたいです。
それにしても、改めて、彼岸花の魔力めいた魅力に驚かされます。
投稿: やいっち | 2005/09/30 19:47
.....ヾ( 〃∇〃)ツ キャーーーッ♪
「俳句の細道」がこちらに引っ越したことに気がつかないであちらにコメント書いてた~
なんてドジなんでしょう(● ̄▽ ̄●;)ゞぽりぽり
彼岸花は北海道では咲きません。
当然私は見たことがなかったのですが、主人と一緒になってから福岡で初めて見た彼岸花は不思議な魅力を持っていました。
誰にでもそういう印象を与えるのでしょうね。
主人は毎年この季節になると「彼岸花が見たいね」と言い出します。
曼珠沙華=天上の花・・・おめでたい時に天から降ってくるに相応しい花ですよね。
でも私にとっては妖しい魅力も持ち合わせているように見える...
投稿: マコロン | 2005/10/17 13:03
マコロンさん、こんにちは。
あちらでのコメント、昨日だったか、気が付きました。でも、日曜日も営業で、疲れていて後回しに。もうしわけないです。
サイトの数が多すぎるので、整理しつつあります(あちらにはカウンターが付いていないので、アクセス回数が分からないってこともある)。
お知らせしなくて、ごめんなさい。でも、地味なサイトなので…。
温暖化が進んだら北海道でも彼岸花が見られるようになるかも。
それはともかく、彼岸花は独特な妖しさを小生も感じます。名称もそうした印象の背景にあるのかも。
ああ、俳句や川柳のほう、どうぞ気軽にコメントなどお願いします。小生も昨年始めたばかりの素人ですから。
投稿: やいっち | 2005/10/17 16:44