2008/05/05

「人間は考える葦である」考?

 ブレーズ・パスカル(Blaise Pascal、1623年6月19日 - 1662年8月19日)の言葉に、「人間は考える葦である」がある。
「クレオパトラの鼻、それがもう少し低かったら、大地の全表面は変わっていたであろう」と共に有名な言葉である。

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→ 「冬に穂が残るヨシ」 (画像は、「ヨシ - Wikipedia」より)

人間は考える葦である」のくだりをもう少し示しておこう(前田陽一/由木康訳『世界の名著 29 パスカル パンセ』中央公論社)。

 人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一適の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すよりも尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。

 以下、「だから、われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある」云々と続いていく。
 こうした言葉に宇宙観あるいは世界観において、地球中心説(天動説)から太陽中心説(地動説)への大転換があったこと(宇宙の中にあって各天体は神に依らずして如何に浮び秩序を保ちえるのか…)、同時にパスカル自身の苦痛に苛まれた個人的な事情も読み取っていいのだろう。

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2008/05/03

「瘴気」の沙汰?

 十年来、ちびちびと読み続けてきたヘーゲルの『精神現象学』( 長谷川 宏の手になる訳で。学生の時は樫山欽四郎訳で読んだ。内容は全く理解できなかったものの、何か神秘主義の匂いのようなものを嗅ぎ取っていたっけ。いずれにしてもヘーゲルにしか書けない(創造・妄想?)できない作品だと当時、感じたっけ)もようやく読了の日が近付いている最中に「瘴気(しょうき)」なんて言葉に行き当たってしまった。

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→ 野原じゃなくて、我が家の畑。

 一方、「草いきれ」という言葉がある。辞書に依ると、「夏の強い日ざしをうけて、草むらから立ちのぼる、むっとする熱気」だとか。

瘴気」とか「草いきれ」なんて言葉を持ち出したくなったのは、「帰郷して待っていたのは草むしり」で書いているように、このところ草むしりの日々が続いているからであろうと思う。
 生命力の横溢、生き物の弱さと逞しさと。

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2008/04/26

「バナナは木ではなく草である」本編アップ

バナナは木ではなく草である:余談篇」をアップしました。

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2008/04/04

雑草をめぐる雑想

「雑草という名前の草は無い」という有名な言葉があるが、雑草とは一体どんな草花なのだろう。
 雑草とそうでない草花との違いは何処にあるのだろう。

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← 「東照宮の石垣」 (画像は、「Photo by (c)Tomo.Yun」より)

 そうでない草花と書いたが、花壇などで手塩に掛けられて育つ花々のほかに野草もある。
 野草と雑草とも違いがあるのだろうか。

 野草も、「山野に生える草」ということで雑草とは生活圏が違うだけで、広い意味では雑草の範疇に入るのだろうか。
 野生の草花って、あるんだろうな。手付かずの状態のものがあるかどうか分からないけれど。

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2008/02/07

冬に幽霊考?

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→ 丸山応挙『幽霊画』(バークレー美術館蔵) (画像は、「第126話落語「応挙の幽霊」の舞台を歩く」(ホームページ:「落語の舞台を歩く」)から)

 幽霊に付いて、当り障りのない考察を試みよう。
 小生、怖がりなので、幽霊の気の障るような考察はしないつもりである。幽霊さんに気が付かれないよう、こっそりと、そして不意に幽霊さんが現れて絡まれないよう、辺りの気配を十分に探りつつ、あれこれ意味のない探求を試みたい。

 それにしても、まず幽霊について先ず気づくことは、幽霊には足のないとされること。

 幽霊は、江戸時代の怪談ものだと、柳の枝の垂れる薄暗いお堀端で不意に現れる。牡丹燈篭は別として、そうした状況で現れる幽霊さんというのは、決まって足がない。というか、下のほうが曖昧模糊としている。

 よく、幽霊には、足がないって言うけど、何処までがないんだろう。

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2008/02/02

もしも月がなかったら

  2005年に開催された「愛・地球博」の「三菱未来館」で、「もしも月がなかったら」という企画展が催されていた:
三菱未来館@earth

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← 画像(壁紙素材)は、「La Moon」より。拡大したほうが画像の見事さが分かる。

