2017/02/21

ジョージ・エリオット『ダニエル・デロンダ』読了

 今日、プール通い再開3回目。初日の倍を泳いだ。といっても、25メートルを6往復。まだまだアイドリングです。泳いだ後の抹茶カフェが美味しい。

51il2rqyjl__sx230__2

← ジョージエリオット 作『ダニエル・デロンダ〈3〉』(淀川 郁子訳 松籟社)

 未だに日本は単一民族国家だという幻想に囚われている人が多い。夢見るのは勝手だけど、アジアの中で極東の島国だって位置を忘れちゃいけない。北方系、南方系、大陸や半島系など(さらにはインドや中東など)の寄せ集め国家だという厳然たる事実は遺伝子研究からも動かないのだ。:
記者会見「日本列島3人類集団の遺伝的近縁性」 東京大学
崎谷 満著『DNAでたどる日本人10万年の旅』!
「日本人になった祖先たち」の周辺

続きを読む "ジョージ・エリオット『ダニエル・デロンダ』読了"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/02/11

『ダニエル・デロンダ』いよいよ佳境へ

 今年は酉年。なので、大好きな鳥の唐揚げや焼き鳥などは食べないできた。けど、昨日(水曜日)、とうとう食べちったい! コンビニのカウンターで、つい手が出てしまった。

516dkwbdc2l__sx344_bo1204203200_

← ジョージ・エリオット (著)『ダニエル・デロンダ〈2〉』(淀川 郁子 (翻訳)  松籟社)

 今夜から明日にかけて、北陸も降雪の予想が出ている。今回の寒波は、西日本がメインだが、東北や北陸も影響は避けがたいよう。
 またまた雪との戦いが始まるわけだ。これが最後の戦いならいいのだが。

 さて、本日、ジョージ・エリオット著の『ダニエル・デロンダ〈2〉』を読了した。

続きを読む "『ダニエル・デロンダ』いよいよ佳境へ"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/01/31

エリオットワールドに微生物ワールド

 我が家は築60年以上の農家風な建物。広い座敷や仏間、応接間(いずれも畳部屋)が襖を取ると、広い空間になるように設計されている。昔は、家で葬儀などの法事を行ったのだろう。ただ、その分、柱が少ない。瓦屋根の重みで家が撓みつつある。襖が開かない(開けたら締まらない)。建替えは当面無理。

9784879841278

← ジョージ・エリオット 著『ダニエル・デロンダ1』 (淀川郁子 訳  松籟社) 日曜日の夕方、読了。

 開け閉めにそんなに苦労するなら、襖や障子戸を外すという手もある。
 ただ、戸を外すのはいいけど、戸がある意味、柱代わりの機能を多少なりとも担っていたこともあるので、一旦、戸を外したなら、猶更、撓みの症状の悪化が促進されそう。何とか早く、柱をはめ込まないとって、内心、焦っています。

続きを読む "エリオットワールドに微生物ワールド"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017/01/27

「蒲原」ならぬ茅屋の窓から世界を想う

Dsc_0392

→ 与謝蕪村の有名な《夜色楼台図》をチラッと連想したっけ。夕景と朝の景色との違いはあるけど、雪が深く積もると、昼間でも人の通りが少ないし、逆に夜でも雪明りが世界をぼんやり明るくさせてくれるので、時間の感覚が曖昧になる…だから夜とか昼とかも意味がなくなってしまうような。 そうそう、広重の「蒲原」の絵も好きなのです。

 今日(木曜日)は朝から快晴。青空、久しぶりに見るような。雪もいいけど、やはり、青空には敵わないね。
 消雪装置のある道路などは雪はかなり消えているけど、田畑の雪は残っている。
 真っ青な空の下、広がる雪野原。これが吾輩の原風景なのかな:「真冬の明け初めの小さな旅
 今は、かなりマンションやビルもできて、風景は一変してきたけどね。

続きを読む "「蒲原」ならぬ茅屋の窓から世界を想う"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016/11/28

『十五少年漂流記』から『蠅の王』へ

 ウィリアム・ゴールディング 作の『蠅の王』は、かねてより、名作の誉れ高く、名前だけはしばしば耳(目)にしてきたが、長く放置してきた。

5126nf2whrl__sx230_

← ウィリアム・ゴールディング 著『蠅の王』 (新潮文庫) 「大人のいない少年だけの島。そこは楽園か、それとも地獄か。無垢な精神に潜む、残虐性の本質を描くイギリス文学の問題作」だとか。

