2008/02/24

祈りでもなく

 無難ながら、それなりの歳月を生きて、若い頃とは違う意味で肉体を感じ、自然を感じ、世界を感じる。物質とは、究極の心なのだと今は考えている。別に根拠はない。直感的なものに過ぎない。
 心というものがあって、肉体にも物質にも経済にも制度にも世界の終わりにも関わらず永遠に存在する……。それは魂という呼び方しか出来ない何ものか……。

Unga

 そんな風に思った時期もある。そう思いたかったのだろう。
 この世への、あるいはあの世への憧れ。満たされない魂。叶えられない夢。果たされない願望。理解されない望み。誤解と曲解と無理解の泥沼。無慙にも奪われた命。生まれいずることもないままに闇から闇へ消え行った命。芽吹いたその日から岩の下で呻吟するだけの命。どうしてこの世はこうであって、このようではない風ではありえないのか。理不尽極まるじゃないか。

 だからこそ、心とか、魂とか、情念とか、怨念とか、幽霊とか、とにかくこの世ならぬ存在を希(こいねが)う。永遠の命。永遠の魂。穢れなき心。


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2008/02/09

DASEIN…そこにある

[気分は昨日と同じなので、やはり旧稿から。題名だけ変えました。]
Unga
 だだっ広い世界にポツンと一人、放り出されている。
 一人って、自分で言っているけど、自分が一人なのかさえも分からない。
 自分では自分の姿が見えないから。
 迷子になった心が疼いている、ただ、それだけのことなのかもしれない。
 誰かに触れたい。誰かに触れて欲しい。
 何の拘りもなく、ただ、触れ欲しい。触れてみたい。
 たった、それだけのことが、どうしようもなく難しい。

 誰のせいでもなく、私は、やはり、独り、闇の中でポツンと、いる。
 通り過ぎた電信柱に貼られたチラシ、それとも白い壁にペイントされた落書き。
ガード下の薄暗い壁の剥がれ切れないでいる広告。
 私は、そういったものほどにさえ、確かに生きているとは感じられない。

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2008/02/08

想いは消えない

 一体、この世に何が残るのだろうか。そもそも何か残したいのだろうか。
 あるいは残さないほうが潔い?

 この掛け替えのない自分。確かに自分というのは一人しかいないし、段々自分のことを気遣うのは自分しかこの世にないのだと、しみじみと感じてきている。
 だから、その意味で世間に迷惑を掛けないよう自分のことは自分で始末をつけたいとは思うけれど、さて、それも生きている間のことで、その後のことは、どう思えばいいのだろう。

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← 『Blue Myth』 (from 「La Moon」)

 ここで思うのは、一頃流行ったカオス理論でのバタフライ効果って奴である。
 まあ、正確さなど一切、度外視して説明すると、逐一の些細な差異が、継続して加算・加重されると、後に至っては非常に大きな違う結果に到る、という理屈である。

 で、敢えて卑近にも自分のことを思うなら、ここ、この世の片隅に一個の平凡なる人間がいる、それは極小の小宇宙に過ぎない。
 その取るに足りない人間のささやかな思いや願いや祈りや期待など、それこそ蝋燭の焔であって、気紛れな風の一吹きで掻き消されるような、存在自体があやうい、あれどもなきが如きものでもある。

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2008/01/26

三途の川と賽の河原と

 前回に引き続き、「さいたま川の博物館」での、「平成11年度第2回特別展「三途の川」」を道案内に、三途の川のこと、そしてできれば、賽の河原について幾分かでも学んでおきたい。

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← 陸信忠(りくしんちゅう)筆本『十王図』(絹本着色 各縦83.2 横47.0(cm) 中国・南宋時代) (画像は、「奈良国立博物館」より) 「人が死後に赴く冥土(めいど)には、亡者の罪業の審判者として閻羅王(えんらおう)(閻魔王)など十人の王が」いる。「十図はいずれも王が冥官たちを伴い、椅子に掛けて机に向かい罪状を調べており、前には裁きを受ける亡者や、あるいはすでに有罪とされた亡者が様々の刑罰を受ける様子などが獄卒の鬼たちと共に描かれる」。個人的には、「壺中水明庵」を舞台に風景画をテーマにブログ記事を綴っている小生、「なお王の背後の衝立(ついたて)にはどれも水墨山水図が描かれ、日本への水墨画導入にこれら画中画が一つの役割を果たしたと考えられる」という点が関心の的。「奈良国立博物館」に所蔵されるという「騎象奏楽図」を見てみたい。

