2007/11/09

雪の関越道あわや遭難事件(7)

[以下は、「雪の関越道あわや遭難事件」のあった翌日の夜に書いた日記である。
 小生の記憶とは違う部分が結構ある。また、読み返して、ああ、そんなこともあったっけと思い出したことも。思えば随分、いろんな方に迷惑を掛け、あるいはお世話になっていたのだった。
 文中の太字部分はこれまで書いた回想レポート(ドキュメント)とは事実関係が違う部分、あるいは記憶に全くない部分である。
 今回は、予定では「雪の関越自動車道遭難未遂事件(7):これでエピローグにしたい!篇」をお送りするはずだった。
 が、つい先日、当時の手書きの日記が見つかったため、当該の日の日記を転記した文を「完結篇:これが全貌でした篇」に代わるものとして提供する。

0711055

→ 手書きの日記の冒頭部分。レポート用紙だと6枚に渡って書いているのだが、活字にするとこんなものなんだね。当人が大騒ぎしていても、終ってみたら呆気ないエピソードに過ぎないってことなのか。

 無論、その日の日記に「雪の関越道あわや遭難事件(7:完結篇)」なんて題名など付すはずもない!
 実際、ほとんどが(7)として、期せずして「これでエピローグにしたい!篇」に相応しい総集編的記述になっているとも思える。

 なお、思いつくままに思い出すままに熱に浮かされるようにして書いたものなので、文章的に変な部分もある。改行も原文のままである(まさに日記なので改行などする必要もない。というか、正直なところ、改行するもなにも、溢れ出る言葉を書き記すのに懸命だったのだ)。読みづらいことは重々承知の上で、できるだけ原文の雰囲気を残すためもあって、改行その他も読み手への配慮を欠いたままにアップする。

 事情をご理解願い、寛恕を請うものである。
 翌日の31日には、何ゆえこんな暴挙に走ったかや、こうして命からがらの旅から生還し(ちょっと大袈裟?)、自分の限界や愚かしさに否応なく向き合ったが故に心が剥き出しになり、恋話など赤裸々に延々と書き連ねている。
 個人的には懐かしいが、野暮になるので手書きの日記のまま闇に埋めておく。 (転記の日に記す)]

続きを読む "雪の関越道あわや遭難事件(7)"

| | コメント (7) | トラックバック (0)

2007/11/05

雪の関越自動車道遭難未遂事件(6)

雪の関越自動車道遭難未遂事件(6):番外篇:捜していた日記が見つかりました篇
ノリック追悼記念レポート:「雪の関越自動車道遭難未遂事件(5):高速道路のほうがましでした篇」より続く)

 今回は、「これでエピローグにしたい!篇」をアップしてこの回想ドキュメント(レポート)は終わりにするつもりだったが、予想外の事態が発生し、急遽「番外篇」を提供する。
 一つ報告がある。
 ある意味、嬉しい発見があった。
 なんと、この「雪の関越道であわや遭難事件」当時の日記が見つかったのである!

0711055

← 見つかった日記の冒頭付近。文字の乱れは線路の軋みでも愛の迷いでもなく、もともと乱筆(乱文)なのである!

 小生は手書きの日記を15歳の頃より今日に至るまで書いてきたのだが、二十歳までの日記は焼却してこの世にはない。
 が、それ以降の日記は多分、捨てていないので家の何処かしらにあるはず。だが、数ヶ月ごとにファイルに挟んだりビニールの袋に突っ込んで、溜まると他の古い書籍類などとともにダンボール箱に詰め込み田舎に送ったり(多分、納屋行き!)我が部屋の何処かダンボール箱の山の中に埋れていく。
 当然ながら91年頃の日記類など、古いからとっくの昔に田舎行きの憂き目に遭っているものと思い込んでいた。

続きを読む "雪の関越自動車道遭難未遂事件(6)"

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2007/10/31

雪の関越自動車道遭難未遂事件(5)

雪の関越自動車道遭難未遂事件(5):高速道路のほうがましでした篇
ノリック追悼記念レポート:「雪の関越自動車道遭難未遂事件(4):料金所通過が難関でした篇」より続く)

