菜穂の夏
もう、11月も終わりという或る日、オレはK町にある会館の近くの喫茶店にいた。
そこは会館への人の出入りを見守るのに絶好の位置にあったのだ。
会館の一室では、同窓会が開かれている。同じ年次に高校を卒業した人たちに呼びかけられて今年も開かれているのだ。
オレのところにも、今年、初めて案内状が来ていた。何だって、オレなどを呼ぶのか。
けれど、オレは行かない。何故って、クラス会に集まる奴等って、昔を懐かしがる気持ちもあるんだろうけど、中心になって熱心に活動している奴は、自分の成功を自慢したがっているのがみえみえなのだ。中に一人、近い将来、選挙に打って出ると噂されている奴もいる。
オレは、そんな胡散臭そうな集まりなどに出たくはない!
なのに、オレは、ここにこうして坐って、会館の方を見遣っている。
そう、そこにはオレの好きだった人が来るはずだから…。そうでなければ、近くにさえ、来るはずがないのだ。どうせ、選挙の際にはよろしくとか、そんな話になるのが目に見えている。一票でも喉から手が出るほど欲しいのだろう。
オレは、大学までは順調だった。けれど、大学時代に回り道に迷い込んで、出世コースからは、すっかり遠ざかってしまった。別に出世したいとは思わないけれど、コースにしっかり乗った連中とは、話が合うはずもない。今、何しているの。医者してる、店を開いている、会社を興して頑張ってる、結婚して子育てに大変、そんな中で、未だに独り身で、何をしているわけでもないオレは、どう答えればいい? ブラブラしているとでも? 義理で数分は話を聞いてくれても、すぐに脇に追いやられるのがオチだ。
オレと違って、菜穂は、いや、菜穂だなんて、親しげに呼びかけちゃ、失礼に当たる、もう、何年も前にお医者さんと結婚して、今じゃ、立派な名士の奥方様だ。子供も医者を目指して勉強中だとか、そんな噂を風の便りに聞いている。深窓の世界、分厚い扉の向こうの人になってしまっているのだ。
それでも、オレは菜穂、と親しげに呼び捨てしていた時代があったのだ。高校時代には、二人だけの世界が目の前にあったのだ、なのに…。
珈琲の香りが漂っていた。もう、何杯目になるだろう。喫茶店の窓際に坐って、ずっと会館の方を伺っていた。が、菜穂の、いや、奥方様の姿が見えない。
おかしい、今日は来るはずと聞いているのに、クラス会もとっくに始まっている、下手すると一次会が終わってしまいそうな時間じゃないか。
喫茶店の時計を見るのも、何度目だろう。とうとう、時計は9時を回ってしまった。一次会が終わる時間だ。彼女は来なかったのか。それとも、見逃した? そんなはずはない。オレが彼女を見逃すはずがないのだ。
オレは、ただ、彼女の姿を見たいだけだった。神々しくて、眩しくて、まともには見られないかもしれない。でも、ひと目でもいいから、彼女の元気な様子を確かめたかった。今の彼女の生活を邪魔したくはない。うらぶれたような生活をしているオレの出る幕じゃ、まるでない。
そもそも、彼女、オレのことを覚えているだろうか。あれから、十数年。下手すると二十年近い。
あれから…。
あの日、オレたちの間に、一体、何があったのか。もしかしたら何もなかったのではないか。
オレは志望する大学にストレートで入った。彼女もストレートに大学へ行ったが、密かに狙っていた大学ではなく、家庭の事情、お父さんの意見もあって名門と呼ばれるある女子大に行った。二人とも東京の空の下に暮らしていたけれど、大学のキャンパスのある場所が、まるで違うのだった。
それに、オレは大学に入って、昂揚する自分を感じていた。しっかり勉強して、役人に、できれば、国家公務員になって、何か行政に携わるような仕事をすることを夢見ていた。官僚という言葉さえ、脳裏にちらついていた。だから、高校時代には、学校の花だった菜穂のことも、大学生になり世界が広がると、いや、もっと露骨に言うと、ゴロゴロいる才媛に取り囲まれると、彼女のことが急にみすぼらしくさえ、感じられてしまったのだ。
でも、そんなことは、彼女に言える筈がなかった。