 上掲の「三菱未来館@earth」の中の「三菱未来館@earthもしも月がなかったら EXPO 2005 AICHI,JAPAN」なる頁によると:

三菱未来館は、身近でありながらまだ未知の部分を多く残した「月」に着目。「もしも月がなかったら、地球はどうなっていただろう?」という素朴な疑問を入口に「いまこの地球に生きている不思議、その奇跡へのまなざし」というテーマで出展します。パビリオンは、映像シアターで米国メイン大学天文学・物理学部教授ニール・F・カミンズ氏の著書「もしも月がなかったら」をベースに映像物語が展開されます。

 月がなかったら、月見が出来ないとか、風情がなくなるとか、まあ、科学の門外漢たる小生なら考えそうなお「もしも」像はいろいろ考えられる。
 が、実は、月がなかったら地球は想像を絶する世界となっていただろうという。

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2008/01/29

獰猛なる信仰の行方

 S.グリーンブラット著の『驚異と占有―新世界の驚き』(荒木 正純【訳】 みすず書房)を暇に飽かして一気に読了。
 出版社の賞品説明によると、「新大陸を発見したコロンブスの「驚き」は、なぜ必然的に、その「土地の占有」と結びつくのか?多くの記録文書や報告、物語を解読しつつ、植民地化への心理機構をみごとに分析した出色の論考」だって。
 1994年の刊行なので、新著とは言えない。

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→ S.グリーンブラット著『驚異と占有―新世界の驚き』(荒木 正純【訳】 みすず書房)

 本書を読んで、改めて感じたのは、世界を席捲し支配するのは、信仰と権威の強さなのかなってこと。思い込みの強さがある限り、どんな野蛮も合法化されるし正当化できてしまう。
 世界支配は、富への欲望もあるけど、世界の風景を己が信仰の色に染め上げてしまおうという、獰猛なまでの信仰心こそがエネルギー源のように今更ながら思える。

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2007/12/23

髪は長~~い友達

 考えてみれば不思議なことかもしれないけれど、考えないので不思議ではないことっていろいろある…多分。
 人の髪って、何処まで伸びるのか。
 考えたことのある人は結構いるのではなかろうか。

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→ 我が守り神である白猫さんの、在りし日の雄姿。3年前までは近所で見かけたのだが…。毛並みの話なので、久々に登場願った。懐かしい!

 三面記事なのか社会面の隅っこ、あるいは世界の珍しいニュースということで、何メートルも髪を伸ばし続けているひとのことを、時折、テレビそのほかで見聞きする。
 で、ついでながら、やはり誰しも考えたことがあると思うが、少なくとも酒の席か暇の徒然のお喋りのネタとして、腋毛やあそこの毛はどうなのかってことも、疑問として論議(?)されてきたことと思う。

 腋毛は、髪の毛のように伸び続けることはないのか。
 胸毛とか下(しも)の毛などは、伸び続けるようにはなっていないのか。

 あるいは、腋毛にしても胸毛にしても下の毛にしても脛毛(すねげ)にしても、本来的には伸び続ける素質(才能? 可能性?)があるのだが、生憎と、人類が衣服を着用するようになり、日陰の存在のように押し隠されてしまって、出る杭は打たれるではないが、伸びる髪だが邪魔なので衣服や肌に擦れて縮れ、あるいは日陰の身であることで世を儚んでいじけひねくれて、伸びるものも伸びることはないのか。

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2007/12/13

ライスダール…さりげなく劇的に(前篇)

[本稿は、7日(木)に書いたもの。ようやくアップに扱ぎつけた。風景画となると、ロイスダール(ライスダール)を逸するわけには行かない。ライスダールの特徴は、(本文に示しているけれど)風景画に必ずのように雲が描かれている点にあると思える。雲の様子の変幻で光と影の織りなすドラマ、そして瞑想を誘う時の移ろいまでもが示されているようだ。ところで、ケネス・クラーク著の『風景画論』がなかなか読み応えがあったので、久しくその存在を気には掛けていたが今ひとつ手が伸びなかった、同氏著の『ザ・ヌード ―理想的形態の研究』(高階 秀爾 翻訳 , 佐々木 英也 翻訳 ちくま学芸文庫 筑摩書房刊 但し小生は単行本である美術出版社版で読む。ヌード画を大きな写真で観たいから!)を読み始めた。来年辺り、ブログ記事のメインの題材を風景画論から人物画へ、じゃなく、一気にヌード画に移るかどうするか思案中。深みに嵌まりそう!]