 ああ、やっと、一般道だ。きっと、GSもあるに違いない。宿もあるだろう。炬燵に入れる。飯も食える。
  けれど、そんな期待がいかに甘いかをまたまた嫌というほど思い知らされることになるのだった。

2005_12270022

→ 05年末、郷里にて。

 やっとのことで料金所を通過したはいいが、そこから一般道へは緩やかにカーブしており、さらに普段だと下りだとは分からないようなスロープ状になっている。
 怖い! 下りだと動かすのは楽だけれど、一旦、動き始めると今度は止まらない!
 ブレーキを下手に掛けられないので、可能な限りゆるゆる降りようとする。
 とにかく、下りは凍結した路面だし、怖い!

 幸い、同じ塩沢・石打の料金所で降りる車が少なかった。確か、一台だけ、脇を通り越して行ったように思う。路肩の街灯が降り頻る雪の路面や積もった雪をオレンジ色に染めている。
 水銀灯ではない、オレンジの暖かな光。
 でも、自分の心や体を温めてくれるわけでは、一向にない。

[ここで、「舞子ライブカメラ」を見てみよう。小生がやっとの思いで高速道路を脱出した関越自動車道の塩沢石打I.C直近の交差点の様子をライブカメラで眺めることができる。できれば、画面をクリックするといい。この交差点に辿り着いた時は、きっと間もなくGSかオートバイの店が見つかるものと思っていた…宿だって見つかる…飯にありつける…炬燵に体ごと突っ込める…眠れる…そう思っていたのだが…。]

続きを読む "雪の関越自動車道遭難未遂事件(5)"

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007/10/27

雪の関越自動車道遭難未遂事件(4)

雪の関越自動車道遭難未遂事件(4):料金所通過が難関でした篇
ノリック追悼記念レポート:「雪の関越自動車道遭難未遂事件(3):仙台でバイクと越冬篇」より続く)

 さて、話を戻そう。
 ワイヤー錠の威力は自分でも驚くほどのものだった。
 ワイヤー錠のお蔭で、一キロでの転倒は数回程度に減った。
 次のインターチェンジで降りるまでの十数キロの間での転倒も、今までの何キロかの間の転倒回数の数百回よりは減ること、請け合いである!

2007_1026071003tonai00122

← 「雪の関越自動車道遭難未遂事件」のあった翌年、つまり92年に色鉛筆で描いたもの。絵を描くことを試みたのは、子供の頃以来ではなかろうか。91年の年末のことが時折、悪夢のように脳裏に浮んでいた頃、気持ちを落ち着かせるため、ありあわせの色鉛筆でスケッチブックに、何かの写真を見ながら描いたのだった。 ← 大間違いだった。手元の絵をよく観たら、描いた日は72年の秋口となっていた! つまり、小生が大学に入学した年である。お詫びして訂正します。

 あまりに単調な時間が過ぎていていく。でも、濃密な時の連なり。
 雪は止む気配がない。
 前年に買った防寒具の性能がよかったのか、ヘルメットの下に目出し帽を被っているせいか、防寒着の上にさらに薄いビニールの合羽を羽織っている御蔭なのか、それとも下手すると五百回に達しようという転倒・引き起こしという作業の故なのか、体は寒いどころか、カッカしている。
 火照っていると言って過言ではない。

続きを読む "雪の関越自動車道遭難未遂事件(4)"

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2007/10/24

雪の関越自動車道遭難未遂事件(3)

雪の関越自動車道遭難未遂事件(3):仙台でバイクと越冬篇
ノリック追悼記念レポート:「雪の関越自動車道遭難未遂事件(2:高速道路の真ん中にも側溝がありました篇)」より続く)

 そんな時だった。ふと、閃いたことがあった。
 紐はもうない!
 みんな使って切れ果ててしまった。
 でも、ワイヤーチェーンがあったことを思い出した。

Mc770302031

← 「ホンダ ベンリイ CB125T-I」(但し、小生が乗ったのはこれより前の世代の「ホンダベンリイCB125T」だった。残念ながら我が愛車と同じタイプのバイクの画像は見つからなかった。詳しくは後記する。画像は、「Hondaホームページ 本田技研工業株式会社」より)

 ワイヤーチェーンといっても、雪道走行用のタイヤに巻くチェーンではなく、盗難防止のためのワイヤーロックである。
 そう、ワイヤー錠(ワイヤーロック)である。しかも、装備重量が300キロに達しようという大型バイク用の、がっちりした、1メートル余りのワイヤーロックなのだ。
 それが標準装備されていたのである!

