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2004/11/28

天国への扉

 オレの遠い昔の話である。殺人事件にだって時効がある。まして、オレのやったことは児戯に類することなのだ。
 でも、オレが一体、何をしたというのか。何もしていない。いや、ただ、ひたすら羨ましいと思っていた、それだけだった…。
 以下は、当時のこととて、ボクで通させてもらう。時折、オレが顔を覗かせるけれど、それは笑って見逃して欲しい。だって、オレとボクとは時の壁を隔てているとはいえ、同じ人間のはずなのだし。思い出話だけど、思い浮かべ語るのは、ここにいるオレでしかないのだ。
 開き直りじゃないかって? そうかもしれない。もしかしたら、ちょっと躊躇っているだけなのかも。

 ボクは、或る日のこと、近所の姉さんの奇妙な行動に気が付いた。
 それはボクがまだ、小学校に上がったばかりの頃だった。五月の連休前の頃だったろうか。出来の悪いボクだから、毎日、教室の後ろでバケツなど持たされて立たされてばかり。
 悪さをしたわけじゃないのに、まるで罰を受けるみたいに、水をたっぷり注いだバケツを授業が終わるまで持たされつづける。もう、慣れっこだったけれど、それでも、チャイムがなる頃には、腕が棒になってしまっている。腕が震えだしている。足も、鉛のようだ。感覚がまるでフワフワというか、オレンジ色のゼリーが体の中に詰まっているみたいだった。
 確か、その日は、数字の1から10を逆に、10から9、8、と遡って2、1へと言えということだった。
 クラスの大概の奴は出来ていた。出来ないのは、ボクを含め、三人だったけか。
 もっとも、ボクはその三人の中の唯一の常連で、他の奴は、問題とか学科によって日替わり、ん? 授業替わりというのかな。
 ただ、他のクラスには、ボクより猛者(もさ)がいた。ボクだって、たまにできることがあるけど、奴は、全く、できない。何一つ、できない。ボクでさえ、何とか先生の質問の意味くらいは分かるけど、奴は何が問われているかすら、全く分からないんだって、そんな噂を聞いていた。
 自分のことを棚に上げているようだけど、奴、愚鈍そうな顔をしている。学校の体面さえ保たれるなら、特別級を用意したいくらいだったようだ。
 ボクは、学校が終わると、いつも、一人で帰る。友達がいなかったから。そう、ボクは、保育所の頃も、小学校も、ああ、そうだ、オレは、高校を卒業するまで、ずっと真っ直ぐ帰宅組、それも、一人きりの。
 オレには、ああ、今はボクの話か、ボクの世界は、なんとなく丸っこい。丸まっているといっても、別に円満だとか、世界が平和だとか、穏やかだとか、そんな意味じゃない。そう、なんというか、閉じているんだ。負の意味の光の輪に取り囲まれているようだった。
 ボクの気持ちも思いも感情も、何もかもが、ワッカの中に封じ込められているみたいだった。何か喋っても、それが半径にすると数メートルの球体の中で反響して果てる。球の内面で篭ってしまう。ボクの言葉がまるで球の外に通じない。
 でも、球の外からの言葉は、すんなり入ってくる。すんなりどころか、ビンビン届いてくる。突き刺さってくると言いたいほどに、鋭い切っ先でボクの心を刺し貫く。球はボクのことを閉じ込めてしまうくせに、球の外界の一切の侵入をまるで拒まない。浸水する。ボクを水浸しにする。ボクを溺れさせる。ボクは窒息する。
 ああ、ボクは、何度、窒息して果てたことか。球の中で息も絶え絶えになって、酸素不足の水槽で、口をパクパクやっている。なのに、そんなボクのことを、周囲の誰も気付かない。
 ボクは、保育所を出る頃には、絶命していたんだと思う。世界とプッツリ、断ち切れてしまった。頭の中が真っ赤に燃え上がり、そうして焼き切れた。
 窒息して息も絶えようという瞬間、世界が本当に燃え上がるんだ。で、世界が燃えたはずなのに、焼け跡に転がっているのは、ボクの屍骸。真っ黒焦げの無慙なボク。
 母ちゃんは、どうして、こんなボクに気付いてくれないんだろうって、ほんの少し、思った。でも、ボクからは世界は見えるけれど、外の世界からはボクが見えないんだって分かった時、母ちゃんに無理を言ってはいけないだと思った。
 あれ? 話が脱線した。
 いいんだ、どうせ、中身のある話じゃないし。
 で、ボクはいつも一人で下校する。下校するといっても、何処へ帰る当てもない。家に帰ってもつまらない。家も学校も、ボクとは無縁の世界なのだし。ただ、習慣でボクは家に帰ったりもするだけのことだ。
 そんな或る日のことだった。ボクの目の前を奴がトボトボと歩いている。奴の後ろ姿を見て、ああ、奴もボクと仲間なのかなって、直感した。
