2010/12/12

魔女狩り(前編)

 信じがたいことであるが、ドイツの民衆のあいだでは、それもとりわけカトリック教徒のあいだで、迷信、ねたみ、嘘、中傷、不平などが蔓延している。そのことを当局者は処罰せず、説教師も叱責せず、そのためまず第一に魔術に関する容疑が沸き起こっている。神が聖書でお戒めしている神罰にあたる行為はみな、魔女が犯しているとされる。もはや神や自然が何事かをなすのではなく、魔女こそすべての出来事の張本人だというのだ。

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← 不詳 (画像は、「魔法の光線 【スーパー戦隊シリーズ前史その63】 戦隊ヒロインBLOG」より)

 そこで、誰もが熱心に叫ぶ。当局者は魔女を取り調べろと(ところが、魔女の多くは、じつはそのように叫ぶ者の言葉から生みだされている)。


 命じられた裁判官たちは当初、どこから着手したらよいか分からない。証拠も証言もないからである。それに良心に省みて、正統な理由なしに事を企てる気にもなれない。
 そうこうするあいだに、裁判官たちは審理を開始するよう何度か勧告される。民衆はこのようにもたついていることこそ怪しいと叫ぶ。そして、諸侯たちは何者かに助言され、民衆とほぼ同様の事柄を確信するようになる。

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2010/12/11

魔女のネット宅配

 今夜、BSテレビ(BS日テレ )にて、「人類最古のエンターテインメント!マジック4000年の歴史」なる番組が放映されていたということをあとで知った。
 見逃した悔しさ。

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→ ドッソ・ドッシ Dosso Dossi (1490-1542) 「魔女キルケ(魔女メリッサ) (Maga Circe (Maga Melissa))」 (1523年頃  176×174cm | 油彩・画布 | ボルケーゼ美術館(ローマ))) 「16世紀に活躍した北イタリア出身のフェラーラ派の画家」。「本作にはアリオストの≪狂乱のオデュッセウス≫に由来する太陽神ヘリオスと女神ペルセイスとの間に生まれた娘≪魔女キルケ≫が描かれていると伝統的に唱えられているが、神官であったメリッサとする説も有力視されている」という。詳しくは、「ドッソ・ドッシ-主要作品の解説と画像・壁紙-」へ。

 こうなったら、せめて空想でマジックの歴史を辿ってみよう! …なんて思ったが、悲しいかな小生の想像力は貧困の極み。
 ここはネットの力を借りて。

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2009/03/20

「雑草をめぐる雑想」再び

 富山は昨日、25度以上と早くも夏日を記録した。今日にしても、暑いくらい。父のお見舞いなどの用事があって、車で外出しようとしたが、昨日の黄砂で汚れきっているし、車中は熱気でムンムンする。
 車内の熱を逃がすためと、汚れを落とすため、洗車の真似事などして、三十分ほどしてようやく出発。
 冬の寒さも辛いが、いざ、五月どころか六月の陽気を体で実感すると、ああ、自分の体力では冬より夏が辛いのだと、つくづく感じさせられる。

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← 今週になって一気に咲いた。夕闇の迫る頃になってもその黄色の花は一層、際立つから不思議。昨年、帰郷早々、雑草と共にまだ花の咲いていなかった芽を無闇に毟って、今はほんのわずか咲く…。

 春の陽気となると、脳裡を巡るのは、雑草のこと。
 昨年もさんざん手こずったが、今年も悪戦苦闘の日々が待っている。

 …というより、既に始まっていて、二月に早々と庭や畑の周辺に除草剤を撒布した。さすがに撒布した辺りの雑草は生え具合が遅いようだし、僅かに生えている雑草も、青々ではなく、黄色っぽい。
 といっても、畑の内部や庭でも木々の立っている周辺は除草剤のお世話になるわけにいかない。

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2008/10/31

『〈出雲〉という思想』のこと(後篇:「まえがき」を読む)

 今朝、昨日買ってきたパンジー10株を家の表通り側に植えてみた。
 午後から作業するつもりだったけど、雨が降りそうだったので、急遽、眠い目を擦りながら黙々と土いじり。

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← 曇天下、昨日買ってきたパンジー10株を植えてみた…。

 でも、植えてみたらあと20株は植えないと格好が付かない。
 寒風吹きすぎる表の通りでパンジーの花がちょっと寂しそうに揺れている。

 仲間がもっと欲しいって言ってるの?
 もっと違う場所がいい?
 それとも、曇天で震えているだけ?
 陽光を待ちわびている?

