2009/08/27

夏の終わりの気配を感じつつ

 8月26日は、アメリカの哲学者で心理学者のウィリアム・ジェームズ(William James)の命日である。

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→ 今日は期日前投票のため、市役所へ。さらに図書館へ寄り、返却と借り出し。CDは、加藤登紀子に代わって研ナオコを選んだ。その帰り、スーパーへ向かう途上、天気もよかったので、富山城のお堀の脇を通った。なんだか、絵葉書みたいな写真になってしまった。こうしてフラフラできるのも、自転車の気軽さの御陰だ。

 彼に付いては、ブログでは、「上村一夫…劇画なる世界に焦がれ戯画に生き」の中で、書いた日が1月11日、つまり彼の誕生日ということで、若干、採り上げたことがあるだけ。

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← 今朝、朝食後、水遣りのため表に出たら茶の間の直下の日陰にトンボの姿を見た。チャンスとばかりに近付いたが、なかなか逃げない。気づかない? 秋の気配の漂う風にお疲れなのかな? 御陰で直近で撮影することが出来た。

 学生時代を中心に、サラリーマンになってからも含め、彼の主著『宗教的経験の諸相 上・下』(桝田啓三郎訳、岩波文庫刊)を3度も読んだにしては、扱う頻度(も内容も)少ない(し薄い)。

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2009/07/12

今日は「悪魔の詩」訳者殺人事件の日

 今日7月12日は、「今日は何の日~毎日が記念日~」によると、「ラジオ本放送の日」とか「ローリング・ストーンズ記念日」とか、いろいろあるが、個人的には、(日本の)古代史や考古学に興味があることもあって、「ひかわ銅剣の日」が気になる。

「1984(昭和59)年、島根県斐川町の荒神谷から弥生時代の銅剣358本が発見された」日なのである。
荒神谷遺跡 - Wikipedia」によると、「銅剣の一箇所からの出土数としては最多であり、この遺跡の発見は日本古代史学・考古学界に大きな衝撃を与えた。これにより、実体の分からない神話の国という古代出雲のイメージは払拭された。その後の加茂岩倉遺跡の発見により、古代出雲の勢力を解明する重要な手がかりとしての重要性はさらに高まった」のである。

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→ 一昨日の一晩中の風雨に耐えて、朝顔の花も健在。

 でも、今日はこの話題へは深入りしない。

7月12日 今日は何の日~毎日が記念日~」の歴史の項をずらずら眺めていて、下記に目が止まった:
1991年小説『悪魔の詩』を日本語訳した筑波大の五十嵐一助教授の他殺遺体が大学構内で発見」!

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2009/07/11

フレデリック・ハートの《無から》の周辺

 拙稿「「対数らせん」の世界へ」にて、フレデリック・ハート(Frederick Hart)作の「無から(Ex Nihilo)」という彫刻作品を紹介している。

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← "Ex Nihilo" (by Frederick Hart  Working Model) (画像は、「Frederick Hart, Michael Wilkinson, Richard Macdonald, Gil Bruvel, Collection Privee」より)

 この作品の素晴らしさには目を瞠るものがあるし、作者のフレデリック・ハート(Frederick Hart)の人間像も感銘を受ける。
 この作品を再発見させてくれたビューレント・アータレイ著『モナ・リザと数学―ダ・ヴィンチの芸術と科学』(高木 隆司 佐柳 信男【訳】 (京都)化学同人)から、フレデリック・ハートについての記述を一部、抜粋しておきたい。

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→ ハート作の「無から(Ex Nihilo)」という彫刻作品の発想のもとは、彼の未亡人によると、「雲の形が変化するときに見られた渦巻き模様にヒントを得た」という。どんな雲だったのだろう(この画像は、昨年の夏、自宅の前から撮った夕景)

 ということで、「フレデリック・ハートの《無から》の周辺」へ!

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2009/04/22

魔女狩り……出口なし! (前篇)

 和歌山毒物カレー事件で林被告の死刑が確定した。
 状況証拠の積み重ねでの死刑判決。
 近所のトラブルメーカーだったらしいけど、嫌われて浮いた存在になると、何かあったら、真っ先に色眼鏡で見られ、仕舞いには世間から弾き出される。

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← タンポポの黄色い花。タンポポって、名前がいい。花言葉は「思わせぶり」。昨日、写真を載せたタンポポの種(綿毛)、もう、大半が吹き飛んでいた。

 小生は判決文を読んだわけじゃないし、事件の真相を知るわけではないけれど、何か釈然としないものを感じる(無論、真犯人に対しては憤りしか覚えないけど)。

 さて、嫌われ指弾されてしまうメカニズムは、イジメとも似ている。
 一旦、イジメのターゲットにされたなら、待っているのはアリ地獄、出口なしの悲惨な状況。
 犠牲者は死ぬまで苛まれ続ける。

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2009/04/15

今日はサルトルとジュネの忌日

 今日4月15日は、フランスの二人の作家の忌日である
 一人は、ジャン=ポール・サルトル(Jean-Paul Sartre 1905年生まれ 1980年死去)であり、もう一人はジャン・ジュネ(Jean Genet 1910年生まれ 1986年死去)である。

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→ J-P・サルトル著『嘔吐』(白井浩司訳 人文書院) (画像は、「raja-laut『嘔吐』 J-P・サルトル 人文書院」より)

 二人の作家という表現に違和感を覚えられる方もいるかもしれない。
 ジュネはともかく、サルトルは文学者・作家である以上に哲学者ではないか…。

 けれど、小生にとっては、サルトルは評論家であり、それ以上に『嘔吐』の作家なのである。

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2009/04/08

無限の話の周りをとりとめもなく

 ジョン・D.バロー著の『無限の話』(松浦俊輔訳 青土社)という素敵な本に出会った。
 著者のジョン・D.バローは、「ケンブリッジ大学教授。天文学者、数理物理学者」とのことだが、文学や哲学にも造詣の深い人。

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← 沈思黙考してる? それとも、まさか、川に飛び込もうとか?

 なので、同じ物理学や数学の話をしても、随所に古今東西の文献などからの引用や連想(話の広がり)があって、読んでいてつい柄にもなく瞑想(迷想)に誘われてしまう。
 
 本書は、「無限の人数が泊まれるホテル。有限の時間で無限の計算ができるコンピュータ…。永遠に続く命。無限をめぐる論争で人生を失った人々…。宇宙論の第一人者が、物理学、数学、哲学、宗教など、あらゆる分野を経めぐり語りつくす、無限の知的興奮に満ちたサイエンス・エンタテインメント」といった本なのだが、まさに知的エンタテインメントの書なのである。

 この中の、「ホテル無限大へようこそ」という章の扉で、懐かしいクイズに出合った。
 懐かしいはやや大袈裟かもしれないが、初めてこのクイズを目にした時は戸惑ったものだ。

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2009/03/08

カプラン著『ゼロの博物誌』と「蜘蛛のいる風呂場」と

 ロバート・カプラン著の『ゼロの博物誌』(松浦俊輔 訳 河出書房新社)を読んだ。
 ゼロを巡る本というと、チャールズ・サイフェ著の『異端の数 ゼロ』(林 大訳、早川書房)以来かもしれない:
ロゴスって言葉? 光? 尺?『異端の数 ゼロ』をめぐって

