月影に謎の女
父の遺品の一つにカメラがある。スーツも何も高級品志向の父、きっと高かったはず。故障して買い換えだと言っているうちに倒れた。我輩は、安物志向。デジカメのみ。それも、レンズにカビ生えて放置。その後は、携帯そしてスマホのカメラ機能で間に合わせている。
ああ、夜、月影を愛でられる部屋に住みたい。月影を追いながら眠りに就く。月影を目に焼き付けて想念を玩ぶ。ホームページやブログにどれほどエッセイや掌編を書いたことか。何処かしなびた温泉宿で一筆……は夢か。
父の遺品の一つにカメラがある。スーツも何も高級品志向の父、きっと高かったはず。故障して買い換えだと言っているうちに倒れた。我輩は、安物志向。デジカメのみ。それも、レンズにカビ生えて放置。その後は、携帯そしてスマホのカメラ機能で間に合わせている。
ああ、夜、月影を愛でられる部屋に住みたい。月影を追いながら眠りに就く。月影を目に焼き付けて想念を玩ぶ。ホームページやブログにどれほどエッセイや掌編を書いたことか。何処かしなびた温泉宿で一筆……は夢か。
→ 小林たかゆき作「題名不詳」 (画像は、「小林たかゆき お絵かきチャンピオン」より)
「赤いシーラカンス」
不思議の海を泳いでいた。粘るような、後ろ髪を引かれるような海中にもう馴染み切っていた。
髪を掴まれて、何処へでも流れていったって構わないはずだ。
なのに、妙な意地っ張りな心が前へ、前へ進もうとする。
緑藻の長い腕が、ビロードの肌で絡みついてくる。紅藻が乳糜を沁み出して呑んでいきなさいよって、誘っている。
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→ アンフォルメルの画家ジャン・フォートリエの「人質の頭部」 (画像は、「ジャン・フォートリエの「人質の頭部」:Autoportrait:So-netブログ」より)
何だか知れない闇の圧力に圧し掛かられて、顔が心が歪んでしまっている人がいる。闇の中の手は、その人の親の姿をしているのかもしれないし、もっと形の抽象的な、表現に窮するような何かの形をしているかもしれない。
あまりに早く生きる上での重石を感じ、打ちひしがれてしまった人は、気力と胆力があれば、人生そのものに反抗するかもしれない。あるいは自尊心の高すぎる人なら、人生を拒否するかもしれない。生きることを忌避するのだ。
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一人きりの空間。くしゃみでもしない限り、無音の世界。静か過ぎて時計の秒針の音ばかりが心に障る。
もっと耳を澄ませると、蛍光灯スタンドの灯りの源から、微細な振動音が聞こえるような気がする。気のせいなのかもしれない。でも、一旦、響いてくると感じてしまうと、そう思えてならないのである。
心とも触れ合えず、肌とも疎遠になり、心臓の鼓動ばかりが友の囁きである。
机の上のスタンドの灯りは、何も語らず、ただ空虚な心を露わにする。
そんな時、十数年も以前に書いた音を巡る夢想風なエッセイを思い出してしまう。
何も変わってはいない自分。少しも心を豊かにすることなく、ただ眼も耳も肌も嗅覚も衰えていることを思い知るのだ。
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← 富山市の中心部にある桜橋。歩いて、あるいは車で何度も渡るこの橋が、国指定文化財だと、今日、初めて知った。鋼アーチ橋。
拙稿(「馬橋パレード…オートバイとの別れ」参照)にも書いたように、もう十年近く前、バイクは降りたつもりだったのが、突然のライダー復活。
いろいろ事情や思いがあるが、今日は、初めてオートバイでのロングツーリングの思い出の一場面をつづった文章を再掲する。もう、40年以上も昔の話である。
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昨日は風邪で急遽、仕事を休むことに。朝六時前に会社に電話。
症状は前夜来の喉の痛み、咳、鼻水。前夜来というより、14日の金曜日、すでに喉が痛くなり、折々、クシャミ(咳)が出ていた。土曜日一日、静養していたら治るかと思ったが、つい、土曜日の夕方、外仕事したのがまずかったか、症状が悪化してしまった。
← 『日本の渡来文化 座談会』(司馬遼太郎/上田正昭/金達寿 編 中公文庫) 「文化の伝播には人間の交渉がある。朝鮮半島からいくたびも渡来してきた人々の実存を確かめ、そのいぶきにふれることにより渡来文化の重みを考える」とか。かなり前の本だが、今もって読むに値する。日本という国が成り立つうえで、如何に大陸、特に朝鮮半島からの渡来人の恩恵と影響を受けてきたかを物語る。特に日本という国家の成立には、百済の滅亡と、百済からの渡来人の力が預かって大きかったかを感じる。
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エロティシズムへの欲望は、死をも渇望するほどに、それとも絶望をこそ焦がれるほどに人間の度量を圧倒する凄まじさを持つ。快楽を追っているはずなのに、また、快楽の園は目の前にある、それどころか己は既に悦楽の園にドップリと浸っているはずなのに、禁断の木の実ははるかに遠いことを思い知らされる。
← ジョルジュ・バタイユ著『宗教の理論』(湯浅博雄訳、ちくま学芸文庫)
快楽を切望し、性に、水に餓えている。すると、目の前の太平洋より巨大な悦楽の園という海の水が打ち寄せている。手を伸ばせば届く、足を一歩、踏み出せば波打ち際くらいには辿り着ける。
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この頃、コインランドリー通いが定番になってきた。洗濯は家でやって、ドライをコインランドリーで。冬になると、やることが増えて面倒だな。仕方ないけど。
パソコンのサポート店に行ってきた。フェイスブックやツイッターのアカウントが乗っ取られたか、侵入されているという警告があったので。専門家に対処してもらって、一安心です。
博物館へ行こうと思っていたけど、雨、霰がちょっと振り出してきたのであきらめた(自転車で行くつもりだたので)。ところが、諦めてPCサポート店へ車で行った。すると、青空が! クソ、天気に騙された。
車で外出する機会があったので、昨日、衝動買いした村田英雄のCDを聴けたよ。やはり、あんな歌手は不世出だなー。
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本年は酉年。なので、鳥に敬意を示すため、好きな鶏のから揚げや焼き鳥など、食べるの控えている。これで二週間、我慢してきたけど、そろそろ限界かもしれない。明日は、どうなる!