 こんなことを学んでどうなるというのか、どんな意味があるのか、少なくとも小生にはさっぱり分からないのだが、何故か惹かれるものがあるので(そろそろ呼ばれている?)、ひたすらに好奇心に駆られるままに、かといって、あまりに深入りして、それでは、自分で訪ねてみようとばかりに、往って(逝って)還らぬ人にならぬよう、浅瀬を選び、できれば、三途の川の中に足を浸さないだけではなく、飛沫さえ浴びないように、用心を重ね、不摂生なる日頃の生活をほんの少しは慎みながら、まあ、表面的なこと、触りのところだけを、無論、差し障りに至らぬ程度に、触れてみよう。

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三途の川のこと

 あるサイトの掲示板で、千葉県には、三途の川という名の川があるという書き込みを見つけた。まさか、という気持ちと、でも、あっても可笑しくはないという気持ちとが相半ばしていたが、とりあえず、ネット検索。キーワードは、勿論、「千葉県 三途の川」である。
 すると、検索結果リストの筆頭に、「特別展点描  発見!「三途の川」」という表題のサイトが登場するではないか。

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→ 錦絵『三途川老婆』 (画像は、「特別展点描  発見!「三途の川」」より)

 その冒頭には、「さいたま川の博物館では、今年度第2回の特別展「日本人の他界観を探る-三途の川-」を開催しましす。」とある。
 続いて、「「三途の川」は、皆さんも知ってると思いますが、人が死んでからあの世に行くときに、必ず渡らなければならないとされた想像上の川です。しかし、特別展の開催を準備していた私は、ふと、「三途の川」という川は、実際にこの日本にあるのだろうかという素朴な疑問がわきました」とあるではないか。小生と同じような疑問を持たれる方がいらっしゃるわけだ。

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2007/12/12

アルトドルファー:風景画の出現(後篇)

[本稿は、「アルトドルファー:風景画の出現(前篇)」の続きです。昨日(11日)、スーツを入手した。十数年ぶり。いろいろ面接もあるので、仕方なく。今日(12日)は流し台の脇の調理用ヒーターやらユニットバスの換気扇のタイマーの修理に人を呼んだ。でも、都合があってか修理は後日。ガッカリ。]

ロト (聖書) - Wikipedia」なる頁には作者名らしきものが見当たらない。
「ヘンドリック・ホルツィウス(Hendrik Goltzius)」なのか。
 今は、彼のことを調べる余裕がないので、興味のある方は、下記へ:
Hendrick Goltzius - Wikimedia Commons

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← ヘンドリック・ホルツィウス(Hendrik Goltzius) 『Jupiter and Antiope』(1616) (画像は、「Hendrick Goltzius - Wikimedia Commons」より) 母乳アートの走り?

 あるいは、下記が詳しい:
古楽画廊-ヴァイオリン(25) Early Music Art Gallery  ―――リュート(25)―――」(ホームページ:「Early Music Art Gallery―――古楽画廊―――」)

 冒頭の一節のみ転記する。以下は、当該の頁で:

ハールレムで活躍したヘンドリック・ホルツィウスは、初期はオランダのマニエリスムを代表する版画家でした。火傷のために右手が使えなかったと言われますが、絵画の複製では素晴らしい技量を示し、「ローマの英雄 The Roman Heroes」 (1586)のシリーズに代表される、独創的な作品も残しています。

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2007/11/29

「furiae」…ベルグクヴィストの周辺(前篇)

 本稿は11月16日に下書きを書いたけど、アップするタイミングを逃していたもの。
 もう、十日以上も経過してしまった。
 もっといろいろ情報を得て、充実させてからアップさせたかったけど、時間的に難しい。半端だけど、アップしておく。