大学生になって三年目の、あれは…、夏休み直前の頃だったろうか。オレたちは、不忍池の近くの鴎外記念本郷図書館のある坂道を歩いたりした。鴎外が品川の海の白波が見えることから、観潮楼と名付けた彼の旧宅があったらしい。そうだ、その頃、オレは鴎外に凝っていたのだ。久々のデートだというのに、妙に偏屈な場所を選んだのも、そのせいだった。どこか、オレはキミとは違うんだよと告げたかったのか…。
ああ、思い出した、オレは、この坂の上から海が見えたから、などと知ったかぶりの知識など披露していたんだっけ。
すると、菜穂は、坂の上の見晴らしの良さそうな場所に立ち、
「ねえ、品川って、あっちのほうかしら」
オレは、知識はあったけど、自分で展望してみようとはしたことがなかった。が、知らないとは言えず、「うん、そんなもんじゃないか」なんて、いい加減な返事をしていた。
菜穂は、踵を上げて、精一杯、背伸びして、遠くを見ようとしていた。
オレは、そんな菜穂が眩しいというより、なんだか、子供っぽく思えて、ますます彼女のことが鬱陶しくなっていたのだった。オレには、菜穂より、もっと相応しい女性がいるに違いない…。
あの後、オレたちは、何処をどう、歩いたのだったろうか。
ただ、確かなのは、その後、オレは坂道を転げ落ちるように、訳の分からない世界に踏み迷っていったことだ。
鴎外を、文学の世界を分け入って、とうとう道を見失ってしまった。自分でも何か書けるような気がした。鴎外でなくとも、書店で売られている文芸雑誌に載っている小説程度なら、オレにも書ける。もっと、凄いのを書ける、書けるはず、そう、書けるはずだったのだ。
が、書かれる文章は無様なものだった。どう贔屓目に見ても、凡庸を通り越して、堅苦しい、何処かで読んだり聞きかじった話や文章を継ぎ接ぎしたような、人間味の欠片もない、漢字ばかりで埋まっている、息の詰まるような作文に過ぎないのだった。
役人になるという夢は、捨て去った。役人になるより文学の道を歩き通すのだ。漱石も太宰も鴎外も潤一郎も果たし得なかったような、描きえなかった世界をこのオレが表現してみせる…。オレの夢は、虚構の世界をグルグル巡っていた。巡りすぎて目が回ってしまった。オレは自分を見失ってしまった。気が付いたら、彼女も失い、夢も失い、自分をも迷妄の最中に叩き込んでしまっていた。
菜穂は、あの日、別れ際に何か一言、言った。その一言が、オレの胸を抉るようだった。
が、オレは、その末期の一言さえ、忘れてしまった。いや、覚えておきたくなかったのだ。
彼女は、オレの胸で小鳩のように震えていた。オレは彼女をきつく抱き締めることもできないでいた。抱くと、未練が残る、今のオレは、もっと他の女を、いや、もっとオレの議論に太刀打ちできるような、話のツマに和歌の一つ、文学上のエピソードの一つも差し挟めるような、そんな女を必要としている…、そんなオレには、彼女に深入りする暇などないのだ…。
オレの手は彼女の背中で、曖昧に漂っていた。指先は彼女のブラウスの生地に触れていた。何となく、汗が滲んでいたような、そんな気もしていた。生々しい肉体の存在に圧倒されそうだった。高校のときは、自分だって土臭いような青っぽい扇情に頭が一杯で、逆に目の前の彼女が見えていなかった。
が、大学に入って二年以上も経って、女が、自分さえその気なら手中になる、両腕の中に包み込むことができる。そう、彼女をオレのものにできる、そう直感した瞬間、オレは逃げ去った。欲望、本能の凄まじさに敵前逃亡してしまった。欲望のままに身を任せたら、嵐の海のヨットより荒波に翻弄される、自分を見失う…。
そう、オレは、彼女との恋が実るという、一つの夢の成就が怖かった。夢が叶うと、幻想が吹き払われ、雲が飛び去り、味気のない現実が垣間見えてくる。オレは、現実を見たくなかったのかもしれない。
そうして、彼女との恋の実現という夢より、もっと叶いそうにない、叶う意味もない、文学の夢という魔の世界の世慣れた魔女に魅入られていったのだ。熟女の深情けに酔ったのだ。その方が、安心して好き放題できそうだと思えたのだ。
オレは、彼女の背中に回した腕を最後まで宙ぶらりんのままに彷徨わせていた。そして震える彼女をもっと宙吊りのままに置きざりにした。項(うなじ)からは、女の香がきついほどに生々しくオレの鼻を突いていた。
彼女はオレの腕の中に居る。でも、居ない。
何故なら、オレは駕篭の鳥の彼女を放とうとしているから。駕篭の鍵を閉めようとはしないから。彼女を自由に?
