2017/10/31

独りきりの祝祭

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← 富山市の中心部にある桜橋。歩いて、あるいは車で何度も渡るこの橋が、国指定文化財だと、今日、初めて知った。鋼アーチ橋。

 拙稿(「馬橋パレード…オートバイとの別れ」参照)にも書いたように、もう十年近く前、バイクは降りたつもりだったのが、突然のライダー復活。
 いろいろ事情や思いがあるが、今日は、初めてオートバイでのロングツーリングの思い出の一場面をつづった文章を再掲する。もう、40年以上も昔の話である。

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2017/07/18

日本と朝鮮との古来よりの絆

 昨日は風邪で急遽、仕事を休むことに。朝六時前に会社に電話。
 症状は前夜来の喉の痛み、咳、鼻水。前夜来というより、14日の金曜日、すでに喉が痛くなり、折々、クシャミ(咳)が出ていた。土曜日一日、静養していたら治るかと思ったが、つい、土曜日の夕方、外仕事したのがまずかったか、症状が悪化してしまった。

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← 『日本の渡来文化 座談会』(司馬遼太郎/上田正昭/金達寿 編 中公文庫) 「文化の伝播には人間の交渉がある。朝鮮半島からいくたびも渡来してきた人々の実存を確かめ、そのいぶきにふれることにより渡来文化の重みを考える」とか。かなり前の本だが、今もって読むに値する。日本という国が成り立つうえで、如何に大陸、特に朝鮮半島からの渡来人の恩恵と影響を受けてきたかを物語る。特に日本という国家の成立には、百済の滅亡と、百済からの渡来人の力が預かって大きかったかを感じる。

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2017/02/09

蕩尽あるいはエロティシズムへの欲望

 エロティシズムへの欲望は、死をも渇望するほどに、それとも絶望をこそ焦がれるほどに人間の度量を圧倒する凄まじさを持つ。快楽を追っているはずなのに、また、快楽の園は目の前にある、それどころか己は既に悦楽の園にドップリと浸っているはずなのに、禁断の木の実ははるかに遠いことを思い知らされる。

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← ジョルジュ・バタイユ著『宗教の理論』(湯浅博雄訳、ちくま学芸文庫)

 快楽を切望し、性に、水に餓えている。すると、目の前の太平洋より巨大な悦楽の園という海の水が打ち寄せている。手を伸ばせば届く、足を一歩、踏み出せば波打ち際くらいには辿り着ける。

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2017/01/21

今はなきホームページより

 この頃、コインランドリー通いが定番になってきた。洗濯は家でやって、ドライをコインランドリーで。冬になると、やることが増えて面倒だな。仕方ないけど。

 パソコンのサポート店に行ってきた。フェイスブックやツイッターのアカウントが乗っ取られたか、侵入されているという警告があったので。専門家に対処してもらって、一安心です。

 博物館へ行こうと思っていたけど、雨、霰がちょっと振り出してきたのであきらめた(自転車で行くつもりだたので)。ところが、諦めてPCサポート店へ車で行った。すると、青空が! クソ、天気に騙された。

 車で外出する機会があったので、昨日、衝動買いした村田英雄のCDを聴けたよ。やはり、あんな歌手は不世出だなー。

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2017/01/16

昨夜不意に清宮質文の世界に触れたくなって

 本年は酉年。なので、鳥に敬意を示すため、好きな鶏のから揚げや焼き鳥など、食べるの控えている。これで二週間、我慢してきたけど、そろそろ限界かもしれない。明日は、どうなる!

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← 「また来ん春… 」(中原 中也【詩】・清宮 質文【画】 玲風書房 2002年)

 実は冒頭の呟きのあと、夕方、ローソンへ行ってきた。買ったのは、夕食用にラーメンにたこ焼き。明朝用にサケ弁当。レジ近くの陳列には目を背けて、逃げるように帰って来た。誘惑、多いですね。

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2016/11/02

灯火親しむべし…どころじゃなく

 いよいよ十一月。霜月とはよく言ったものだ。

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← 縁側の廊下。外は築山風の内庭。廊下は、今は掃除して綺麗だが、風が強いと葉っぱが舞い込むことも。鳥の糞はしばしば!

 家の中は寒い。部屋が幾つもあるし、築60年以上なので、家の中にも外の風が吹き過ぎていくような始末。縁側の廊下には、風の強い日の翌日など、葉っぱが落ちていることも。それどころか、なぜか、鳥の糞が落ちていることはしばしばである。
 むろん、古びているとはいえ、ガラス窓があるのだが。

 ただ、このガラス窓は一体、いつ頃の物なのかわからない。あるいは築60年の当初からのものなのか。
 遠い昔、雨戸があったような気もするが、物心ついてからは、ガラス窓だけになったようだ。

 エアコンも30年ほどのもの。灯油ストーブは、木造家屋には怖いし。
 石油ストーブは、気密性の高い作りだと、酸欠や一酸化炭素中毒が怖いが、我が家では、ありえない! のだが。
 炬燵もないってのがやばいなー。