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→ ロバート・カプラン著『ゼロの博物誌』(松浦俊輔 訳 河出書房新社)

 意外な、と書くと僭越だし著者に失礼かもしれないが、とにかく掘り出し物の本だった。

 ゼロ(零)を巡る本というと、「ロゴスって言葉? 光? 尺?『異端の数 ゼロ』をめぐって」でも言及しているが、一昔前はよく読まれた(今も?)吉田 洋一著の『零の発見―数学の生い立ち』(岩波新書)などもある。

 中学か高校の頃に読んだ。数学などそのセンスの欠片もないのだが、中学から高校の途中に懸けてまでは(高3の夏に理系から文系(哲学)に転向したあとも)好きな学問というと数学が筆頭だった(今も!)。
 小生の中の英雄(将来、なりたい仕事)というと、小学生の頃は漫画家だったが、中学二年になってほんの一時期だが、数学者になっていた。

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2008/12/01

槍ヶ岳の開祖・播隆上人

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→ 母が退院した翌日の夕方。小生の居住する部屋の窓からの、やんわりとした夕景の眺め。ホッとするひと時…。

 === 以下、本文です。===

槍ヶ岳の開祖・播隆上人

 今日(21日)の読売新聞朝刊の小さなコラムに、「播隆上人」の話題が載っていた。
 富山生まれ(越中国新川郡河内村(現富山市大山地区)の出身)だが、主な活躍場所は岐阜や長野ということもあり、生地・富山でもあまり知られていないという。

 小生自身、「浄土宗の僧侶で槍ヶ岳の開祖」だという播隆上人(ばんりゅう)の存在や名前など全く知らなかった。

 せっかくなので、ネット検索などで大よその情報だけでもピックアップしてみたい。

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2008/11/13

サイード著『晩年のスタイル』…読書拾遺追記

 拙稿「移ろいゆく季節を追って…読書・音楽拾遺(前篇)」にて、エドワード・W.サイード著の『晩年のスタイル』 (大橋洋一 訳 岩波書店)を読んだと書いている。

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→ 過日、小生の部屋から夕景を撮ってみた。なかなか表に出て撮影というわけにはいかない。篭りきり…に近いような。夕景は物思いを誘う。忘れていたことさえ思い出させるような気がする。


 でも、内容に付いてあまり紹介できなかった。
 といって、小生には荷が重いので、ちょっと変則的だけど、一部を抜粋する形でせめて大よその見当だけでもつけてもらうよう、メモしておく。


                           (08/11/13 追記)


 === === (ここから本文) === ===

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2008/10/31

『〈出雲〉という思想』のこと(後篇:「まえがき」を読む)

 今朝、昨日買ってきたパンジー10株を家の表通り側に植えてみた。
 午後から作業するつもりだったけど、雨が降りそうだったので、急遽、眠い目を擦りながら黙々と土いじり。

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← 曇天下、昨日買ってきたパンジー10株を植えてみた…。

 でも、植えてみたらあと20株は植えないと格好が付かない。
 寒風吹きすぎる表の通りでパンジーの花がちょっと寂しそうに揺れている。

 仲間がもっと欲しいって言ってるの?
 もっと違う場所がいい?
 それとも、曇天で震えているだけ?
 陽光を待ちわびている?

 まあ、そう言わず、今冬をなんとか乗り切って欲しい!

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→ 昼前、買物ついでにテルスターを8株買ってきて、午後、雨を心配していたのに、晴れた。今がチャンスと、早速、植える。

(午後になって雨どころか晴れ渡ったので、テルスター(ナデシコ)を8株、買ってきて早速、追加で同じ場所に植えた。少しは格好が付いたけど、まだあと10株は植えないと、どうにも落ち着かない!)


 === === === === === ===

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2008/10/30

『〈出雲〉という思想』のこと(前篇:『夜明け前』へ)

 29日の雨はまさに氷雨だった。
 朝、庭に出てみたら、庭先に植えた7株のパンジー、夜半過ぎまで降り続いたややきつめの雨の勢いに負けたのか、それとも小生の植え方が甘かったのか、一株の花が茎で折れていた。
 無念!
 願わくば、残りの花たちが元気に育ってくれますように!

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→ 原武史著『〈出雲〉という思想』(講談社学術文庫)

 原武史著の『〈出雲〉という思想』(講談社学術文庫)を過日、読了した。
 副題が「近代日本の抹殺された神々」とあって、なかなか面白い本だったので、感想とまではいかないが、大よそのことをメモっておきたい。

 古代史や考古学関係の本は基本的に新刊しか手にしない方針でいるのだが、図書館でCDを借りる手続きをしている合間、ちょっと手持ち無沙汰になり、出口付近にある文庫本の書架をチラッと眺めやったら、本書が目に飛び込んできた。

<出雲>という言葉が題名にあるだけで、気になってならなくなる。
 まして、<出雲>という思想って、どういうことなのと、手に取るしかなくなったのだ。

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2008/10/26

梅の木に見守られ…読書・音楽拾遺(後篇)

[本稿は、「自転車を駆っていそいそと…読書・音楽拾遺(前篇)」に続くものです。内容的には独立しているけど。 (08/10/26 記)]

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→ 我が家の庭先にある梅の木。外出するときも、帰宅するときにもこの樹齢約150年の梅の木にご挨拶。行ってきま~すとか、ただいま~とか。我が家を五代に渡って見守ってきた木。家が全焼した空襲の際にも焼け落ちることはなかったのだが、世話を怠ったばっかりに今や朽ちなんとしている…。

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2008/10/25

自転車を駆っていそいそと…読書・音楽拾遺(前篇)

サルビアの花にうもれて…読書・音楽拾遺(前篇)」や「夕焼け空を追いつつ…読書・音楽拾遺(後篇)」などを書いてから、早くも十日近くが経った。
 なかなか思うようには読書はできない。音楽については、部屋にいる間はCDプレーヤーが活躍しっ放しなので(父母の居る部屋からはテレビの音が聞こえてくるので、その消音の意味もある)、何かしら耳にしている。

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← 24日は終日、雨だった。畑も庭もたっぷり潤ったことだろう。画像の雨樋からの雨垂れを受けている石の器は、実は臼。数年前までは何十年の間、餅を搗くのに大活躍だったのだが、今は雨ざらし。雨に打たれ憩っている? 長い間、ご苦労様でした。

 図書館へ行く時は自転車。
 本やCDを返却するのは惜しいが、新しい出会いもあるやもしれず、ペダルを漕ぐ足も軽快である。
 特にクラシックやジャズ、民族音楽など、邦楽以外のジャンルの音楽は知らない演奏(家)や曲も多いので、今日はどんな発見があるかとワクワク気分だったりする。

 なんだか、初めての相手とのデートにでも出かける気分?