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→ ジョシュア・ギルダー、アン-リー・ギルダー 著『ケプラー疑惑 ティコ・ブラーエの死の謎と盗まれた観測記録』(山越幸江 訳、地人書館) 読み物として実に面白かった。重版も当然だね。

 さて、今日は「「ケプラーの夢(ソムニウム)」再び」で言及していたジョシュア・ギルダー、アン-リー・ギルダー 著『ケプラー疑惑 ティコ・ブラーエの死の謎と盗まれた観測記録』(山越幸江 訳、地人書館)を読了した。
 際物(きわもの)的な本かと、最初は警戒していたが、すぐに真っ当な内容の本と気付いた。実に面白い。後日、なんとか書評と行かなくとも感想文くらいは書きたい。

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← ギャヴィン・プレイター=ピニー 著『「雲」の楽しみ方』(桃井 緑美子 訳 河出書房新社

 ついで、過日、図書館で発見したギャヴィン・プレイター=ピニー 著『「雲」の楽しみ方』(桃井 緑美子 訳 河出書房新社)を今日から読み始めた。
「大空にさまざまな表情を与えてくれる雲。来る日も来る日も青一色の空を見せられたら人生は退屈だ。本書は、英国でベストセラーになった、豊富な写真入りの愉快でへんてこな雲一族を真面目に紹介する世界初の科学ガイドブック。」って本だけど、雲や空、霧、水などなどがブログ上のマイブームテーマの小生にはうってつけの本である。
 冒頭を読み始めただけだけど、楽しそうな本。著者が書くのを楽しんでいるってのが伝わってくる本である。

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2007/10/26

「種月耕雲」か「釣月耕雲」か(序)

 事情があって、柄にもなく勉強漬けの日々である。といいつつ、手を休めてネットに音楽に窓外にと、集中が途切れる時間のほうが遥かに多いのは、否定しきれない…。
 食事の時間だからという理屈を付けて、テレビのスイッチをオン!
 モバイルのテレビなのだが、すこぶる調子が悪く、画面が出るまで下手すると十分以上もかかる。木曜日の夜にはとうとうダメになってしまった。
 そう、木曜日の夕方くらいまでは、辛うじて観ることができたのである。

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→ 何故か今年三月の画像。一番星なのかどうか。

 尤も、今だって、テレビを見ることはできる。何もテレビ自体が消え去ったわけではないのだから、小さいとはいえ、テレビ本体は今だって見ることができる。
 ベランダには十年近く頑張ってくれていた14型のテレビが雨風に耐えて、今も静かに眠っている。
 ブラウン管が6年か7年前にプッツンしてしまったテレビ。
 それがベランダで突然、音声を発したら、こっちが驚く。何たって、ブラウン管が可笑しいし、そもそも、電源のコードは故障した怒りに任せて引き千切ってしまっている。

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2007/09/08

洪水は今、現場で起きつつある!

 車中で相変わらずC・オフィサー 著/J・ペイジ著『地球の物語 痙攣する青い惑星』(中島 健訳、青土社)を読んでいる。
 刊行年が94年と古いのが気にかかるが面白いのだから仕方がない。
 このところ、お蔭さまで暇とは言えない程度には仕事が忙しい。なので、車中での待機中の読書も進まない。もう借りてから十日も経つのに三分の一も読めない。

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→ 映画『天地創造』(監督: ジョン・ヒューストン 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン) スケールの巨大な映画だった。今じゃ、こんな映画の制作は無理か。すぐ、CGに頼っちゃうし。映画の宣伝で女性のヌードシーンが出てくることを知り(でも、後姿)、それを見たい一心で映画館へ足を運んだという記憶がある。純心だったのだ! この映画か、市川雷蔵主演の「眠狂四郎」か、ボンド映画(『ロシアから愛をこめて』or『ダイヤモンドは永遠に』)に痛く刺激され初の夢精を経験したのだった! どの映画だったのかはっきり覚えていないのは男として不覚だ。…それとも、近所の女の子と相撲したのが直接の契機だったっけ?