 まあ、そう言わず、今冬をなんとか乗り切って欲しい!

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→ 昼前、買物ついでにテルスターを8株買ってきて、午後、雨を心配していたのに、晴れた。今がチャンスと、早速、植える。

(午後になって雨どころか晴れ渡ったので、テルスター(ナデシコ)を8株、買ってきて早速、追加で同じ場所に植えた。少しは格好が付いたけど、まだあと10株は植えないと、どうにも落ち着かない!)


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2008/08/20

吹き溜まりの国

 今日8月20日は、「鎌倉時代の歌人・藤原定家の1241(仁治2)年の忌日」、つまり「定家忌」だという。
 小生は、藤原定家については周辺を巡るような記事しか書いていない。

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→ 過日、プールへ行ってきた。その道すがら、稲穂の海を愛でることができた。遠くには北アルプスの山々。たまたま電車が走っていた。不穏な空。案の定、夜から雨になり、翌日は雷雨に。

 例えば、「春の夜の夢の浮橋とだえして峰にわかるる横雲の空」などを採り上げた「横雲の空」であり、超新星繋がりでやや強引に藤原定家のことを訴状に載せた「土井さん、「超新星発見」から定家のこと」である。

 ここでは、看板(表題)と内容が一致しないこと甚だしい記事「侘と寂と宗教と」を再掲しておく(原文のまま。改行だけ一部変更)。
 もう、5年以上も以前に書いたもの。
 今だったらこんな内容の記事は書かないだろうなと思うと、ちょっと懐かしい。

 この記事も、内容的には藤原定家とはあまり関係がなく、話の取っ掛かりとして、定家の日記「明月記」の中の有名な言葉「世上、乱逆追討耳に満つと雖(いえど)も之(これ)を注せず、紅旗征戎(せいじゅう)吾事に非ず」を紹介している。

 旧稿を敢えて再掲したのは、実は、「移民1000万人受け入れ 国家戦略本部が提言」といったニュースが最近、一部で話題になったからである。保守派は予想通り反撥している。
 でも、日本って、元々は吹き溜まりの国、いろんな背景・事情を抱えた民族や人びとが寄り集まって成り立ち活気を持って来た国ではなかったかという認識が小生にはあるのだ。
 懸念のタネは一杯あるとしても、小生はこのヴィジョン(提言)に基本的には賛成なのである。

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2008/02/24

祈りでもなく

 無難ながら、それなりの歳月を生きて、若い頃とは違う意味で肉体を感じ、自然を感じ、世界を感じる。物質とは、究極の心なのだと今は考えている。別に根拠はない。直感的なものに過ぎない。
 心というものがあって、肉体にも物質にも経済にも制度にも世界の終わりにも関わらず永遠に存在する……。それは魂という呼び方しか出来ない何ものか……。

Unga

 そんな風に思った時期もある。そう思いたかったのだろう。
 この世への、あるいはあの世への憧れ。満たされない魂。叶えられない夢。果たされない願望。理解されない望み。誤解と曲解と無理解の泥沼。無慙にも奪われた命。生まれいずることもないままに闇から闇へ消え行った命。芽吹いたその日から岩の下で呻吟するだけの命。どうしてこの世はこうであって、このようではない風ではありえないのか。理不尽極まるじゃないか。

 だからこそ、心とか、魂とか、情念とか、怨念とか、幽霊とか、とにかくこの世ならぬ存在を希(こいねが)う。永遠の命。永遠の魂。穢れなき心。


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2008/02/09

DASEIN…そこにある

[気分は昨日と同じなので、やはり旧稿から。題名だけ変えました。]
Unga
 だだっ広い世界にポツンと一人、放り出されている。
 一人って、自分で言っているけど、自分が一人なのかさえも分からない。
 自分では自分の姿が見えないから。
 迷子になった心が疼いている、ただ、それだけのことなのかもしれない。
 誰かに触れたい。誰かに触れて欲しい。
 何の拘りもなく、ただ、触れ欲しい。触れてみたい。
 たった、それだけのことが、どうしようもなく難しい。

 誰のせいでもなく、私は、やはり、独り、闇の中でポツンと、いる。
 通り過ぎた電信柱に貼られたチラシ、それとも白い壁にペイントされた落書き。
ガード下の薄暗い壁の剥がれ切れないでいる広告。
 私は、そういったものほどにさえ、確かに生きているとは感じられない。

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2008/02/08

想いは消えない

 一体、この世に何が残るのだろうか。そもそも何か残したいのだろうか。
 あるいは残さないほうが潔い?