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2008/10/18

フランケンシュタインと出産の神話(後篇)

[本稿は、「フランケンシュタインと出産の神話(前篇)」の続篇である。]

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← 16日(木)、夕陽をそして夕焼けを追って、自転車を駆って久しぶりに親水公園へ、さらに神通川へ。風のない一日だったので、空中には埃が漂っているようで、必ずしも綺麗な夕景には巡り合えなかったけれど、慌しい日常の中、目にだけは眼福を与えることができたと思う。

フランケンシュタイン』の読みについては、たとえば、「松岡正剛の千夜千冊『フランケンシュタイン』メアリー・シェリー」が参考になる(やはり、いかにも男性による解釈という限界性が垣間見える…といった批判がエレン・モアズならずともフェミニズムないし「ヒロイニズム」の立場からは加えられるやもしれない)。

 誕生したのが怪物で、その姿を見て驚く(主人公の科学者も我々も!)のだが、考えてみると、少なくとも外見が怪物なのは作る過程をつぶさに見ている以上は、最初から分かっていたはずである。
 なのに、完成してみたら、その精神がいびつでおぞましくてショックを受けたというのなら分かるが(出来てみないと心の在りようなど分からないわけだし)、その容貌の魁夷なるを見て今更驚くのも奇妙な話なのである。

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2008/10/13

「砂時計の情感」(『砂時計の書』より) 

 以前、「ユンガー「砂時計の書」をめぐって」という記事を書いたことがある。
 エルンスト・ユンガー著の『砂時計の書』(講談社学術文庫)をネタ元にしての雑文である。

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→ 『書斎のヒエロニムス』(1514  Engraving, 259 x 201 mm   Staatliche Kunsthalle, Karlsruhe)(画像は、「デューラー (北方ルネサンス)」より。)

 砂時計を巡っての瞑想は尽きないのだが、そもそも「砂時計の書」の周辺をモノローグ風に書こうと思ったのは、本書の特に冒頭の一文に魅せられたからだった。

 図書館の書棚から抜き出した本書の、何処かしら「バシュラール…物質的想像力の魔」を連想させなくもない冒頭の一文を読んで、改めて読んでみようと思ったのでもある。
[ちなみに、本稿の筆写をしたのは、10月5日なのだが、6日、図書館に寄ってみたら、9月(先月!)に刊行されたばかりのガストン・バシュラール著『水と夢 物質的想像力試論』(及川馥訳 叢書 ウニベルシタス 法政大学出版局)が新刊コーナーに鎮座していて、小生、慌てて手にしたのだった。確か、学生時代の終わりかフリーター時代に一読したことがあるはずだが、「約40年ぶりの新訳でよみがえ」ったのである。 (10/07 記)]

 本稿では、本書冒頭のその一部だけだが筆写(メモ)してみるので、(夜鍋して転記を試みたことだし)関心のある方には読んでもらいたいと思う。

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2008/10/10

消えゆく蒟蒻畑を惜しみつつ

 先ごろ、下記のニュースが飛び込んできた。

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← 「死亡事故と同じ「蒟蒻畑 マンゴー味」の容器=国民生活センター提供」 (画像は、「asahi.com(朝日新聞社):こんにゃくゼリー、また幼児死亡 対策取られず17人目 - 社会」より。)

asahi.com(朝日新聞社):こんにゃくゼリー、また幼児死亡 対策取られず17人目 - 社会」(文中の太字は小生の手になる):

 国民生活センターは30日、兵庫県の男児(当時1歳9カ月)がこんにゃく入りゼリーをのどに詰まらせる事故が7月にあり、9月20日に死亡したと発表した。こんにゃくゼリーは子どもや高齢者には窒息の危険があるとされ、95年以来の死者はわかっているだけで17人となった。規制する法的な枠組みがないとして抜本的対策がとられず、被害が広がっている。

 センターによると、事故のあった製品は業界最大手「マンナンライフ」(群馬県富岡市)の「蒟蒻畑 マンゴー味」。凍らせたものを7月29日に祖母が与えたという。
(中略)
 マンナンライフの話 これまでの事故を受けて、業界団体で協議し、商品に警告マークをつけてきた。表示を大きくするなど、消費者にさらにわかりやすく改良したい。製造を中止する考えは今のところない。

 佐野真理子・主婦連合会事務局長の話 これだけ多くの方が亡くなり、「行政のすき間」の商品として問題となっていたのに、行政が何もせず放置してきた結果、また1人亡くなった。警告マークをつけて済む問題ではないことが明らかになったし、そもそも高齢者や子どもが食べてはいけないお菓子が流通していること自体おかしい。早急に消費者庁を設置して、規制すべきだ。


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2008/10/07

「末期を描く…ターミナルケアの原点?」アップ

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末期を描く…ターミナルケアの原点?」をアップしました。

 本稿では、上掲書を参考に、西欧美術作品に描かれた末期の諸相を見てみたい。
 筆写によれば、これらの絵画にはターミナルケアの原点が描かれているのでは、という。

 ところで、俳優の緒形拳さんの突然の逝去は小生にもショックだった:
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/obituary/?1223367006
 日本の男優で好きな人はと問われても、返答に窮する中、緒形拳さんは文句なしに好きな方だったから。

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2008/10/05

ユンガー「砂時計の書」をめぐって

 エルンスト・ユンガー著の『砂時計の書』(講談社学術文庫)を読んでいる最中である。

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↑ 10月6日のこと、富山城近くの某公園内に花時計を発見。何度もこの公園の中を自転車で通っていたのに、初めて気がついた。早速、携帯電話を取り出し、パチリ!


 同書の詳細によると:

暖かな書斎の一隅で、白い砂粒が音もなく滑り落ちていく。
この静謐を、知的観想の時を、わたくしたちはいつくしむ。
砂時計は地球的時間の象徴である。
夜明けとともに起き、一頭の獲物を得るまで狩りをした“アド・ホックな”行動様式の忘れ形見である。
自ら作り出した歯車時計に支配される近代文明の逆説を、ドイツの文豪ユンガーは勁く静かに批判する。
古今の文献を駆使して語る、ユニークな宇宙論。

 結構、力の入った内容紹介ではなかろうか。

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2008/09/24

一人ぼっちの墓参り

 23日はお彼岸の日(秋分の日)ということで、おはぎなどを作って親戚の者たちがやってきた。
 小生の父母が、彼らにとっての父母であり祖父母であり、曽祖父母であるからでもある。
 おはぎを食しつつ、しきりに親戚のうちの一人が、おはぎを作ったら、墓参りに行かなきゃねって、孫たちに言っている。

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← 菊の花など手向けて墓参。まだ薄日だったけど、次第に曇り、夜になって雨。手向けの水?

 その言が小生に向けられていることは痛いほど分かる。

 我が父母は体の不調もあって墓参りには行かない。
 行くとしたら、我が家では小生以外にない。

 小生は曲がりなりにも我が家の長男なのである。

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2008/09/11

読書拾遺…胡弓のメロディに抱かれて

[本稿は、「二週間ぶりに図書館へ」の続篇とも言えそうな内容になりそう。]

 今月に入っての記事を瞥見してみたら、全部、サンバ関係。
 無理もない。一年に一度の大きなイベント・浅草サンバカーニバルがあったから。
 それにしても、ちょっとこだわりすぎ?
 とにかく、ようやく平常な(?)記事に戻ります。

 バルザック著の『あら皮――欲望の哲学』(小倉孝誠訳=解説 バルザック「人間喜劇」セレクション 第10巻)を過日、読了。

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→ バルザック著『あら皮――欲望の哲学』(小倉孝誠訳=解説 バルザック「人間喜劇」セレクション 第10巻)