 正直、まず題名でずっと敬遠してきたのは事実。ネタバレになるから書かないが、なるほど、そうだったのかという驚き。内容は、少なくとも導入部や全体の構造は、原因不明の事故によって15人の少年を乗せた船が見知らぬ土地に流れ着いてしまう、といったジュール・ヴェルヌ作の有名な『十五少年漂流記』を思わせる。読んだ人も多いだろうが、大概は子供向けにアレンジされた内容で記憶しているのではなかろうか。

続きを読む "『十五少年漂流記』から『蠅の王』へ"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016/10/20

民俗学のテーマは、山奥の村にだけ転がっているのではない!

 数日前、予約した本を引き取りに行った。ついでだからと、店内を物色していて、「雨の自然誌」と共に衝動買い。民俗(学)関連の本は好きで折々読む。柳田や宮本などなど。筆者は高知の方で、海も近ければ山も近く、峠道のような場所や由緒あるお寺にも恵まれている。

9784309226743

← 常光 徹 著『折々の民俗学』(河出書房新社) 「民俗学のテーマは、山奥の村にだけ転がっているのではない。街場の日々の話題も丁寧に採集した、四季折々の暮らしの民俗学。「高知新聞」好評連載完結。貴重な「真覚寺日記」の紹介も」といった本。

 子供の頃は、一層、自然が豊かだったようだ。翻って、我が富山市(の中心街から遠からぬ場所)はどうだろう。田圃は疎らになり、畑も少なく、屋敷林も昔ほどにはない。あっても、ブロック塀に囲まれていて、中がうかがい知れない。塀の上から首を出している樹木に雰囲気を想像するだけ。

 富山は、富山駅を中心に、路面電車を走る界隈を中心にコンパクトシティを標榜している。富山駅を降りた路面電車に沿って、ビルやマンションが商店、飲食街が立ち並び、並木道も幾筋も交差していて、遊覧船までがあって、賑わうかのような町作りが進められている。観光客らの評判は、綺麗な町ね! というものが多い。

 綺麗と言われて困ることはないが、ある意味、中身が薄いということを言外に含んでいるようで、なにか忸怩たるものを覚える。これだけ、中心街を都会風に作りたてても、付け焼刃であって、夕方のラッシュアワーが過ぎると、一気に寂れた感が漂ってくる。町一番の繁華街の(はずの)商店街ですら、夜の九時を過ぎると、歩いている人は疎らになる。

 人影が少ないと、尚のこと、賑わいを求める人は来なくなる。富山市の進めているコンパクトシティ政策は、要するに、日本で進む東京一極集中を、まさに富山という地方で、富山駅周辺への一極集中というまさにコンパクト版を行っているに過ぎないと思う。

1476858974700

→ 知り合いが、立山の称名滝へ。落差は日本一。十年以上前、自分も父母らと一緒にバス旅行の形で行ったけど、雨でボヤーとしか見えなかっただけに、うらやましい。

 富山県(や富山市)の人口を富山の中心街に集める一方、郊外の人口密度は一層、低くなっていく。山が自慢の富山なのに、里山はどうするんだ、駅から駅周辺や観光地を見る人に、薄っぺらな町作りを見せている一方で、山間地に取り残された人々は、一層、車だけが頼りの、孤立した寒村が増えていく一方ではないか。

 しかも、富山市ですら、人口が減る一方なのだ。

 ちょっと本書の中身から離れてしまった。ただ、本書のテーマでもある、「民俗学のテーマは、山奥の村にだけ転がっているのではない」という言葉に過剰に反応しただけである。

 富山市の中心街は、坂もなく、樹木でいっぱいの公園もなく(街路樹はあるけど)、由緒ある神社仏閣も乏しい。地元の人間は、車でちょっと走れば、山間部などへ行けるし、いやっというほど、森も林も田圃もある、ということだろうが、駅の周辺に森がないのは、町の印象を平板なものにする。