 嬉しい(?)悲鳴はともかく、今日もまた本書からネタを戴く。まあ、今の時代に無縁とは言えない話題のはず。 それは洪水の話。

旧約聖書』の「ノアの箱舟」の話は有名であろう。昔、映画にもなったっけ。「天地創造」の中の一場面だったか。

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2007/07/13

運慶は阿吽(あうん)の息で仏生む

何か忘れてやしませんか…ホントだ!」で、最近小生が読んでいる、あるいは読もうとしている本を紹介している。
 このうち、デイヴィッド・R.ウォレス著『哺乳類天国―恐竜絶滅以後、進化の主役たち』(桃井 緑美子・小畠 郁生訳、早川書房)とルイス・ウォルパート/アリスン・リチャーズ著『科学者の熱い心―その知られざる素顔』(青木 薫・近藤 修訳、講談社ブルーバックス)は読了した。

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→ 副島弘道著『運慶 その人と芸術』(吉川弘文館)

 今、読んでいるのは(依然として少しずつ読み進めているジョージ・エリオットの『集英社版世界文学全集 40 ロモラ』(工藤昭雄訳)は別として)、鶴岡真弓著『黄金と生命―時間と練金の人類史』(講談社)と副島弘道著の『運慶 その人と芸術』(吉川弘文館)と工藤隆著『古事記の起源―新しい古代像をもとめて』(中公新書)の三冊である。

 鶴岡真弓氏著の『黄金と生命―時間と練金の人類史』(講談社)は、鶴岡氏が壮大なテーマに取り組まれた…テーマが巨大すぎるのではないかと思ったりしたが、あれこれ教えられることが多く、後日、読了したなら、パレケルススや錬金術との絡みで感想文を書くかもしれない。

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2007/05/27

イナーヤト・ハーン…音楽は宗教そのもの

 本書ハズラト・イナーヤト・ハーン著『音の神秘―生命は音楽を奏でる』(土取利行訳、平河出版社)の訳者である土取利行氏がハズラト・イナーヤト・ハーンの著作にめぐり合ったのはフランスで、「一九七五年、実験劇『チベット死者の書』の音楽を担当し、最後の公演先パリを訪れたとき、意外にもジャズのソプラノ・サックス奏者スティーブ・レイシーから紹介されたのが本書の第章「音楽」だけをまとめたペーパーバックだった」という。

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← ハズラト・イナーヤト・ハーン著『音の神秘―生命は音楽を奏でる』(土取利行訳、平河出版社)

 本書など随所からからイナーヤト・ハーンの言葉は引用され名言などとして示されている。
 下記の言葉もその一つである:

 つまるところ、音楽とは何なのでしょう。
 いわゆる音楽とは、耳に聴こえる調和のことですが、実は色の中にも、線の中にも、音楽はあるし、種々の草木が繁茂する森にも音楽はあります。そして、そこでは、草や木の共生の仕方にもハーモニーがあります。より広く自然を観察すれば、自然はさらに人の魂に訴えかけてきます。
 どうしてでしょう。そこに音楽があるからです。
 より広い生命観をもてば、生命への理解が深まり、音楽がもっとよく聴こえるようになります。全宇宙に呼応する音楽が聴こえるようになるのです。
 でも心の開けた人は、森に出るまでもなく、雑踏の中にいても音楽をみいだせます。

 この頁ではハズラト・イナーヤト・ハーン著『音の神秘―生命は音楽を奏でる』(土取利行訳、平河出版社)の「訳者あとがき」より「イナーヤト・ハーンの経歴」を一部、転記させてもらう形でイナーヤト・ハーンの人物像などを紹介しておきたい。
 ネットではまだ彼に付いての情報は、彼に相応しいほど十分見出せるとは思えないからである(手入力なので、転記の際に不備があるかもしれない。気づかれた方はご指摘を願う)。