 やはりバルザックは凄い。
 写実主義って言うけど、リアルなのは納得するとしても、そのリアルは、例えばドストエフスキーとかに繋がるような、時に幻想味のある、人間の負の精神の泥濘の底を覗き込む感覚を覚えるという意味でのリアルさ。
 社会の描写にしても人間の心理の描写にしても、ある種のニヒリズムの色彩をも帯びていると感じる(むき出しの欲望、打算、陰謀、悲惨……。それが当時の都会化し始めたパリの当たり前の世界だったんだろうけど)。

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2008/08/20

吹き溜まりの国

 今日8月20日は、「鎌倉時代の歌人・藤原定家の1241(仁治2)年の忌日」、つまり「定家忌」だという。
 小生は、藤原定家については周辺を巡るような記事しか書いていない。

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→ 過日、プールへ行ってきた。その道すがら、稲穂の海を愛でることができた。遠くには北アルプスの山々。たまたま電車が走っていた。不穏な空。案の定、夜から雨になり、翌日は雷雨に。

 例えば、「春の夜の夢の浮橋とだえして峰にわかるる横雲の空」などを採り上げた「横雲の空」であり、超新星繋がりでやや強引に藤原定家のことを訴状に載せた「土井さん、「超新星発見」から定家のこと」である。

 ここでは、看板(表題)と内容が一致しないこと甚だしい記事「侘と寂と宗教と」を再掲しておく(原文のまま。改行だけ一部変更)。
 もう、5年以上も以前に書いたもの。
 今だったらこんな内容の記事は書かないだろうなと思うと、ちょっと懐かしい。

 この記事も、内容的には藤原定家とはあまり関係がなく、話の取っ掛かりとして、定家の日記「明月記」の中の有名な言葉「世上、乱逆追討耳に満つと雖(いえど)も之(これ)を注せず、紅旗征戎(せいじゅう)吾事に非ず」を紹介している。

 旧稿を敢えて再掲したのは、実は、「移民1000万人受け入れ 国家戦略本部が提言」といったニュースが最近、一部で話題になったからである。保守派は予想通り反撥している。
 でも、日本って、元々は吹き溜まりの国、いろんな背景・事情を抱えた民族や人びとが寄り集まって成り立ち活気を持って来た国ではなかったかという認識が小生にはあるのだ。
 懸念のタネは一杯あるとしても、小生はこのヴィジョン(提言)に基本的には賛成なのである。

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2008/08/11

「架空凝視という病」再掲

架空凝視という病」再掲しました。

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「止まない雨はない」アップ

止まない雨はない」アップしました。
 断っておきますが、断固、駄文です。

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2008/08/05

ムージルの『特性のない男』でさえもなく

 過日、ロベルト・ムージル著の『特性のない男』(加藤二郎/ 柳川成男/北野富志雄/川村二郎訳 河出書房 世界文学全集)を読了した。
 本書には『三人の女』(川村二郎訳)も所収となっていて、現在、こちらに取り掛かり中。訳もこちらは読みやすい。
『特性のない男』は、「加藤二郎/ 柳川成男/北野富志雄」諸氏の訳のようだが、読みづらい。
 訳が今ひとつなのか、もともと原書が独特な言い回しや比喩・表現に満ちているからなのか、原書を読んでいない小生には判断が付かない。

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← 「図書出版松籟社ホームページ ムージル著作集」(加藤二郎 訳)

 とにかく読みづらかった。小生は昭和55年頃に本書を買った。買うと堪え性なく、若さもあって勢いで読んだが、当時も文体(あるいは翻訳調)に難儀した印象だけが微かに残る。
 本書を買った頃は、それまでのフリーター時代にケリを付け、サラリーマンに、つまり何者でもない存在たることを選んだ時期でもある。

 今回は、約30年ぶり、二度目の挑戦ということになる。
 タクシー稼業ともとりあえずはおさらばし、家事三昧、生い茂る雑草に埋れる生活にあっての登攀。

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2008/07/27

蝉時雨に沈黙を聞く

 梅雨入りしてそんなに間もない或る日、不意に懐かしい音に気がついた。
 蝉時雨である。
 既に喧しい鳴き声が聞こえていたのかもしれないが、朝、窓を開けたら耳に付いたのである。
夏のことばⅡ・季語 蝉時雨 (せみしぐれ)」によると、「蝉時雨を演出してくれるのは、東日本では油蝉、西日本では熊蝉が主役」とある。
 小生は富山。ということは、熊蝉なのか。今の所、きちんと確かめたことはない。

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→ 27日の夕焼け。午後、雲行きが怪しい中、躍起になって草むしりしていたら、三時頃、雨がポツポツと。あっという間に風雨に。水のシャワーを浴び、お茶で一服して、さて夕食の準備をと思ったら、外の景色が綺麗。思わず、デジカメを手に庭へ。

 ただ、我が家の庭の内外でも特に探そうとしなくても蝉の姿は垣間見られるし鳴き声を聞くことができる。
 チャンスがあったらクロアゲハやトンボやバッタや(多分)コオロギやヤモリやクモなどと共に我が家の庭に棲息する生物ということで蝉の姿も写してみたい。

 同上の「夏のことばⅡ・季語 蝉時雨 (せみしぐれ)」にはさらに、「蝉時雨は本来心地よい鳴き声の部類に入るのですが、炎天下の熊蝉や夜の油蝉の連鳴きは、やや不快音に属します」とも書いてある。

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2008/07/26

今日は幽霊の日

 今日7月26日は、「幽霊の日」だという。
 今年も幽霊の季節がやってきたわけである。
 幽霊は、やはり暑い時期が似合う。
 尤も、雪女などの事例もある。雪女が幽霊なのかどうか分からないが。

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← 安村 敏信監修『日本の幽霊名画集』(人類文化社) 「円山応挙、河鍋暁斎から、葛飾北斎、歌川国芳、月岡芳年まで、全国の寺、美術館、博物館、個人コレクションから選りすぐった鬼気迫る幽霊画の傑作75点をカラーで収録した大型画集。小松和彦、水木しげるらによる解説も併載」だとか。ネガフィルムでの人影って何故か不気味! 本書については、「幽霊名画集」なる頁が参考になる。

鶴屋南北作東海道四谷怪談が初演された文政8年(1825)7月26日を記念する日」だとのこと。
「1825年7月26日に江戸の中村座という芝居小屋で「東海道四谷怪談」が初公演された事に因んでいる」というのだ。

 といいつつ、そもそも幽霊とは何か、小生は分からない。
 まだ出会っていないということもあるが(出会いたくない…怖い)、「ヒトが死亡して肉体が消滅した後も、この世(娑婆)に未練や恨みがあるために成仏できず、浄土にゆけない魂がそれらしき姿と声を持って、因縁ある人物の前に出現するもの」なのだとしたら、ぼんやりとした小生など、仮に出会っていたとしても気付かない怖れがある。

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2008/07/20

汗水垂らして御簾(みす)のこと?