 奴って、例の噂の奴のことさ。ボクに輪をかけたほどの魯鈍な奴のことさ。人のことをそんな風に言っちゃダメだって。話の中のことじゃないか。世間体を憚る必要なんて、ないだろう? どうせ、みんなボクのことも奴のことも、そんな風に思っているじゃないか。担任の女の先生も、ボクを見放している。声も懸けない。質問を全員にして、順々に答えさせる途中にボクがいるから、問い掛けるけど、ボクが口の中で答えをもごもごさせている間に、さっさと隣りのやつの方へ目が向いている。答えが、それこそ、出来の悪い、錆び付いた機械みたいにやっと出てきた頃には、先生の目線は、遥か彼方なのだ。
 先生、ボクはここにいるんだよ、答だって、分かったよ。答えさせてよ。
 でも、ダメ。出来なかった奴等は、教室の後ろに立てって言われて、それでお終いなのさ。
 ああ、また、脱線だ。ボクは、奴のことなど、全然、関心はなかった。その日は、ボクはどうかしていたんだ。余程、退屈していたんだろうか。
 それとも、奴の歩きぶりに何か、自分でも分からない何かを感じていたからなのか。
 奴は、トボトボと歩いているって言ったけど、でも、フラフラと当てもなく歩いているわけじゃなかった。一度も、あちこち与太つくことなく、曲がり角に来たら、車や自転車くらいには注意するけど、あとは、目当ての方向へ歩いていくのだった。
 奴は何処かへ行く。最初はただの暇潰しだったはずが、終いには奴の行動への好奇心に変わっていた。奴は、一体、何処へ。
 ボクは、遊びというと、鬼ごっこが大好き。で、一番、好きなのは、ボクが鬼になって、誰かしらを追い駆けることだ。それも、何処までも追い駆ける。町内を端から端まで駆け回り、ついには相手がへとへとになって、道端にへたり込むまで追い駆けつづける。ボクは決して追跡を諦めない。獲物を追うのが大好きなのだ。
 一度、近所の女の子を何処だったかに追い詰めて、そうして、あの日、ボクはあの子に何をしたんだっけ。ま、いいや、それもまた、別の話だ。
 奴は、もう、三十分ほども歩いていた。学校の校下(小中学校の生徒の居住範囲)も、通り越していた。
 それでも、やっと、奴は立ち止まった。愚鈍そうな顔。でも、一瞬だけ、周囲を見回す奴の目は、いつもの鈍い光ではなく、ボクが鬼ごっこの果てに女の子を追い詰めた時、きっと放っていただろう、獣の目をしていた。
 でも、それは誤解だと後で気がついた。奴はただ、欲望にギラ付いていただけなのだ。そのことは、口元のだらしなさを見れば、一目瞭然のはずだったのだが、ボクにはそこまで気付く観察力があるはずもなかった。
 そこには、公民館のような建物があった。昼下がりで、人気(ひとけ)がない。御丁寧に玄関に締め切りの札のようなものさえ、ぶら下がっている。
 奴は、どうしようというのか。
 が、奴は、周囲に人気がなことを確認すると、躊躇いもなく、公民館の裏手に回っていった。ボクには土地勘のない場所で、公民館の裏がどうなっているのか、分からない。そこまで回り込んで追い駆けるべきか、もしかして、裏に奴が隠れているんじゃないか、ボクは急に怖気付いてきた。後悔し始めていた。なんだか、妙な予感というか胸騒ぎを覚えていた。
 後戻りしようか。ボクは、公民館を目前にして、どうしたらいいのか分からず、何処かの民家の庭先で、立ち往生していた。そのうち、とうとう、ボクは、道端にへたり込んでしまった。途方に暮れていたのだ。
 すると、そこへ、女の人がやってきた。女の人って、ボクらより二つか三つ年上っていうだけだけど、随分と大人に感じられた。
(あ、あの人は?!)
 そう、ボクの近所に住む姉さんなのだった。
 姉さんは、サツキの咲き誇る家の庭の植木の陰でウンコ坐りしているボクに気付かず、やはり公民館の裏手に回っていく。
 その後ろ姿を見て、ボクは、またまた胸騒ぎし始めた。ボクは、もう、自分にはどうしようもない力に引き摺られて、彼女等の行った先へ向かった。公民館の脇を農業用水があり、その土手に沿って、雑草が鬱蒼と生い茂っていた。ボクは、用水路の土手に回り込み、公民館の裏の辺りを見遣った。
 いた! 二人とも居る。何事か二人して喋っているようでもあるけど、姉さんのほうが小さな奴に向かって意見しているようにも思える。
 奴が叱られている? でも、奴の愚鈍な表情に、怯える様子は見受けられない。反って、笑みさえ浮かべているようにも思える。笑みというより、ヘラヘラと、だらしない、それこそ、涎でも垂らしそうな、締まりのない緩みに過ぎなかったのかもしれない。