違う。自分を自由にするために。
手の指に彼女の遠い感触だけが残った。菜穂を引き離す時、彼女の目は固く閉じられていた。頬は紅潮していた。唇が開いているような、閉じているような、半開きの状態だった。ぷっくりとした唇が、肉感的だった。彼女は今にも倒れそうなほど、頼りなさ気にやっと立っている、そんなことは野暮なオレだって気付いていた。
けれど、オレは、彼女を引き離した。いや、突き放した。
何故、彼女を突き放す必要があったのだろうか。
時計は十時になろうとしていた。会館の明りは、すっかり消えていた。喫茶店も閉店の時間が迫っていた。彼女の姿は、とうとう、全く、見えないままだった。空振りに終わった。姿だけでも見たかったのに。
オレは、悄然と店を出た。外気は冷たかった。昨日までの小春日和が嘘のような寒さが襲ってきていた。ジャケットの襟を立て、初冬の本郷の町を歩いた。会館の裏手を回り、足は、ダラダラと坂道を登っていった。上り坂の先は、弱々しい街灯がポツンとあるだけで、表通りの眩しさを嘲笑うかのような薄暗さだった。
コツコツと靴の音が響く。冷たい空気の中で耳に痛いほどだった。コツコツ…。が、不意に、音が二重になっているように感じられた。音が白壁に反響しているから? そうとも思えなかった。
闇の先から、オレのとは違う、ハイヒールの踵が生み出すような、線の細い靴音が聞えてくる。やがて、音の正体が分かった。女の姿が次第に闇に浮かび上がってきたのだ。
そうだ、遠い昔、こんなことがあったような。
高校三年の夏の日の未明だったか、ふと、得体の知れない夢で目覚めた。起きた瞬間、どんな夢だったのか、まるで分からなくなった。ただ、鼓動が激しかった。ドキドキしてならないのだった。胸騒ぎのような不思議な感覚に駆り立てられ、オレは、夏とはいえ、まだ薄暗い中、家を抜け出し、歩いて十分ほどのJ川へと向かった。岩桔梗の咲き乱れる土手を歩き、橋を渡り、彼女の町へ向かった。
川面が朝焼けの光を撥ね返して眩しかったのを覚えている。
彼女と会わないといけない。今、会うのだ。
何の根拠もないのに、遭えるという確信めいたものがあった。オレは、闇雲に歩いた。いつしか、彼女の家の前の道を歩いていた。いよいよ、彼女の家の傍に近付いてた。その頃になって、まるで夢遊病のような衝動の興奮からオレは醒め始めていた。
(オレは、何をしているんだ?!)
でも、足を止めることはできなかった。いよいよ、あの理容店の角を曲がると彼女の家が見える…。
その瞬間だった。角から、彼女が現れたのだ。何故? どうして? ただの偶然?