[今朝、我が家で取っている読売新聞に「簾」が特集されていた。すわ、拙稿が参考にされた? なんて一瞬、思ったが、本稿は、08/07/17に書いたものだが、他の記事を先行していてアップが若干、遅れてしまっていた。取り急ぎ、アップさせておく。 (08/07/20 記)]

 過日より、与謝野晶子訳『源氏物語』を牛車の歩みで…じゃなく牛歩のペースで読んでいる。
 牛歩となってしまうのは、日々が慌しく、ゆっくり読書に耽る余裕がないこともあるが、先日来の暑さに辟易している故でもある。

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→ 「ヨ シ ズ」 (画像は、「ヨシズ・スダレ」より。)

 読み出すと最後までというのが小生の主義なので、寝床でも就寝前には読みたいのだが、何せこの本(『カラー版 日本文学全集 源氏物語 上・下』(与謝野晶子訳 河出書房))、重過ぎる。
 寝床で手で支えて読むのはちょっと難しい。

 で、寝床では別の本を読み始めた。
 それはロベルト・ムージル著の『特性のない男』(加藤二郎/ 柳川成男/北野富志雄/川村二郎訳 河出書房)である。

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2008/06/22

「たばこ1箱千円」から大麻の話へ

 本稿は、「中島らもと大麻と煙草と」を転記したもの。先ごろ、「たばこ1箱千円」にという話題が世上を少々賑わせたので掲載する。
 今の小生としては書き換えたい部分もあるが、敢えて原則原文のまま旧稿を温める。

「たばこ1箱千円」については、「「たばこ1箱千円」で超党派議連 消費税アップけん制も」などを読むと、「自民党内で浮上している消費税率引き上げ論をけん制する狙いも見え隠れする」などと、やや生臭い思惑で浮上したようで、小生としては納得がいかない。
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← 清水登之・画「大麻収穫」 (画像は、「清水登之氏の「大麻収穫」」より。)

 何も「たばこ1箱千円」なら煙草を吸う人が減って、健康問題(伴って医療費の削減)の解決の一助になるではないか、という大上段の議論が足りないから…という意味ではない。
 例えば、「たばこ1箱千円」なら煙草を吸う人が減って…という議論にしても、やや疑問がある。アメリカなどの煙草メーカーは国内の煙草の販売量が減った分以上を、日本を含めたアジアやアフリカでの販売強化で補ってきた。
 日本の煙草メーカーも海外(アジア・アフリカ)での販売戦略を強化するのは歴然としている。
 国内で出る臭いモノに蓋をしたら、その強烈な悪臭は後進国で思いっきりぶっ放されている、というわけである。日本(国内)さえよければそれでいいのか、という議論もあっていいはず。

 まあ、ちょっとだけ変化球をひょろひょろ投げてみようかなということである。
 一読すれば分かるが、焦点は煙草ではなく、大麻である。
 そう、「法律の目的を記した条文はない」不思議な「大麻取締法」!
 煙草を許可しているのに何故、大麻がダメなのかの理由を当局は明確に示せるのだろうか。
 あるいはアメリカへの遠慮? それとも惰性?
「(前略)第2次大戦後の占領政策の中で神道との結び付きの深い大麻に対して占領米軍が危惧をもち、また当時発達しつつあったアメリカにおける石油化学産業や木材パルプ産業の意向をうけてその市場の確保という経済的思惑などを背景として、大麻の規制が行われたのではないか」というのは、歴史的背景として真実なのか。
 「たばこ1箱千円」というのなら、「大麻1箱千円」ってのも、検討してみる値打ちがあるのでは。

 なお、この旧稿を書き下ろした当時の事情については、当該頁の冒頭に注記してある。

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2008/06/02

読書拾遺……我がサドの時代

 久しぶりに読書拾遺を。

 ヴァルター・レニッヒ著の『サド侯爵』(飯塚信雄訳 ロ・ロ・ロ・モノグラフィー叢書 理想社)を読了した。刊行は72年だが、小生は80年版のものを入手している。

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→  ジャン・ジャック・ポーヴェール著『サド侯爵の生涯(1)  無垢から狂気へ 1740~1777 』(長谷泰訳 河出書房新社 )

 帰郷して書棚に並ぶ本の中から手当たり次第というわけではないが、興の赴くがままにピックアップして読んでいる。
 過日も日記で書いたが、ヘーゲルの『精神現象学』(長谷川宏訳 作品社)、徳田良仁著『芸術を創造する力』(紀伊國屋書店)、若桑みどり著『イメージを読む』(ちくまプリマーブックス)、横山裕之著『芸術の起源を探る』(朝日選書)、宮沢賢治著『ポラーノの広場』(新潮文庫)、そして本書といずれも少なくとも刊行されて10年から30年を経過している。

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← ヘーゲル著『精神現象学』(樫山欽四郎訳 河出書房新社 世界の大思想 12) (画像は、「大山堂書店 世界の大思想12 ヘーゲル 精神現象学」より) ショーペンハウアーが忌み嫌ったヘーゲル。近親憎悪的なほどに! ショーペンハウアーにはヘーゲル(の精神現象学)のような予定調和的世界など皆無。ショーペンハウアーは、彼の修行時代、世界を旅して回って、サドの描く世界が絵空事ではないことを目に焼きつけ胸に刻んだのだろう。相容れない立場の二人。けれど、樫山欽四郎訳のヘーゲルの『精神現象学』を苦労しつつ読みながら、『精神現象学』の根底にある種の神秘思想のようなものを嗅ぎ取っていた。ショーペンハウアーには相済まないが、二人には世界の底の闇の河という奔流のような何か通底するものがあると若い小生には感じられていたのだ。

 ヘーゲルの『精神現象学』以外は再読、再々読である(但し、長谷川宏訳では初めてだが、樫山欽四郎訳(河出書房新社 世界の大思想 12)で読んだことがある。自分が若かったせいもあるのか、樫山欽四郎訳を読んだ時のほうが読み応えを感じた)。

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2008/05/13

お地蔵さん……ん?(後篇)

 それにしても、富山は文化圏としては、関西のような関東のような曖昧な領域である。富山平野の真ん中に呉羽山(小高い山の連なり)があり、その西側が関西圏であり、東側は関東圏(少なくとも関西圏からは外れがち。というより見放されがち)だったりすることが多い。

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→ 一昨年の五月下旬、大田区の某所にて撮影。ある商店の軒下。お地蔵さんでもお堂でもなくて、可愛いので撮ってみた。

 小生の住むのは呉羽の東側(これを呉東=ごとう、と称する)であり、関西圏には入らない(但しお袋は高岡の出身で関西圏。父は生粋の呉東の人間である)。呉羽山を境に文化圏が富山でも分かれるのは、呉羽山の西側は加賀・前田家の領地であり、東側は前田家でも支流の家の領地で、(加賀藩に搾取され)文化的にも経済的にも困窮し、そもそも文化的な僻地だった。それゆえに実利的な気風が育まれた(なのに小生が能天気なのは、何故なのだ!)

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2008/05/05

「人間は考える葦である」考?

 ブレーズ・パスカル(Blaise Pascal、1623年6月19日 - 1662年8月19日)の言葉に、「人間は考える葦である」がある。
「クレオパトラの鼻、それがもう少し低かったら、大地の全表面は変わっていたであろう」と共に有名な言葉である。

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→ 「冬に穂が残るヨシ」 (画像は、「ヨシ - Wikipedia」より)

人間は考える葦である」のくだりをもう少し示しておこう(前田陽一/由木康訳『世界の名著 29 パスカル パンセ』中央公論社)。

 人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一適の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すよりも尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。

 以下、「だから、われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある」云々と続いていく。
 こうした言葉に宇宙観あるいは世界観において、地球中心説(天動説)から太陽中心説(地動説)への大転換があったこと(宇宙の中にあって各天体は神に依らずして如何に浮び秩序を保ちえるのか…)、同時にパスカル自身の苦痛に苛まれた個人的な事情も読み取っていいのだろう。

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2008/05/03

「瘴気」の沙汰?