 家の中が寒いと読書も進まない。手が悴むし。
 なのに、読みたい本が山積み。

 昔の人は、火鉢や炭の火だけで、障子の部屋、蝋燭の灯で読んでいたのだろう。
 武士じゃなくとも、それこそ身を切るような寒さの中、きっと、背筋をピンと張って、座布団に座って。
 深沈たる夜、孤影が障子にポツンと。

 書物に、つまりは書を書いた先人に向き合っている気合で、一文字一文字を追っていったのだろう。
 黙読もしたかもしれないが、声を出して読むことも当たり前だったかもしれない。
 師の前で正座する覚悟だったろうし、書物などは貴重品だったろうし。

  灯火親しむべしという言葉をふと思い出した。ホントなら今こそ、そんな時期のはずだが、秋らしい澄み渡った快晴の日にはなかなか恵まれない。

 さて、その「灯火親しむべし」という言葉の出典は、「灯火親しむべし:意味・原文・書き下し文・注釈 - Web漢文大系」によると、韓愈「符読書城南」(『全唐詩』341巻)だという。
 意味合いは、想像通り、「秋の夜は灯火の下で読書をするのにふさわしい」のようである。

 原文を読み下すと、「時(とく)秋(あき)にして積雨(せきう)霽(は)れ、新涼(しんりょう)郊墟(こうきょ)に入る。灯火稍(ようや)く親しむ可く、簡編(かんぺん)巻舒(けんじょ)す可し」となる。

 この漢詩からすると、原文においても、降り続く雨(雪)が止んで空がすっきり晴れ、秋のはじめの涼しさが山間の里にもやってきて、灯火の下で読書をするのにふさわしい秋の夜長の季節がやってきた、ということのようで、雨続きの日が続いていたのが、ようやく晴れ渡る秋の日に恵まれた……つまりは、今日この頃の陽気に合致する漢詩なのかもしれない。

 秋の長雨は、梅雨の長雨よりも時期は長いというし、だからこそ、秋の澄み渡る空は気分爽快なのだろう。そんな秋の夜長を過ごすには、書物に向かうのが一番なのだろう。
 
 ただ、この漢詩では、秋のはじめの涼しさを詠み込んでおり、霜月という晩秋の寒さが背景になっているわけではない。
 ということは、新涼の候はとっくに過ぎた、秋も深まった頃には、昔の人も、とてもじゃないが、灯火親しむべし…じゃなく、炭火親しむべしとなっていたのかもしれない、なんて軟弱な自分は勝手に読み替えてしまうのである。

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2016/10/31

小鳥は何処…富山マラソンのこと

 茶の間の窓外の朽ちかけている農機具小屋。名の知れない樹木などが勝手に育っている。その小枝に赤っぽい小さな鳥が止まっているのを発見。あちこちちょんちょんと移動するが、最後は小枝にじっとしている。小鳥……子供の鳥のように感じる。

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← 葉っぱの陰に隠れるように、オレンジ色の物体が見える。姿形ははっきりしないようだが、小鳥だったのだ。あれから、どうしたんだろう……

 しばらくすると、同じ色柄の小鳥が飛来してきた。用心深いのか、小屋の中には入らず、外側を移動している。恐らくは親鳥、母鳥なのだろう。迷子になった小鳥を探しに来たのに違いない。懸命に探して回るが、親鳥は小屋の外、小鳥は小屋の中の木々の小枝に葉っぱに隠れるようにして留まっているいるばかり。親鳥よ、思い切って小屋の中を探せよ! って言いたいけど、言えるはずもなく。

 親鳥(母鳥)は、小屋を去って、近くの農作業小屋の庇の下に止まったり、小屋の屋根をちょんちょんと歩いたりする。でも、やはり、小屋の中へは入ろうとしない。ああ、小鳥よ、何故、鳴き声を上げないのか。用心して息を潜めているのか。母鳥もそうだ、母の声を大きく発したら、小鳥だって気づくんじゃないか!

…けれど、やがて母鳥らしい成鳥は何処かへと飛び去ってしまった。そして小鳥は、小屋の中の何かの樹木の小枝に息を潜めて留まっているばかり。日が暮れてきたよ。どうするの? 明日の朝まで、食べるものも自分で見つけられずに、じっと夜の深さを耐えていこうととでも。……朝になるまで生き延びたって、その先はどうするの?