続きを読む "雪の関越自動車道遭難未遂事件(3)"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/10/20

雪の関越自動車道遭難未遂事件(2)

雪の関越自動車道遭難未遂事件(2):高速道路の真ん中にも側溝がありました篇
ノリック追悼記念レポート:本稿は、「雪の関越自動車道遭難未遂事件(1):希望的楽観も度が過ぎます!篇」より続く)

Sdsc007091

← 掲げた写真は、04年7月25日、スクーターを駆り中央高速を使っての帰京途上、某SAの施設で小生が偶然、目にし、撮った燕の巣。燕の子供たちへ親燕が懸命に餌を運んでいた(「鳥雲に入る」参照)。

 その場を取り仕切る係員のような人が居たが、何を相談する知恵も浮ばない。

 間もなく、タイヤはボウズのままに、つまりノーマルタイヤそのままに、チェーン装着場をそろそろと…恐々と抜け出し、本線へ参入。
 そう、戦線復帰。

 だが、戦意はまるでなかった。
 戦意喪失していた。
 でも、走るしかない。誰も助けては呉れない。

 雪は止む気配がまるでない。少なくともその日一杯は降り続けるに違いない。
 雪国育ちの経験からして、止みそうにない空模様だと、痛いほど分かるのである。

続きを読む "雪の関越自動車道遭難未遂事件(2)"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/10/14

雪の関越自動車道遭難未遂事件(1)

雪の関越自動車道遭難未遂事件(1):希望的楽観も度が過ぎます!篇
(本稿は、「ノリック追悼記念レポート:雪の関越自動車道遭難未遂事件(序)」より続く)

 確か91年だったと思う。
(「趣味 オートバイ」にバイク乗りとしての大雑把な履歴を書いている。参照するも良し。)

Toyamaumi

← ありし日の富山の海。電車であるいはオートバイで帰省する折、富山の海を見ると、ホッとする。帰ってきたという感覚が胸の底から湧いてくる。なんて透明度の高い海だろう!

 当該部分を転記する(太字部分に注目):

1991年8月 7代目のオートバイ入手   パシフィックコーストPC800本田技研工業株式会社
ツーリングに行かなくなり荷物を積めるという利便性に走る。入手したその日は8 月5日。つまり本田総一郎氏の逝去の日。それ故か8年以上乗った。91年の12 月29日に東京から富山へ関越自動車道を走った。関越トンネルを抜けるとそこは雪国だった。あやうく関越自動車道で遭難しかけた。深い雪の中を数十キロも転んでは起こしを百回以上も繰り返してやっと塩沢・石打ICを降りた時、命のありがたみを知った。そのICを降りるだけに一時間以上を費やしたものである。その夜、やっと見つけた宿で凍て切った心身を炬燵で一晩中癒し続けたけれど、体の震えは止まらなかった。さすがにバイクはオートバイの店に置かせてもらい、列車で帰省。春3月になって引き取りに出向いた

 91年の12 月29日は、東京は快晴だった。だけど、やたらと寒かった。

続きを読む "雪の関越自動車道遭難未遂事件(1)"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/10/12

雪の関越自動車道遭難未遂事件(序)

ノリックが交通事故死、トラックと衝突」(モータースポーツニュース nikkansports.com)といったニュースがあったのはつい最近のこと。

Kanetu

← 列車で、時にオートバイで眺めた雪原の関越道。<事件>のあった日は降る雪も激しく…。

 一部、転記させてもらう:

 7日午後6時20分ごろ、神奈川県川崎市の市道で、2輪ロードレースの人気ライダー、阿部典史(のりふみ)さんが乗ったバイクがトラックと衝突、阿部さんは病院に運ばれたが間もなく死亡した。32歳だった。93年に全日本ロードレースにデビューすると、いきなり史上最年少の18歳で総合優勝を達成。世界選手権(WGP)でも通算3勝を挙げるなど「ノリック」の愛称でファンに愛され、日本に2輪ブームを再来させた立役者だった。
 世界を舞台に活躍したライダーが非業の死を遂げた。川崎署によると、阿部さんは同市川崎区大島1丁目の片側2車線の市道の右車線をスクーター型の500CCバイクで北上中、前方の左車線からUターンしようとした4トントラックを避けようとしたが、衝突して対向車線に放り出された。当初は意識があったものの、午後8時52分、搬送された市内の病院で死亡が確認された。阿部さんは胸を強打し、ろっ骨骨折や臓器の損傷などもみられたもようだ。

 阿部典史さんの事故に付いてはひたすら痛ましく思うばかりである。

続きを読む "雪の関越自動車道遭難未遂事件(序)"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007/03/10

三宅島で公道レースだって?!

 一昨年だったか、三宅島で公道レースを行なうという構想があると、ラジオで聴いた。またしても、石原都知事の発案のようだった。
 この話題は、オートバイレース好き、イベント好き、都政ウオッチャーの間を即座に駆け巡ったようだ。
 発表当時、マスコミを賑わし、いろんな方がいろんな意見を、あるいは期待を持たれていた。
 例えば、「“村おこし”三宅島の公道オートバイレース:中島:コラム:スポーツ報知」という昨年六月の記事が今も読める。

750f_p31

← 88年から91年まで乗っていた「CBR750F スーパーエアロ

 冒頭に、「東京都の石原慎太郎知事が、三宅島でオートバイレースを来年にも開催したいと話している。噴火の“後遺症”で観光客誘致もままならず、復興に苦しんでいる島に、何とか活気を取り戻したいとの考えからのようだ。」とあり、さらに続けて、「この考えは思いつきではないようで、(石原都知事は)公道を使ったオートバイレースとして最も長い伝統を持つマン島TTレースを、三宅村の平野祐康村長らと共に5月29日に視察している。マン島TTは5月から6月にかけて2週間がレースウイークとなっていて、昨年は狂牛病騒ぎで中止になったが、今年は2年ぶりの開催で大賑わいだ。」とある(カッコ内は小生が補った)。

 マン島TTレースについては、この頁に大よそのことが書いてある(文末サイト参照)。


続きを読む "三宅島で公道レースだって?!"

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2006/12/11

オートバイ我が唯一のパートナー

 小生は今年、辛い別れを経験した。
 といっても、人との別れ、ではない。
 オートバイとの別れ。
 おおよその経緯は、「馬橋パレード…オートバイとの別れ」にメモしておいた。
 まさに、メモ書きに終わっている。
 たまたま、上掲の記事を書いた日、つまり、8月19日は、819ということでバイクの日なのである。
 その日に合わせたわけではないのだが、偶然、8月19日にバイクを手放したのだった。

Silverwing_20501201

→ 「ホンダ シルバーウイング<600>」。我が最後のバイクは、このスクーターだった。

 その記事から、一部だけ転記する:

 小生がバイクの免許を取ったのは、1974年の夏。学生生活を送っていた仙台でのこと。当時、宮城県では(多分、全国共通だろうが)オートバイの免許は小型・中型・大型に分けられていて、小生はまずは小型に挑戦した。
 イタズラでも乗ったことの無い小生、少々苦労はしたが晴れて免許を取得。
 即座に中古の125ccバイクを買った。半年後の冬、大型に挑戦、一発合格!
 以来、上京した78年の春から81年の春までの3年間の中断を覗くと、ずっとバイクと生活を共にしてきた。共に歩いてくれる人生のパートナーには一度も巡り合えなかっただけに、オートバイは小生の人生のパートナーといって過言ではない。
 ずっと苦楽を共にしてきたのだ。
 免許を取って今年で32年。乗った期間は29年間だ。

 ということで、表題は、「オートバイ我が唯一のパートナー」としたが、実際は、「オートバイ我が唯一の人生のパートナーだった」ということになる。
 読み返してみたら、一部、間違いのあることに気づいた。

続きを読む "オートバイ我が唯一のパートナー"

| | コメント (0) | トラックバック (1)