 十年来、ちびちびと読み続けてきたヘーゲルの『精神現象学』( 長谷川 宏の手になる訳で。学生の時は樫山欽四郎訳で読んだ。内容は全く理解できなかったものの、何か神秘主義の匂いのようなものを嗅ぎ取っていたっけ。いずれにしてもヘーゲルにしか書けない(創造・妄想?)できない作品だと当時、感じたっけ)もようやく読了の日が近付いている最中に「瘴気(しょうき)」なんて言葉に行き当たってしまった。

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→ 野原じゃなくて、我が家の畑。

 一方、「草いきれ」という言葉がある。辞書に依ると、「夏の強い日ざしをうけて、草むらから立ちのぼる、むっとする熱気」だとか。

瘴気」とか「草いきれ」なんて言葉を持ち出したくなったのは、「帰郷して待っていたのは草むしり」で書いているように、このところ草むしりの日々が続いているからであろうと思う。
 生命力の横溢、生き物の弱さと逞しさと。

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2008/04/26

「バナナは木ではなく草である」本編アップ

バナナは木ではなく草である:余談篇」をアップしました。

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2008/04/04

雑草をめぐる雑想

「雑草という名前の草は無い」という有名な言葉があるが、雑草とは一体どんな草花なのだろう。
 雑草とそうでない草花との違いは何処にあるのだろう。

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← 「東照宮の石垣」 (画像は、「Photo by (c)Tomo.Yun」より)

 そうでない草花と書いたが、花壇などで手塩に掛けられて育つ花々のほかに野草もある。
 野草と雑草とも違いがあるのだろうか。

 野草も、「山野に生える草」ということで雑草とは生活圏が違うだけで、広い意味では雑草の範疇に入るのだろうか。
 野生の草花って、あるんだろうな。手付かずの状態のものがあるかどうか分からないけれど。

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2008/02/07

冬に幽霊考?

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→ 丸山応挙『幽霊画』(バークレー美術館蔵) (画像は、「第126話落語「応挙の幽霊」の舞台を歩く」(ホームページ:「落語の舞台を歩く」)から)

 幽霊に付いて、当り障りのない考察を試みよう。
 小生、怖がりなので、幽霊の気の障るような考察はしないつもりである。幽霊さんに気が付かれないよう、こっそりと、そして不意に幽霊さんが現れて絡まれないよう、辺りの気配を十分に探りつつ、あれこれ意味のない探求を試みたい。

 それにしても、まず幽霊について先ず気づくことは、幽霊には足のないとされること。

 幽霊は、江戸時代の怪談ものだと、柳の枝の垂れる薄暗いお堀端で不意に現れる。牡丹燈篭は別として、そうした状況で現れる幽霊さんというのは、決まって足がない。というか、下のほうが曖昧模糊としている。

 よく、幽霊には、足がないって言うけど、何処までがないんだろう。

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2008/02/02

もしも月がなかったら

  2005年に開催された「愛・地球博」の「三菱未来館」で、「もしも月がなかったら」という企画展が催されていた:
三菱未来館@earth

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← 画像(壁紙素材)は、「La Moon」より。拡大したほうが画像の見事さが分かる。

 上掲の「三菱未来館@earth」の中の「三菱未来館@earthもしも月がなかったら EXPO 2005 AICHI,JAPAN」なる頁によると:

三菱未来館は、身近でありながらまだ未知の部分を多く残した「月」に着目。「もしも月がなかったら、地球はどうなっていただろう?」という素朴な疑問を入口に「いまこの地球に生きている不思議、その奇跡へのまなざし」というテーマで出展します。パビリオンは、映像シアターで米国メイン大学天文学・物理学部教授ニール・F・カミンズ氏の著書「もしも月がなかったら」をベースに映像物語が展開されます。

 月がなかったら、月見が出来ないとか、風情がなくなるとか、まあ、科学の門外漢たる小生なら考えそうなお「もしも」像はいろいろ考えられる。
 が、実は、月がなかったら地球は想像を絶する世界となっていただろうという。

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2008/01/29

獰猛なる信仰の行方

 S.グリーンブラット著の『驚異と占有―新世界の驚き』(荒木 正純【訳】 みすず書房)を暇に飽かして一気に読了。
 出版社の内容紹介によると、「新大陸を発見したコロンブスの「驚き」は、なぜ必然的に、その「土地の占有」と結びつくのか?多くの記録文書や報告、物語を解読しつつ、植民地化への心理機構をみごとに分析した出色の論考」だって。
 1994年の刊行なので、新著とは言えない。

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→ S.グリーンブラット著『驚異と占有―新世界の驚き』(荒木 正純【訳】 みすず書房)

 本書を読んで、改めて感じたのは、世界を席捲し支配するのは、信仰と権威の強さなのかなってこと。思い込みの強さがある限り、どんな野蛮も合法化されるし正当化できてしまう。
 世界支配は、富への欲望もあるけど、世界の風景を己が信仰の色に染め上げてしまおうという、獰猛なまでの信仰心こそがエネルギー源のように今更ながら思える。

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2007/12/23

髪は長~~い友達

 考えてみれば不思議なことかもしれないけれど、考えないので不思議ではないことっていろいろある…多分。
 人の髪って、何処まで伸びるのか。
 考えたことのある人は結構いるのではなかろうか。

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→ 我が守り神である白猫さんの、在りし日の雄姿。3年前までは近所で見かけたのだが…。毛並みの話なので、久々に登場願った。懐かしい!

 三面記事なのか社会面の隅っこ、あるいは世界の珍しいニュースということで、何メートルも髪を伸ばし続けているひとのことを、時折、テレビそのほかで見聞きする。
 で、ついでながら、やはり誰しも考えたことがあると思うが、少なくとも酒の席か暇の徒然のお喋りのネタとして、腋毛やあそこの毛はどうなのかってことも、疑問として論議(?)されてきたことと思う。

 腋毛は、髪の毛のように伸び続けることはないのか。
 胸毛とか下(しも)の毛などは、伸び続けるようにはなっていないのか。

 あるいは、腋毛にしても胸毛にしても下の毛にしても脛毛(すねげ)にしても、本来的には伸び続ける素質(才能? 可能性?)があるのだが、生憎と、人類が衣服を着用するようになり、日陰の存在のように押し隠されてしまって、出る杭は打たれるではないが、伸びる髪だが邪魔なので衣服や肌に擦れて縮れ、あるいは日陰の身であることで世を儚んでいじけひねくれて、伸びるものも伸びることはないのか。

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2007/12/13

ライスダール…さりげなく劇的に(前篇)

[本稿は、7日(木)に書いたもの。ようやくアップに扱ぎつけた。風景画となると、ロイスダール(ライスダール)を逸するわけには行かない。ライスダールの特徴は、(本文に示しているけれど)風景画に必ずのように雲が描かれている点にあると思える。雲の様子の変幻で光と影の織りなすドラマ、そして瞑想を誘う時の移ろいまでもが示されているようだ。ところで、ケネス・クラーク著の『風景画論』がなかなか読み応えがあったので、久しくその存在を気には掛けていたが今ひとつ手が伸びなかった、同氏著の『ザ・ヌード ―理想的形態の研究』(高階 秀爾 翻訳 , 佐々木 英也 翻訳 ちくま学芸文庫 筑摩書房刊 但し小生は単行本である美術出版社版で読む。ヌード画を大きな写真で観たいから!)を読み始めた。来年辺り、ブログ記事のメインの題材を風景画論から人物画へ、じゃなく、一気にヌード画に移るかどうするか思案中。深みに嵌まりそう!]