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← ケネス・クラーク 著『ザ・ヌード ―理想的形態の研究』(高階 秀爾 翻訳 , 佐々木 英也 翻訳 ちくま学芸文庫 筑摩書房) 「本書は、裸体像をテーマとした理想的な造形表現が、西欧美術の中でどのように変貌しながら生き続けていったかを跡づけたもので、該博な知識と鋭い観察に支えられたユニークな芸術論」だとか。

オランダ風景画の巨匠アルベルト・カイプ」なる記事の末尾で、ヤーコプ・ファン・ロイスダール(あるいはライスダールと表記)というやはりオランダの画家が気になると書いている。
 上の下書きは、11月19日頃に書いたもの。
 そのうち忘れちゃうかなと思っていたが、アルベルト・カイプ関連情報をネットで集めている過程で何作か観たロイスダールの絵の風景画の印象が脳裏に残っているようで、やはり、多少なりとも特集を組んでおきたくなった。

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2007/12/09

ベラスケス「侍女たち」の風景(後篇)

[本稿は、「ベラスケス「侍女たち」の風景(前篇)」の続編(後篇)です。]

 小生の手には余るので、ネットで見つけたあるサイト(「ミシェル・フーコーによるベラスケス「侍女たち」の読解」)の説明を援用させてもらう。

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→ バンヴィル,ジョン【著】〈Banville,John〉 高橋和久 小熊令子【訳】 『プラネタリー・クラシクス ケプラーの憂鬱』(工作舎) 本書は小説である。「ケプラーの憂鬱-詳細」参照。「「初めに形ありき!」宇宙における調和は幾何学に基礎があると信じ、天球に数学的な図形を探し求めたヨハネス・ケプラー。本書は、天文学に捧げた彼の半生を追いながら、科学的真理は幻想から生まれることを描いたヒストリオグラフィック(歴史記述的)・メタフィクションである。1981年度英国ガーディアン小説賞受賞作」だという。ケプラーは、プラトンの立体の夢を追ったのだろうか。

「フーコーの『言葉と物』も、それに近いと言えば近いことを問題にしています。「言葉」と「物」の乖離です。われわれは、「物」を見ているようで実は「言葉」を見ている。そういう意味で、われわれが生きている世界は「表象の世界」です。フーコーさんは、われわれが生きるこの現実としての「表象の世界」を鮮明に語るために、ベラスケスやドン・キホーテを取り上げているのです。物なら物という実体的な裏付けを欠いた「表象」が浮遊し、そんな「表象」たちが互いに他を支えあう形で自己完結している世界。そこにどんな力学が働いて「権力」や「主体」や「知」が生まれるか。これを説明するためです。」という説明も面白いが、ここは飛ばす。

 以下が肝心な点だろう:

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2007/11/30

ベラスケス「侍女たち」の風景(前篇)

「furiae」…ベルグクヴィストの周辺(前篇)」でも書いたけど、「「ケプラーの夢(ソムニウム)」再び」で言及していたジョシュア・ギルダー、アン-リー・ギルダー 著『ケプラー疑惑 ティコ・ブラーエの死の謎と盗まれた観測記録』(山越幸江 訳、地人書館)を読了した。

 本書はいろんな理由があって手にしたのだが、その一つは、西洋における風景画の誕生、あるいはその画法などの変遷の歴史との絡みがある。
 西洋において風景画がどのように変遷してきたか。

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← Diego Velazquez『 Las Meninas (1656)』 (画像は、「ミシェル・フーコーによるベラスケス「侍女たち」の読解」より。この記事は後出する。本文共に参照のこと。)

 その全貌など小生には語るすべもない。せめて少しは勉強をと思い、越宏一著の『風景画の出現 ヨーロッパ美術史講義』(岩波書店)も過日、読了している。
「17世紀ヨーロッパにおける風景画の出現は,美術史のなかでどのような意味を持つのだろうか.絵画の画面から人物が消えてゆくプロセスを,古代壁画,聖堂壁画,タピスリー,中世書物の挿画,暦の飾画などをつぶさに見ながらたどってゆくことで,<風景>が芽生える長い道程が解き明かされる.ユニークな西洋美術入門.」といった内容。