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→ 夕方の環水公園。ここが富山マラソンのゴール地点。この公園は、富山で一番の人気のスポット。

富山マラソン」を見物に行ってきた。走る人も多いが、見物人も多かった。三十代の頃までは、走るのに熱心だった。青梅マラソン(30キロ)にも参加し、完走したからね。

 学生時代も、キャンパスを20キロ走る大晦日のマラソン大会に飛び入り参加。運動なんてしていないのに、ぶっつけで走ったけど、上位入賞して、お酒をもらったことも。そういえば、ほんの数年前は、家の事情でフルタイムの仕事ができず、新聞配達で頑張っていたことも。汗だくで頑張ったんだよ。

 学生時代、ぶっつけ本番で走った…実は、アルバイトで新聞配達をしていた! そうでないと、走れない!
 小生は、学生時代以来、一貫してガテン系のアルバイトばかり。

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← 環水公園っは岩瀬浜に続く運河の終着点であり出発点。運河には、遊覧船が走っている。橋の上から撮影しているが、この反対側には、13,000名以上のランナーたちが、もう間近いゴール目指して最後のファイト! そうそう、青梅マラソンについては、思い出の記を書いたっけ:「青梅マラソンの思い出(前篇)」「青梅マラソンの思い出(後篇)」 そのほか、マラソン絡みの記事を書いている:「箱根駅伝…観戦記?」「同人誌(?)を出した頃」「東京国際女子マラソン…感動のラストシーン 」 

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2016/10/24

カサコソと秋の音するはぐれ道

 都甲幸治著の『生き延びるための世界文学』を読了した。実は、J・M・クッツェー著の『サマータイム、青年時代、少年時代 ──辺境からの三つの〈自伝〉』をゆっくりじっくり読んでいるところで、大部な本の息抜きのつもりで読み始めたのだが、予想外の面白さ(← 生意気!)に嵌まってしまった。

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← 都甲幸治/著『生き延びるための世界文学 ―21世紀の24冊―』(新潮社) 「名作は世界中で日々生まれ、その大半はまだ訳されていない──」!

 本書の案内によると、「名作は世界中で日々生まれ、その大半はまだ訳されていない──」なんてあって、実にキャッチ―なコピーだ。
 本書は雑誌に連載されていた文章を編集したもので、その後、幾つかは翻訳されてきている…ようだ。
 ただ、仮にみんなが訳されても、その大半は、読む機会を作れずに、つまりは出合わずにすれ違っていくに違いない。
 文学に限らず、音楽も美術も詩も彫刻も舞踏も、映画も舞台もその深浅や彫琢の優劣の差はあっても、今も次々と作品が生まれ続けている。
 あるいは、作品という形にならない、まさにナマの想が寄せては返す波のうねりのように海面の波間に浮かんでは沈み、やがては溺れていくか、海中の生きものたちの餌食となって消えていくのだろう。
 文字通り、海の藻屑と成り果てる……

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→ 96歳で即身仏になった真如海上人 (画像は、「真言宗 天照寺 仏教心理学14 即身成仏と意識の転変 八識から五智へ」より) 「知られざる日本のミイラ信仰…永き苦行の末の『即身仏』という驚異 - NAVER まとめ」など参照。

 世界の何処かで必ずのように、戦争やテロがまさに今、起きているし、途切れることなく犠牲者は生まれている。
 それが戦争の形でなくても、家庭で会社で、路上で、ベッドの上で、ビルや古壁の裏側で、声にならない声が、喚きや呻き、嘆き、時には歓喜と見紛う怨嗟の叫びが、そんな呻吟するあられもない姿が曝け出されている、あるいは闇の壁に向かって血反吐のように吐き出されているに違いない。

 いや、呻吟ばかりじゃなく、あまりに何気ない日常の中の心の揺らめきが陽炎のように、昼間の幽霊のように彷徨しているに違いない。
 声なき声を拾う、形にならないものを、その触れればたちまち崩れ去るような、繊細な時の溜め息が生まれては、誰にも気づかれることなく消え去っていく。
 答えは風の中にあるのか、風に答えは吹き流されるだけなのか。

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← J・M・クッツェー著『サマータイム、青年時代、少年時代 ──辺境からの三つの〈自伝〉』(くぼたのぞみ訳 INSCRIPT) 「自伝はすべてストーリーテリングであり、書くということはすべて自伝である」(クッツェー)。

 文学って何だろう、哲学って何?
 ただただ生き延びるためにあるということなのか、あるいは生きているギリギリの証左なのだということか。
 表現するという営為は、つまりは、即身仏を志す者の鳴らす鈴の音だとでも?

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2016/08/15

出会いからはあまりに遠くて

 雨上がりの小道を歩くと、何かが私の頭に落ちた。数知れない細かな透明な粒を 目にした。それは、近所のブロック塀越しの木の葉を伝って、私の頭に落ちた一滴 の水の雫だったのだ。ちょっとした衝撃の波が私の心に走った。
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 それは、まずは外で冷たい何かの直撃を受けるという予想外の出来事への驚き。
 でも、すぐにそれは私が決して孤立してはいないということの直観へと転化した。

 人は年を取るごとに、意外性への素朴で新鮮な感動を忘れていく。それは、生きることに慣れてしまったことを意味している。

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2016/06/27

永遠と一瞬の美しき目合ひ

 夜、仕事の合間などに空の星を眺めることがある。
 遠い星。遥かな高みの星。
 あの星に人類はいつか、到達するんだろうなって。

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← お絵かきチャンピオン 作「不詳」 (ホームページ:「小林たかゆき お絵かきチャンピオン」参照)

 人類は、月に達し、火星にも近い将来、立つのだろう。
 既に地に降り立ったという月の世界すら、小生のようなぼんくらには遥かに遠い世界なのだ。

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