 この掛け替えのない自分。確かに自分というのは一人しかいないし、段々自分のことを気遣うのは自分しかこの世にないのだと、しみじみと感じてきている。
 だから、その意味で世間に迷惑を掛けないよう自分のことは自分で始末をつけたいとは思うけれど、さて、それも生きている間のことで、その後のことは、どう思えばいいのだろう。

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← 『Blue Myth』 (from 「La Moon」)

 ここで思うのは、一頃流行ったカオス理論でのバタフライ効果って奴である。
 まあ、正確さなど一切、度外視して説明すると、逐一の些細な差異が、継続して加算・加重されると、後に至っては非常に大きな違う結果に到る、という理屈である。

 で、敢えて卑近にも自分のことを思うなら、ここ、この世の片隅に一個の平凡なる人間がいる、それは極小の小宇宙に過ぎない。
 その取るに足りない人間のささやかな思いや願いや祈りや期待など、それこそ蝋燭の焔であって、気紛れな風の一吹きで掻き消されるような、存在自体があやうい、あれどもなきが如きものでもある。

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2008/01/26

三途の川と賽の河原と

 前回に引き続き、「さいたま川の博物館」での、「平成11年度第2回特別展「三途の川」」を道案内に、三途の川のこと、そしてできれば、賽の河原について幾分かでも学んでおきたい。

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← 陸信忠(りくしんちゅう)筆本『十王図』(絹本着色 各縦83.2 横47.0(cm) 中国・南宋時代) (画像は、「奈良国立博物館」より) 「人が死後に赴く冥土(めいど)には、亡者の罪業の審判者として閻羅王(えんらおう)(閻魔王)など十人の王が」いる。「十図はいずれも王が冥官たちを伴い、椅子に掛けて机に向かい罪状を調べており、前には裁きを受ける亡者や、あるいはすでに有罪とされた亡者が様々の刑罰を受ける様子などが獄卒の鬼たちと共に描かれる」。個人的には、「壺中水明庵」を舞台に風景画をテーマにブログ記事を綴っている小生、「なお王の背後の衝立(ついたて)にはどれも水墨山水図が描かれ、日本への水墨画導入にこれら画中画が一つの役割を果たしたと考えられる」という点が関心の的。「奈良国立博物館」に所蔵されるという「騎象奏楽図」を見てみたい。

 こんなことを学んでどうなるというのか、どんな意味があるのか、少なくとも小生にはさっぱり分からないのだが、何故か惹かれるものがあるので(そろそろ呼ばれている?)、ひたすらに好奇心に駆られるままに、かといって、あまりに深入りして、それでは、自分で訪ねてみようとばかりに、往って(逝って)還らぬ人にならぬよう、浅瀬を選び、できれば、三途の川の中に足を浸さないだけではなく、飛沫さえ浴びないように、用心を重ね、不摂生なる日頃の生活をほんの少しは慎みながら、まあ、表面的なこと、触りのところだけを、無論、差し障りに至らぬ程度に、触れてみよう。

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三途の川のこと

 あるサイトの掲示板で、千葉県には、三途の川という名の川があるという書き込みを見つけた。まさか、という気持ちと、でも、あっても可笑しくはないという気持ちとが相半ばしていたが、とりあえず、ネット検索。キーワードは、勿論、「千葉県 三途の川」である。
 すると、検索結果リストの筆頭に、「特別展点描  発見!「三途の川」」という表題のサイトが登場するではないか。

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→ 錦絵『三途川老婆』 (画像は、「特別展点描  発見!「三途の川」」より)

 その冒頭には、「さいたま川の博物館では、今年度第2回の特別展「日本人の他界観を探る-三途の川-」を開催しましす。」とある。
 続いて、「「三途の川」は、皆さんも知ってると思いますが、人が死んでからあの世に行くときに、必ず渡らなければならないとされた想像上の川です。しかし、特別展の開催を準備していた私は、ふと、「三途の川」という川は、実際にこの日本にあるのだろうかという素朴な疑問がわきました」とあるではないか。小生と同じような疑問を持たれる方がいらっしゃるわけだ。

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