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2007/05/26

誰もいない森の中の倒木の音

 ハズラト・イナーヤト・ハーン著『音の神秘―生命は音楽を奏でる』(土取 利行訳、平河出版社)を読了した。
 といっても、本書のような神秘性・宗教性の高い本を読了したというのは、やや難を感じる。
 かといって、目を通したというのも、見下しているかのようで、やはりこそばゆい。
 いっそのこと通読したと、あっさり表現しておけばよかったのか。
 さすがにこの手の宗教書ではないが、「音楽は宗教そのもの」と言い切る強烈な宗教的信念を持つ方の本に、安直に感想文など綴れない。

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← 今年二月、夜の代々木公園で見かけた謎のドーム群。

 金曜日は所要があって予定を変更し、休みを取ったが、時間が取れたので、上掲書の「訳者あとがき」をパソコンに転記する作業に没頭した。
 筆者のイナーヤト・ハーンについての情報がネット上では(日本語では)あまり見つからなかったから、折を見て、転記した文の一部か全文をアップするつもりでいる。

 さて、上掲の本を読んで、音楽、もっと言うと、音への思いを改めて巡らせてみた。
 音、それも沈黙の音を巡っては、過去、若干のエッセイを綴ってみたことがある:
誰もいない森の音

 さすがに、イナーヤト・ハーンの域には遥かに及ばないのだけど、上掲書を読みつつ、「夜 の 詩 想」などと共に、ふと思い出されたエッセイのうちの一つなので、せっかくなので改めて日の目を見させてやりたいのである。
石橋睦美「朝の森」に寄せて」と併せて目を通してもらえればと思う。

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2007/05/18

弦の音共鳴するは宇宙かも

 音楽と宗教との関係。
 日本や東洋はいざしらず、西欧においては、音楽と宗教とは切っても切れない関係を持っているようだ。
 実際、宗教音楽というと、西欧の宗教音楽をつい想定してしまう。
宗教音楽 - Wikipedia」を覗いても、冒頭に、「宗教音楽とは、宗教においてのミサ、礼拝、祭礼などに用いられる音楽である」として、以下、「具体的には、キリスト教における賛美歌や聖歌、ミサ曲、モテット、カンタータ、コラール、オラトリオ、レクイエムなどが挙げられ、それらはミサ典礼文や聖書に基づいたテキストによって構成されている」云々と続く。
「現在の西洋音楽はキリスト教音楽から発達したといえよう」というのは、異論がありえるのかどうか。

「仏教においての声明(しょうみょう)御詠歌や、神道においての神楽、儒教においての雅楽などがある」というが、西洋の宗教音楽に相当するものがあるかどうか、という問いに対して、こんな音楽があるということであって、西欧とはまるで違う。

 何が違うのか。大雑把に言うと、楽譜ということになるのか。記譜法の発達が西洋の宗教音楽を発達させたのかどうかは分からないが、今に豊かな情報というか遺産として残ることに資したとは言えそう。
 その点、東洋の多くの音楽は、まさに人づてに伝わってきたものが多い。
 ひたすら師とする人の下での修練が大切というわけである。

 さて、小生、音楽と宗教といっても、何も宗教音楽について調べてみようというのではない。
 むしろ、音楽の持つ、不可思議な世界を宗教という世界に喩えようとしているに過ぎない。
 世界は音楽。世界は数的な調和の世界。諧調を成す宇宙。
 まあ、そんな大袈裟なことなど言い募る必要などないのだが、聴く曲や演奏によっては、何処か異世界へ飛んで行ってしまうものもある。

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2007/05/08

歌舞妓人探しあぐねて木阿弥さ

 歌舞伎は、「歌舞伎 - Wikipedia」に見られるように、「日本独特の演劇で、伝統芸能の一つであ」り、しかも「重要無形文化財。世界無形遺産」である。
 歌舞伎という言葉の語源も、「カブく(「傾く」が原義)の連用形からとされる。異様な振る舞いや装いをカブキといい、それをする人物をカブキ者と言った。歌舞伎の醍醐味はケレン味のある演出だといわれるのは、こういった背景にも由来する。つまり歌舞伎というのは当て字であるが、歌い、舞い、伎(技芸、芸人)を意味する、この芸能を表現するのに適切な文字である。ただし当初はその発生史から伎ではなく妓の字が使われ、江戸時代には混用していたようであるが、明治時代以降、現在のように統一した表記になった」とあって、なかなか興味深い。