 越宏一著の『風景画の出現』を読んで学んだことは多々あるが、同時にちょっと物足らないような気もしたのは事実。
 絵画の宗教的側面や時代を追っての徐々に風景が全面に出現していく、その移り変わりが分かるのは有り難いが、何故にそのように中世から近世へという時代にあって絵画における風景(画)の位置付けが変ったのかの、肝心の背景の説明が物足りないのだ。

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2007/11/04

「種月耕雲」か「釣月耕雲」か(後編)

 本稿は、「「種月耕雲」か「釣月耕雲」か(前編)」の後篇である。
 この手の文章は内容からしてあまり読まれないのは分かっているのだが、それはまあ、致し方ないとして、つい好奇心で調べ始めた以上は、ネットで分かる範囲で暫定的となるのは必定ながらも、一定の結論は出しておきたい。
 その上で素養のある方に、あるいはもっと探究心のある方にフォローしてもらえればと思う。

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→ 一昨年だったかの正月に富山の海辺で撮った松林越しの雲。これは何という名の雲だろう。鉛色の垂れ込めた分厚い雲が当たり前の冬の富山(北陸)でこんな晴れ渡った空なんて珍しい。言うまでもないだろうが、本稿にしても、小生のマイブームテーマである「雲」つながりの一環なのである。だから、雲の画像を載せている!

 ということで、さて、次は、「種月耕雲」である。

 似て非なる言葉なのか、似て、実際に含意も似ている言葉なのか。一体、誰の言葉なのか。やはり、道元の言葉なのか。

種月耕雲」でネット検索すると、トップに浮上するのは、下記の頁だった:
名古屋なんでも情報 - 284 種月耕雲

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2007/10/29

「種月耕雲」か「釣月耕雲」か(前編)

 さて、ようやく本題である。
 その言葉とは、「種月耕雲」か「釣月耕雲」かのいずれかだったと思う。
 掛け軸である。楷書体で書いてあるわけではない。まして、小野田官房長室の壁の掛け軸には、何々という文句が書いてありました、などと番組が終った時点で教えれてくれるわけもない。

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← 高取焼陶芸家・亀井味楽書「釣月耕雲」(画像は、「亀井味楽・「釣月耕雲」」より。ホームページは、「聚雲堂ホームページ・京都・古今書画処」)

 電話でテレビ局に長官室の壁に掛けてあった掛け軸の言葉について教えてくださいって、電話する?!
 小生、電話するの嫌いなの!
 電話で訊くくらいなら、回り道でも自分で分かるところまで調べる!

 さて、崩し気味の(達筆な)文字だったが、とにかく、上掲(表題)のいずれかだったと思うのである。
 一応、二つの候補のうちのどちらかと断定はしないとしても、以下、とにかく、二つのうちのどちらかが掛け軸の言葉として書かれていたものとして話を進める。

釣月耕雲」をキーワードにネット検索したら、下記のブログが浮上してきた:
きっさの旅 釣月耕雲ってなに?

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2007/10/26

「種月耕雲」か「釣月耕雲」か(序)

 事情があって、柄にもなく勉強漬けの日々である。といいつつ、手を休めてネットに音楽に窓外にと、集中が途切れる時間のほうが遥かに多いのは、否定しきれない…。
 食事の時間だからという理屈を付けて、テレビのスイッチをオン!
 モバイルのテレビなのだが、すこぶる調子が悪く、画面が出るまで下手すると十分以上もかかる。木曜日の夜にはとうとうダメになってしまった。
 そう、木曜日の夕方くらいまでは、辛うじて観ることができたのである。

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→ 何故か今年三月の画像。一番星なのかどうか。

 尤も、今だって、テレビを見ることはできる。何もテレビ自体が消え去ったわけではないのだから、小さいとはいえ、テレビ本体は今だって見ることができる。
 ベランダには十年近く頑張ってくれていた14型のテレビが雨風に耐えて、今も静かに眠っている。
 ブラウン管が6年か7年前にプッツンしてしまったテレビ。
 それがベランダで突然、音声を発したら、こっちが驚く。何たって、ブラウン管が可笑しいし、そもそも、電源のコードは故障した怒りに任せて引き千切ってしまっている。