 平板な印象とは、物語性やドラマ性が乏しいということである。何処かの街角を曲がった途端、意外性のある区域に遭遇するとか、坂道を歩くとブラインドコーナーの先に思いがけない、想像力を掻き立てる館や瀟洒なマンションへの門に行合うとか、池があるとか、そんな陰影が乏しいのである。

1476858967124

← もっと近くで称名滝(しょうみょうだき)を! 「称名滝|観光スポット|とやま観光ナビ」など参照のこと。落差日本一なのに、それほど有名でないのは、信仰の対象でもあるので、これまであまり宣伝に力を入れてこなかったから。

 陰影とは、その一角に何かの昔話が残ってるとか、歴史的ドラマとの関わりがあるとか、何か得体のしれない世界があるような気がするとか、何かしらのドラマ性だと思う。考えてみると、富山市の中心部は、空襲でほぼ全焼、全滅し、戦後、やっとのことで復興したもの。なので、戦争で過去と断ち切られてしまった。我が家もだが、戦争直後、一旦、更地になってしまって、戦前との繋がりが見えなくなってしまった、この事実が重いのかもしれない。

 関係者もだが、市民らも、賑わいを取り戻そう、創出しようとあれこれと工夫し、努力している。観光の目玉を作ろうと、それはそれは頑張っている。面白い町になるよう、自分だって何かしら協力したいと思う。アスファルトやコンクリートで直下の地面とは(田圃や畑を除くと)繋がりが持てないでいる。江戸時代とは言わないまでも、戦前までの祖先が歩いただろう地面にさえ、立つことができない。あったかもしれない(山間のほうには残っていたようだが)昔話の世界とは、どうやって繋がりを持てばいいのか。

 ちなみに、駅から車で十数分のところに、小説の舞台にもなった、雰囲気の在りそうな坂道の続く一角があるのだが……:「無言坂…早く昔になればいい
 富山大空襲については:「富山大空襲と松川 – 富山観光の定番・松川遊覧船へようこそ!!(富山観光遊覧船株式会社)」など。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016/10/03

ジョイスとプルーストと

 ジェイムズ・ジョイス著の『ユリシーズ』、全四巻をようやく読了した。出来る限り、注釈も参照しつつなので、分量的にはかなりのもの。二か月を要したかもしれない。

51409baegel__sx230_

← ジェイムズ・ジョイス著『ユリシーズ〈4〉』 (集英社文庫ヘリテージシリーズ)

 本書を読んで感じたこと、というより考えさせられたことは、小説とは何かだった。
 読了して考えさせられたのではなく、 読み進めつつ常にそうした問いが投げかけられているようだった。
 ひたすら言葉遊びの連続であり、古今の古典や名作に限らず、ありとあらゆる作品が場面との同時進行で参照されつつ、神聖から卑猥や猥雑まで、多くはあまりに日常的な単調さ、退屈さがこれでもかと描かれる。

 ジョイスが目指したのは何なのか。過去の文学や宗教や哲学、伝統、つまりは既成の価値観の転倒、だが、転倒しつつも、嘲笑や冷笑で高笑いするのではなく、徹底して日常の深浅を描きつつ、日常の一回性を、そっくりそのままに切り取って指し示すことだったのかもしれない。

 近代の小説の描こうとするものは何か。それは、過去のどんな作品でも描かれたことのない、その作者でなければ決して描けない世界。
 だとしたら、他人には決して描けないだろう、確実に新奇なる世界とは、まさに作者が見聞きしている日常そのものを、徹底してありのままに描くことだろう。

 いわゆる、小説として従来求められてきたストーリーもプロットもまるで頓着せず、ただ、どんなに平凡でありきたりに思えようと、日常のある断面を全知全能を傾けて掴み取り描きつくし指示して見せる。

 聖も性も高踏も低俗も、緊張も弛緩も、間延びも喧噪も、何もかもが同時並行して存在するのが日常なのであり、ジョイスにとっての文学は、その一回限りの日常をありのままに描きつくすことなのではないか、そんなことを感じたりした。

 小生は、五年ほど前から岩波から翻訳が出つつある、吉川訳のプルースト『失われた時を求めて』を読んできている。最新刊も出たばかりで、既に予約済みである。
 こちらのほうは、まるでジョイスとは違って、プロットもあればストーリーもあるし、その都度の場面をフォローするのは容易だし、場面を脳裏に鮮明に描ける。