← 「また来ん春… 」(中原 中也【詩】・清宮 質文【画】 玲風書房 2002年)
実は冒頭の呟きのあと、夕方、ローソンへ行ってきた。買ったのは、夕食用にラーメンにたこ焼き。明朝用にサケ弁当。レジ近くの陳列には目を背けて、逃げるように帰って来た。誘惑、多いですね。
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いよいよ十一月。霜月とはよく言ったものだ。
← 縁側の廊下。外は築山風の内庭。廊下は、今は掃除して綺麗だが、風が強いと葉っぱが舞い込むことも。鳥の糞はしばしば!
家の中は寒い。部屋が幾つもあるし、築60年以上なので、家の中にも外の風が吹き過ぎていくような始末。縁側の廊下には、風の強い日の翌日など、葉っぱが落ちていることも。それどころか、なぜか、鳥の糞が落ちていることはしばしばである。
むろん、古びているとはいえ、ガラス窓があるのだが。
ただ、このガラス窓は一体、いつ頃の物なのかわからない。あるいは築60年の当初からのものなのか。
遠い昔、雨戸があったような気もするが、物心ついてからは、ガラス窓だけになったようだ。
エアコンも30年ほどのもの。灯油ストーブは、木造家屋には怖いし。
石油ストーブは、気密性の高い作りだと、酸欠や一酸化炭素中毒が怖いが、我が家では、ありえない! のだが。
炬燵もないってのがやばいなー。
家の中が寒いと読書も進まない。手が悴むし。
なのに、読みたい本が山積み。
昔の人は、火鉢や炭の火だけで、障子の部屋、蝋燭の灯で読んでいたのだろう。
武士じゃなくとも、それこそ身を切るような寒さの中、きっと、背筋をピンと張って、座布団に座って。
深沈たる夜、孤影が障子にポツンと。
書物に、つまりは書を書いた先人に向き合っている気合で、一文字一文字を追っていったのだろう。
黙読もしたかもしれないが、声を出して読むことも当たり前だったかもしれない。
師の前で正座する覚悟だったろうし、書物などは貴重品だったろうし。
灯火親しむべしという言葉をふと思い出した。ホントなら今こそ、そんな時期のはずだが、秋らしい澄み渡った快晴の日にはなかなか恵まれない。
さて、その「灯火親しむべし」という言葉の出典は、「灯火親しむべし:意味・原文・書き下し文・注釈 - Web漢文大系」によると、韓愈「符読書城南」(『全唐詩』341巻)だという。
意味合いは、想像通り、「秋の夜は灯火の下で読書をするのにふさわしい」のようである。
原文を読み下すと、「時(とく)秋(あき)にして積雨(せきう)霽(は)れ、新涼(しんりょう)郊墟(こうきょ)に入る。灯火稍(ようや)く親しむ可く、簡編(かんぺん)巻舒(けんじょ)す可し」となる。
この漢詩からすると、原文においても、降り続く雨(雪)が止んで空がすっきり晴れ、秋のはじめの涼しさが山間の里にもやってきて、灯火の下で読書をするのにふさわしい秋の夜長の季節がやってきた、ということのようで、雨続きの日が続いていたのが、ようやく晴れ渡る秋の日に恵まれた……つまりは、今日この頃の陽気に合致する漢詩なのかもしれない。
秋の長雨は、梅雨の長雨よりも時期は長いというし、だからこそ、秋の澄み渡る空は気分爽快なのだろう。そんな秋の夜長を過ごすには、書物に向かうのが一番なのだろう。
ただ、この漢詩では、秋のはじめの涼しさを詠み込んでおり、霜月という晩秋の寒さが背景になっているわけではない。
ということは、新涼の候はとっくに過ぎた、秋も深まった頃には、昔の人も、とてもじゃないが、灯火親しむべし…じゃなく、炭火親しむべしとなっていたのかもしれない、なんて軟弱な自分は勝手に読み替えてしまうのである。
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