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← ケネス・クラーク 著『ザ・ヌード ―理想的形態の研究』(高階 秀爾 翻訳 , 佐々木 英也 翻訳 ちくま学芸文庫 筑摩書房) 「本書は、裸体像をテーマとした理想的な造形表現が、西欧美術の中でどのように変貌しながら生き続けていったかを跡づけたもので、該博な知識と鋭い観察に支えられたユニークな芸術論」だとか。

オランダ風景画の巨匠アルベルト・カイプ」なる記事の末尾で、ヤーコプ・ファン・ロイスダール(あるいはライスダールと表記)というやはりオランダの画家が気になると書いている。
 上の下書きは、11月19日頃に書いたもの。
 そのうち忘れちゃうかなと思っていたが、アルベルト・カイプ関連情報をネットで集めている過程で何作か観たロイスダールの絵の風景画の印象が脳裏に残っているようで、やはり、多少なりとも特集を組んでおきたくなった。

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2007/12/09

ベラスケス「侍女たち」の風景(後篇)

[本稿は、「ベラスケス「侍女たち」の風景(前篇)」の続編(後篇)です。]

 小生の手には余るので、ネットで見つけたあるサイト(「ミシェル・フーコーによるベラスケス「侍女たち」の読解」)の説明を援用させてもらう。

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→ バンヴィル,ジョン【著】〈Banville,John〉 高橋和久 小熊令子【訳】 『プラネタリー・クラシクス ケプラーの憂鬱』(工作舎) 本書は小説である。「ケプラーの憂鬱-詳細」参照。「「初めに形ありき!」宇宙における調和は幾何学に基礎があると信じ、天球に数学的な図形を探し求めたヨハネス・ケプラー。本書は、天文学に捧げた彼の半生を追いながら、科学的真理は幻想から生まれることを描いたヒストリオグラフィック(歴史記述的)・メタフィクションである。1981年度英国ガーディアン小説賞受賞作」だという。ケプラーは、プラトンの立体の夢を追ったのだろうか。

「フーコーの『言葉と物』も、それに近いと言えば近いことを問題にしています。「言葉」と「物」の乖離です。われわれは、「物」を見ているようで実は「言葉」を見ている。そういう意味で、われわれが生きている世界は「表象の世界」です。フーコーさんは、われわれが生きるこの現実としての「表象の世界」を鮮明に語るために、ベラスケスやドン・キホーテを取り上げているのです。物なら物という実体的な裏付けを欠いた「表象」が浮遊し、そんな「表象」たちが互いに他を支えあう形で自己完結している世界。そこにどんな力学が働いて「権力」や「主体」や「知」が生まれるか。これを説明するためです。」という説明も面白いが、ここは飛ばす。

 以下が肝心な点だろう:

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2007/11/30

ベラスケス「侍女たち」の風景(前篇)

「furiae」…ベルグクヴィストの周辺(前篇)」でも書いたけど、「「ケプラーの夢(ソムニウム)」再び」で言及していたジョシュア・ギルダー、アン-リー・ギルダー 著『ケプラー疑惑 ティコ・ブラーエの死の謎と盗まれた観測記録』(山越幸江 訳、地人書館)を読了した。

 本書はいろんな理由があって手にしたのだが、その一つは、西洋における風景画の誕生、あるいはその画法などの変遷の歴史との絡みがある。
 西洋において風景画がどのように変遷してきたか。

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← Diego Velazquez『 Las Meninas (1656)』 (画像は、「ミシェル・フーコーによるベラスケス「侍女たち」の読解」より。この記事は後出する。本文共に参照のこと。)

 その全貌など小生には語るすべもない。せめて少しは勉強をと思い、越宏一著の『風景画の出現 ヨーロッパ美術史講義』(岩波書店)も過日、読了している。
「17世紀ヨーロッパにおける風景画の出現は,美術史のなかでどのような意味を持つのだろうか.絵画の画面から人物が消えてゆくプロセスを,古代壁画,聖堂壁画,タピスリー,中世書物の挿画,暦の飾画などをつぶさに見ながらたどってゆくことで,<風景>が芽生える長い道程が解き明かされる.ユニークな西洋美術入門.」といった内容。

 越宏一著の『風景画の出現』を読んで学んだことは多々あるが、同時にちょっと物足らないような気もしたのは事実。
 絵画の宗教的側面や時代を追っての徐々に風景が全面に出現していく、その移り変わりが分かるのは有り難いが、何故にそのように中世から近世へという時代にあって絵画における風景(画)の位置付けが変ったのかの、肝心の背景の説明が物足りないのだ。

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2007/11/04

「種月耕雲」か「釣月耕雲」か(後編)

 本稿は、「「種月耕雲」か「釣月耕雲」か(前編)」の後篇である。
 この手の文章は内容からしてあまり読まれないのは分かっているのだが、それはまあ、致し方ないとして、つい好奇心で調べ始めた以上は、ネットで分かる範囲で暫定的となるのは必定ながらも、一定の結論は出しておきたい。
 その上で素養のある方に、あるいはもっと探究心のある方にフォローしてもらえればと思う。

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→ 一昨年だったかの正月に富山の海辺で撮った松林越しの雲。これは何という名の雲だろう。鉛色の垂れ込めた分厚い雲が当たり前の冬の富山(北陸)でこんな晴れ渡った空なんて珍しい。言うまでもないだろうが、本稿にしても、小生のマイブームテーマである「雲」つながりの一環なのである。だから、雲の画像を載せている!

 ということで、さて、次は、「種月耕雲」である。

 似て非なる言葉なのか、似て、実際に含意も似ている言葉なのか。一体、誰の言葉なのか。やはり、道元の言葉なのか。

種月耕雲」でネット検索すると、トップに浮上するのは、下記の頁だった:
名古屋なんでも情報 - 284 種月耕雲

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2007/10/29

「種月耕雲」か「釣月耕雲」か(前編)

 さて、ようやく本題である。
 その言葉とは、「種月耕雲」か「釣月耕雲」かのいずれかだったと思う。
 掛け軸である。楷書体で書いてあるわけではない。まして、小野田官房長室の壁の掛け軸には、何々という文句が書いてありました、などと番組が終った時点で教えれてくれるわけもない。

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← 高取焼陶芸家・亀井味楽書「釣月耕雲」(画像は、「亀井味楽・「釣月耕雲」」より。ホームページは、「聚雲堂ホームページ・京都・古今書画処」)

 電話でテレビ局に長官室の壁に掛けてあった掛け軸の言葉について教えてくださいって、電話する?!
 小生、電話するの嫌いなの!
 電話で訊くくらいなら、回り道でも自分で分かるところまで調べる!