 けれど、ある意味、ジョイスとプルーストは同じことをやっているようにも感じられた。
 現にあることをそのままに描き切ること、そのことである。

Yosikawa

← プルースト【作】『失われた時を求めて〈10〉囚われの女〈1〉』(吉川 一義【訳】 岩波文庫)

 方や、腕力と風刺と諧謔の精神とで、言葉の可能性の限りを尽くして、現実をミキサーにかけて、混沌の坩堝に放り込んだとすれば、片や、繊細の精神の限りを尽くして、ビロードのような微細な言葉の映像に現実を移行させていく。
 言葉という道具を使って、表現の可能性をとことん極めた、そんなふうにまとめてしまうと、なんだつまらない結論だことと、嗤われそうだが、しかし、ジョイスとプルーストとの二人で、文学の極北を渉猟してしまったのだとは言えそうな気がする。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016/08/12

『橘曙覧全歌集』を詠む

 昨年、失敗したスイカは、今年はほぼ大成功。なかなかの収穫を見た。
 一方、同じく昨年失敗したトウモロコシだが、今年も大失敗に終わった。昨年は、収穫寸前に鳥に啄まれて収穫なし。

1024pxfukui_city_akemi_tachibana_li

→ 「橘曙覧記念文学館」 福井県福井市の愛宕坂の旧居「黄金舎」跡に作られた顕彰施設。 「橘曙覧 - Wikipedia」参照。

 なので、今年は、ネットを被せるなど、鳥対策は万全。だが、失敗とはこれ如何。
 実は、収穫が遅きに失したのである。ネット取り払ってトウモロコシの実の生り具合をみたら、なんだか悪い予感。トウモロコシの実は、茶褐色に変色し、しかも、パサパサに乾いている。
 いざ、手に取って、茶褐色の皮を剥いて中を見たら、中の実は干からびて、それこそ悲惨な状態に。
 トウモロコシの収穫の時期を見誤ったと言うしかない。
 ネットがかぶさっているし、畑の一番奥にトウモロコシ畑を設けたことで、小生の監視の目を逃れてしまったのだ。
 ああ、情けなや!
 
 キュウイの実も、既にたっぷり生っているので、これだけは収穫の時期を見誤ることはしたくない。

続きを読む "『橘曙覧全歌集』を詠む"

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2016/06/10

『日影丈吉 幻影の城館』と昭和前半の世相

 自宅では、D・P・シュレーバー 著の『シュレーバー回想録』 (尾川/金関訳 中公クラシックス)を読んでいる。

9784309414522

← 日影丈吉 著『日影丈吉 幻影の城館』(河出文庫)

 最初に平凡社から単行本で出た際に、刺激的な内容だと感じ、即座に買って読んだもの。

 その本は引っ越しのドサクサに手放してしまったのだが、このたび、復刊となったので、今、読み返しつつある。
 ただ、あまりに重い内容の本なので、息が詰まってくる。自分が正常だということを証明するなんて不可能だろうし、といっても、自分の乏しい知性や常識で何事も判断するしかないとしたら、一体、出口は何処にあるのかという気になってしまう。

続きを読む "『日影丈吉 幻影の城館』と昭和前半の世相"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016/04/26

コンプレックスの塊こそが人間

「女性が小説を書こうと思うなら、お金と自分一人の部屋を持たねばならない」。そのこころは、経済的自立と精神的独立(プライバシーの確保)が、女性が自律的に創作活動をするうえで不可欠だということ。だが、本書では、ウルフは、女性が男性に対抗したり反発したり敵対するのではなく、男女が共に、自分の性を意識することなく、書きたいテーマに正面から向き合うことが大切だと説いている。

201163

← ヴァージニア・ウルフ 著『自分ひとりの部屋』(片山 亜紀 訳 平凡社ライブラリー)

 本書は、「女性と小説」に関する著者の講演内容をエッセイとして纏めたもので、多くの文学関係女性にとってバイブルとされている名著らしいが、小生は全く初耳の書だった。
 読むほどに真っ当な主張だと感じる。
 今日(月曜日)にも読了しそう。

続きを読む "コンプレックスの塊こそが人間"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