 姉さんの表情は後ろになっていて、伺えない。最初、叱っているように見えたのは、大きい姉さんが、小さい奴に上から覗き込むように喋っているからで、僅かに望める頬からは怒りの雰囲気は漂ってこない。むしろ、奴とは違う意味で、何か緩んだような、開いたような、ボクには何とも表現のしようのない、得体の知れない、それこそ、ボクがそれまでに垣間見たことのないような感情が露わになっているような気がした。
 ボクは、もう、金縛りに遭っているみたいだった。目が釘付けだった。何かを予感していた。何かが起きるに違いないと思った。ボクや奴とは違って、姉さんは、まともな人のはずだった。きっと、クラスでも、普通以上の成績を残せるような、世間から見てボク等のような違和感を覚えさえる人ではなかったと思う。
 でも、、その姉さんも、その場では、もう、盲目的な状態になっていた。緩んだような空気が、一瞬、張り詰めたような、緊張した状態に変化したのだ。 
 あるいは、そう、感じたのは、ボクの欲情のせいだったかもしれない。
 そこには、ボクには訳の分からないような二つの体の絡み合いがあった。姉さんは、奴の下半身を脱がさせていたのだ。あっという間の出来事だった。空気が凍り付いている。五月の太陽が地上の世界をジリジリと焼いているようだった。ボクの頭も、熱気で、それとも興奮で沸騰しそうだった。
 やつ等は、公民館の庇と何本かのドラム缶の陰で、直射日光は凌げていた。なのに、日陰の中で、ボクより熱いのだった。ボクの知っている近所でも評判の、成績もいいし、ピアノ教室やら算盤教室にも通っている、品の良さそうな姉さんだった、はずなのに、そこには近所の、いや、学校の誰にも見せない、裏の顔の姉さんがいた。
 奴は、姉さんの命ずるが侭だった。一切、抵抗しないのだった。命ずるが侭に、されるが侭に、そして命じられるように姉さんにも奉仕していた。
 ボクは、奴に嫉妬していた。ボクなんかより、ずっと下の奴のはずなのに、ここでは、ボクが経験したことのないような目くるめく体験を味わっている。様子からすると、突発的な出来事なんかじゃない。幾たびも、繰り広げられただろう、秘め事なのは明らかだった。
 手馴れている。ボクが鬼ごっこの果てに、あの子に手間取ったのとは、まるで違う、濃密で親密で秘密に満ちた蜜事が日陰の世界をショッキングピンクの色に染め上げていた。
 ああ、奴はボクより遥かに知っている。体験している。それも、あの品の良さそうな姉さんと。ボクだって密かに憧れている、高嶺の花の姉さんと。あの姉さんが、欲情を滾らせている。奴に向かって、誰にも見せない顔を、体を露わにしている。奴が蛇のようになって、姉さんの体に巻き付いている。絡んでいる。
 いや、絡み合っている。
 ボクは、それから、週に一度の奴等の密会現場に立ち会った。姉さんは、習い事が多くて、週に一度しか、そんな機会を設けられないのだと分かるのに、時間が掛からなかった。
 ボクは、草むらに潜っていた。地べたに這いつくばっていた。奴が姉さんの体に巻き付き這い回る蛇なら、ボクは、当てどない、満たしようのない扇情に駆られ、喉のカラカラの、太陽に干上がったミミズだった。姉さんになど、辿り着きようがなかった。しかも、奴にさえ、男として敵わない。
 ボクは、それからというもの、姉さんに町や学校で擦れ違うたびに、ドキドキする思いをどうしようもなかった。
 でも、それ以上に情ないのは、覗き見ることの快感に酔い痴れてしまったことだ。鬼ごっこで女の子を追い詰めて、そうして、姉さんたちの真似事をボクも試みたけれど、一向に面白くないのだ。あの、痺れるような快感には程遠いのだ。
 ああ、覗き見ることの、悲しいほどの充実感。ボクの愚鈍なる児戯。奴等の児戯を越える快感を垣間見た喜びという体験は、ボクに、入り組んだ、一層、屈折に満ちた世界で悦楽の時を獲得するしか、他に術がないようにさせてしまった。
 ボクは、こんな至上なる悦びを教えてもらって、やつ等に感謝すべきか。
 そうかもしれない。今、ボクは、いや、オレは、誰も知らない快感への扉の開け方を知っている。オレは、天国への扉と呼んでも差し支えのない、完璧なる世界への扉を開ける鍵の所有者になったのだ。メビウスの輪のように、その相鍵を回すだけで、ある面をなぞっていけば、他人には見せない、隠しとおしている人間の一面へと間違いなく、自然に至ることができる。
 今、オレは、あの頃のボクより遥かに完璧なる球体の中に居ることを感じている。
 もしかしたら、本当に天国への扉を開けてしまったのかもしれない。

                          (04/11/28 作)

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