彼女は胸に楽譜を抱えていた。不思議なのは、彼女はオレを見ても、少しも驚かなかったことだ。
「おはよ」オレは、頓珍漢な言葉を懸けるしかなかった。
「今から、ピアノの練習に行くの。一緒に来る?」
その言葉を聞いた瞬間、オレは思い出した。そうだ、彼女、週に二度、近くの学校の音楽室でピアノの練習をしている、そんな話を雑談の中で聞いていた、オレは、その話を忘れていたけれど、無意識の内に銘記されていて、夜の深みを踏み迷っているうちに、どうしても彼女がピアノを弾く姿を見たい、彼女のピアノの音を聞いてみたいと強く願ったらしいのである。
闇という地上世界の海の沖合いから女が浮かび上がってくるようだった。濃密な闇。冬の初めの身の縮むような、でも、秋の日の穏やかさの余韻も完全には遠ざかっていない、曖昧な寒さ。その白い闇の中から女が次第に姿を現してくる。
枯れ葉が、街灯に照らされて、桜吹雪のように舞い落ちるのが見えた。
(あれが、あの、菜穂だったら、ドラマだな)
そう、思っていた。まさか、菜穂がここにいるはずがない。あの名士の奥様に納まっているはずの菜穂が。
けれど、その女は、本当に菜穂だった。オレの菜穂だった。夢でも嘘でもなく、菜穂本人なのだった。
「菜穂!」
オレは、分別も忘れて、昔のように菜穂! と呼び捨てにしてしまった。その言葉に驚いて、オレは慌てて、「菜穂さん?!」と言い換えた。
すると、菜穂は、
「来てくれたのね」と言った。
そして、しばらくして、
「あのね、菜穂って呼んでいいの」
「いいって…。それにしても、どうしてここに、キミが」
「来たでしょ、案内状、あれ、私が出すように仕向けたのよ」
「キミが?」
「キミがって、他人行儀ね。菜穂って呼んで大丈夫なのよ、もう」
「もう、大丈夫? どういうこと」
菜穂は、何も答えなかった。ただ、オレの目を直視するのだった。黒い瞳。オレの好きな菜穂の瞳だ。そうだ、あの当時、彼女の黒髪、彼女の声、彼女の笑顔が好きだった。でも、オレは、菜穂の黒い瞳が好きだったのだ。
真っ黒な瞳。だけど、限りなく透明な瞳なのだった。姿も形も様変わりしていた。でも、瞳の輝きだけは変わっていない。いや、昔以上に何か、震えるような、そう、秋の日の夕陽を優しく浮かべる、揺れて止まない目。
にこやかな表情は崩さないのだけど、でも、瞳の奥に、何か怯えるような、不思議なか弱さを感じさせる目。オレは、その瞳に眺め入るたびに、この人は何か不安なものを抱えている。その不安の正体は分からない。ただ、その不安を少しでも癒せるとしたらオレだけだ。何故って、その微かに揺れ漂う不安の鳴らす音色に気付いているのは、オレだけなのだから。
「わたしね、離婚したの」
「離婚?」思わず、どうしてって訊ねようとした。
「ふふん、当て付けが通用しなかったし」
「当て付け?」
「あなたって、鈍感なのよね」
オレは、反す言葉が見当たらなかった。今はただ、彼女の瞳を食い入るように見詰めるばかりだった。
(子供はどうしたの?)
そんな野暮な言葉も飲み込んだ。今は、そんな時じゃない。ここに居るのは、オレと菜穂の二人きりなのだ。
彼女は、オレの前に立ち、また、目を閉じた。そう、オレたちが最後に会った、あの夏の日のように。
オレは、ゆっくりと腕を彼女の背中に回した。そして、今度は、しっかりと抱き締めた。今度こそ、菜穂をオレのものにするために。あの日の失敗を繰り返さないために。
冬の夜は暮れていった。けれど、菜穂とオレの暑い夏は、始まったばかりなのだった。
[本作は、小生のサイトの掲示板で1万をヒットされた方への、キリ番プレゼントとして書き下ろしたものです。菜穂というのは、ご本人様の希望で付けた名前です。 (04/11/27 作) (04/11/29 誤字訂正)]
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コメント
「オレもの」を遡って読んでいるところですが、
「オレ」の深く荒荒しい苦悩に感染しそうです。
この一篇まで来てちょっとホッとしました。
投稿: 加藤思何理 | 2007/02/06 09:52
加藤思何理さん、コメント、ありがとう。
小生、本作を久しぶりに(多分、書きあげた時からは初めてかと思うほど久しぶりに)読みました。
読みながら、ああ、こんな作品も書いたなって。
これは、キリ番プレゼント作品なので、ハッピーエンドを前提にして書いたのです。
そうでなかったら、小生のこと、悲恋で終えたはず。
結構、いい作品かな、なんて。
投稿: やいっち | 2007/02/07 07:22