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← Thomas F. Leims 著『Die Entstehung Des Kabuki: Transkulturation Europa Japan Im 16 Und 17 Jahrhundert』(Japanese Studies Library Brill Academic Pub) 翻訳されているのかどうか、分からない。河竹登志夫著『歌舞伎美論』(東京大学出版会、1989年)にトーマス・ライムス「16・7世紀のヨーロッパから見た日本芸能ー成立初期のカブキを中心としてー」からの関係する部分の引用があるという。

 歴史についてみると、「1603年に北野天満宮興行を行い、京都で評判となった出雲阿国(いずものおくに)が歌舞伎の発祥とされる。阿国は出雲大社の巫女であったとも河原者でもあったというが、定かなことは明らかでない。阿国はその時代の流行歌に合わせて、踊りを披露し、また、男装して当時のカブキ者のふるまいを取り入れて、当時最先端の演芸を生み出した。このころは能舞台などでおこなわれており、歌舞伎座の花道は(下手側が本花道、上手側が仮花道であることなども含め)ここから来ていると考えられる」とある。

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2007/04/03

快川紹喜…心頭滅却の意味如何に

 昨日、月曜日も黄砂がほぼ全国的にひどかったようだ。日本もひどいが中国本土はもっと凄まじい黄砂現象に見舞われているようである。
 来年の夏は北京オリンピックが開催される。黄砂被害が影響しないのかと懸念されるが、黄砂の時期は過ぎているだろうから、大丈夫なのだろう(か)。
(「中国では、BC1150年頃に「塵雨」と呼ばれていたことがわかっている。また、BC300年以後の黄砂の記録が残された書物もある」というから、黄砂の歴史はあまりに長い! さすがに四千年の文明を誇る国だと、妙なところで感心したり…。)

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← 格好いい!!(大河ドラマ「風林火山」)より

 久しぶりに「4月3日 今日は何の日~毎日が記念日~」を覗いてみた。覗く時は連日のように覗くが、覗かない時はまるで開こうとしない。
 どうやら、最近、朝方にNHKラジオ第一の5時半頃に放送される「今日は何の日」を聞き逃しているから、人に影響されやすい小生、上掲のサイトを開く気にならなかったものと思われる。
 さて、ぼんやり頁を眺め降ろしていくと、忌日の項に気になる記述があった:

1582年 快川紹喜 (臨済宗の僧)  織田信長に抗し自焼

 小生の勘違い・記憶違いでなかったら、快川紹喜というと、「心頭を滅却すれば火も自ら涼し」で有名な禅僧ではなかったか。
(尤も、小生のあやふやな記憶の中では、「心頭滅却すれば火もまた涼し」だったはずだが…。)

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2007/03/25

食い意地や定められしは下りのみ

 尾篭な話だが、あるサイトでのお喋りの流れで、ひょんなことから下痢や便秘の話しになった。
「トイレで力みすぎです」と言われ(書かれ)、便秘で苦しんだ旧稿を思い出したのである。
 エッセイというよりドキュメント風な拙稿は、下記:
ドキュメント 脱 糞 だ! (旧タイトル:痔物語、あるいは、我が生涯最悪の日)」(平成13年7月8日午後作)
 この小文自体、「ある人の痔の手術物語をネットで読んで、つい小生が国見弥一を名乗る遥か以前の懐かしき苦闘を思い出し」て書いたのだった。

 上掲の文を紹介したら(原稿自体は評判が良かったのだが?)、「ゴーダマ・シッダルタ(釈迦)も下痢で涅槃に逝ったそうですね」という情報を寄せてくれた。

 小生、えっ、そうだったっけ、である。
 この小生だって、若い頃があり、釈迦や仏教、キリスト教、イスラム教なども少しは勉強したことがある。「親鸞の弟子である唯円によって、書かれたとされる」『歎異抄』は、高校時代、二度三度と読んだものだった。
歎異抄』などを読んだその成果は、絶望的なほどに残らなかったが。
 ただ、理系志望だった小生を哲学へ転向させる結果に大きく預かっていたような。

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