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2007/10/21

受肉された吐息

 青い空を見る。青い海を見る。その狭間を海鳥たちが舞い飛ぶ。遠くには幽かに不二なる山の優美な姿も望める。
 空には白い雲。海辺には寄せては返す波。浜辺に沿って緑なす松の並木が何処までも続いている。そして頬を撫ぜる潮風と、その香り。

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 絵のような美しさ。それとも写真のように木目細かな像。心地よさ。
 なんだか、倒錯したような表現だ。眼前に広がる光景を愛でていれば、それで十分じゃないか。何を殊更に人の手で描き叙する必要があろうか。

 言葉や描像で示すのが、余計だと言うなら、音楽はどうだろうか。情景をより豊かに、情緒に満ちて眺め入ることができるではないか。
 が、でも、やはり、眼前の世界を描き切りたい、しっかりと把握したい、理解したい、手中にしっかりと確保したい。それには、結局は言葉に行き着いてしまうのである。

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2007/10/18

雲行き怪しき禁書(?)の禁(1)

禁書(?)の禁を自ら犯してしまった!」なる雑文を綴ったことがある。
「禁書(?)の禁」と(?)を付したのは、言葉の使い方としてやや妥当性を書くからである。
 つまり、この拙稿では、本を買わないと三年前の四月に決めた誓いを自ら破ってしまったという話なのである。
 まあ、あまりに面白い本が、且つ、読むのに事情があったにしろ多少時間を要する本の登場が罪で、余儀なく買ってしまったのである。

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→ 昨年11月の某日。不穏な雲行きの空。

 さて、第二弾というわけではないが、また、「禁書(?)の禁を自ら犯してしまった!」なる拙文を綴ることになりそうである。
 といって、また面白そうな本、且つ蔵書として傍に置きたい本に出会ったということではなく、小生にとっては大切な試験がいよいよ来月に迫っており、今月末には模擬試験が予定されていたりして、本来、本を読むことに時間を割く余裕などあるはずがないのだし、あってはならない、でも、やはりこの期に及んでも本は手放せないし、それどころか、今日も図書館に行って、期限が来ていて返却すべき本やCDを返却したのみならず、CDだけならまだしも、ついつい本を物色し、借り出してしまったのである。

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2007/09/04

リスボン地震…仮の宿も終の棲家と見定めて

「緊急地震速報」が10月1日からいよいよ一般に向けての実用化が始まるとか。
 ここでは、「緊急地震速報 - Wikipedia」から下記だけ転記しておく:

 震源に近い観測点の地震計で捉えられた地震波の情報を気象庁へ瞬時に集約しコンピュータの解析処理によりただちに震源の位置及び地震の規模(マグニチュード)を特定して、これらをもとに各地への主要動の到達時刻及びその震度を推定して、被害をもたらす主要動が到達する前にこれらを適切な方法で広く一般に知らせる。緊急地震速報を適切に活用することで、地震災害の軽減に役立つものと期待されている。

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← 「仮の宿も終の棲家と見定めて」 (画像は、拙稿「仮の宿」より)

 地震については詳しいサイトが数知れずある。
 一つだけ挙げてみる:
地震について(マメ知識)
 この頁の中の、「地震はどこで起こる?」と題された表を見ると、海沿いに生きる者には逃げ場がない! などと思わされてしまう。

 今、「月探査機「かぐや」 打ち上げ迫る」でも紹介した、『地球の物語 痙攣する青い惑星』(C・オフィサー 著 J・ペイジ著 中島 健訳、青土社)を車中で読み齧っている。
「環境汚染と人類の未来 地球は、われわれにとって必ずしも、永遠の安定した場所ではない。異常気象・温暖化・洪水・噴火・地震・オゾンホールなど、さまざまな異変の要因を、それらを加速化させている現代の人類文明と重ね合わせ、問題の所在を明快に分析する」という本だが、本書の中では、地震の話題が少なからず採り上げられている。

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