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2007/10/26

「種月耕雲」か「釣月耕雲」か(序)

 事情があって、柄にもなく勉強漬けの日々である。といいつつ、手を休めてネットに音楽に窓外にと、集中が途切れる時間のほうが遥かに多いのは、否定しきれない…。
 食事の時間だからという理屈を付けて、テレビのスイッチをオン!
 モバイルのテレビなのだが、すこぶる調子が悪く、画面が出るまで下手すると十分以上もかかる。木曜日の夜にはとうとうダメになってしまった。
 そう、木曜日の夕方くらいまでは、辛うじて観ることができたのである。

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→ 何故か今年三月の画像。一番星なのかどうか。

 尤も、今だって、テレビを見ることはできる。何もテレビ自体が消え去ったわけではないのだから、小さいとはいえ、テレビ本体は今だって見ることができる。
 ベランダには十年近く頑張ってくれていた14型のテレビが雨風に耐えて、今も静かに眠っている。
 ブラウン管が6年か7年前にプッツンしてしまったテレビ。
 それがベランダで突然、音声を発したら、こっちが驚く。何たって、ブラウン管が可笑しいし、そもそも、電源のコードは故障した怒りに任せて引き千切ってしまっている。

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2007/10/21

受肉された吐息

 青い空を見る。青い海を見る。その狭間を海鳥たちが舞い飛ぶ。遠くには幽かに不二なる山の優美な姿も望める。
 空には白い雲。海辺には寄せては返す波。浜辺に沿って緑なす松の並木が何処までも続いている。そして頬を撫ぜる潮風と、その香り。

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 絵のような美しさ。それとも写真のように木目細かな像。心地よさ。
 なんだか、倒錯したような表現だ。眼前に広がる光景を愛でていれば、それで十分じゃないか。何を殊更に人の手で描き叙する必要があろうか。

 言葉や描像で示すのが、余計だと言うなら、音楽はどうだろうか。情景をより豊かに、情緒に満ちて眺め入ることができるではないか。
 が、でも、やはり、眼前の世界を描き切りたい、しっかりと把握したい、理解したい、手中にしっかりと確保したい。それには、結局は言葉に行き着いてしまうのである。

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2007/10/18

雲行き怪しき禁書(?)の禁(1)

禁書(?)の禁を自ら犯してしまった!」なる雑文を綴ったことがある。
「禁書(?)の禁」と(?)を付したのは、言葉の使い方としてやや妥当性を書くからである。
 つまり、この拙稿では、本を買わないと三年前の四月に決めた誓いを自ら破ってしまったという話なのである。
 まあ、あまりに面白い本が、且つ、読むのに事情があったにしろ多少時間を要する本の登場が罪で、余儀なく買ってしまったのである。

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→ 昨年11月の某日。不穏な雲行きの空。

 さて、第二弾というわけではないが、また、「禁書(?)の禁を自ら犯してしまった!」なる拙文を綴ることになりそうである。
 といって、また面白そうな本、且つ蔵書として傍に置きたい本に出会ったということではなく、小生にとっては大切な試験がいよいよ来月に迫っており、今月末には模擬試験が予定されていたりして、本来、本を読むことに時間を割く余裕などあるはずがないのだし、あってはならない、でも、やはりこの期に及んでも本は手放せないし、それどころか、今日も図書館に行って、期限が来ていて返却すべき本やCDを返却したのみならず、CDだけならまだしも、ついつい本を物色し、借り出してしまったのである。

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2007/09/04

リスボン地震…仮の宿も終の棲家と見定めて

「緊急地震速報」が10月1日からいよいよ一般に向けての実用化が始まるとか。
 ここでは、「緊急地震速報 - Wikipedia」から下記だけ転記しておく:

 震源に近い観測点の地震計で捉えられた地震波の情報を気象庁へ瞬時に集約しコンピュータの解析処理によりただちに震源の位置及び地震の規模(マグニチュード)を特定して、これらをもとに各地への主要動の到達時刻及びその震度を推定して、被害をもたらす主要動が到達する前にこれらを適切な方法で広く一般に知らせる。緊急地震速報を適切に活用することで、地震災害の軽減に役立つものと期待されている。

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← 「仮の宿も終の棲家と見定めて」 (画像は、拙稿「仮の宿」より)

 地震については詳しいサイトが数知れずある。
 一つだけ挙げてみる:
地震について(マメ知識)
 この頁の中の、「地震はどこで起こる?」と題された表を見ると、海沿いに生きる者には逃げ場がない! などと思わされてしまう。

 今、「月探査機「かぐや」 打ち上げ迫る」でも紹介した、『地球の物語 痙攣する青い惑星』(C・オフィサー 著 J・ペイジ著 中島 健訳、青土社)を車中で読み齧っている。
「環境汚染と人類の未来 地球は、われわれにとって必ずしも、永遠の安定した場所ではない。異常気象・温暖化・洪水・噴火・地震・オゾンホールなど、さまざまな異変の要因を、それらを加速化させている現代の人類文明と重ね合わせ、問題の所在を明快に分析する」という本だが、本書の中では、地震の話題が少なからず採り上げられている。

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2006/05/03

世界で最も乾いた土地

 アリエル・ドーフマン著の『世界で最も乾いた土地―北部チリ、作家が辿る砂漠の記憶』(水谷 八也訳、ナショナルジオグラフィック・ディレクションズ、早川書房)を読了した。
 静謐なる感動を覚えた…と書きたいが、何処か茫漠たる、掴みどころのない憤怒のようなものも、感動という大河の底で渦巻いているようでもある。苦い読後感。

 本書については、「久々の読書拾遺」の中で既に若干の紹介を試みている。
 再度の転記となるが、レビューが簡潔に梗概を示してくれているので、以下、余談を綴る前に、一読しておいていいだろう:
「ノルテ・グランデ―チリ北部の砂漠地帯は一滴の雨も降らない世界一乾いた土地。すべてを砂漠で覆い、過去をも腐食させることなく保っているそこで目にするのは世界最古のミイラ、南北アメリカ大陸最古の足跡、かつて権力者たちが覇権を争った硝石鉱山、一時の夢のように花咲いた工場街の跡、そしてピノチェト政権によって親友が銃殺された現場…。旅はいつの間にか、砂漠の近代史、人類の歴史、さらには生命の起源をも現在に重ねた時間を巡る壮大な瞑想となっていく。無尽蔵に貯め込まれた“砂漠の記憶”が紡ぎ出す過去と未来から垣間見える現在の意味とは…。 」
 この「南米チリで1万3千年前の人間の足跡の化石が発見された」のも、「世界一乾いた土地」柄の賜物なのだろう。
 本書は人類史に近代史、そして現代に生きる人々の亡くなってしまった人々、殺されてしまった人々への思いとが幾重にも重ねられて綴られている。
 人は今に生きているし、これからを生きるのだけれど、過去のない人はいないし、まして過去を引きずらない人などいない、ある程度以上の年代の人でそうした人がいたら、むしろ怖いくらいのものだろう。
 作家のアリエル・ドーフマンは、独裁政権によって惨くも殺されてしまった親友の、あるいはそのほか多くの語ることのない、語りえない、あるいは空漠たる虚空に叫んだであろう言葉と思いを今を生きている人々の伝手(つて)や思い出を頼りに探り出そうとする。
 その結果、何が見出されたか…。
 本書はカフカの城のような迷宮を壁伝いに、痕跡を糸口に、尋ねまわり、少しずつ、あるいは思いがけない僥倖に恵まれて一気に、真実が見出されるその過程こそに味わいを求めるべきなのだろう。

 小生などの感想など脇に退けておいたほうがいいだろう。
 それより、例によって余談である。

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