« 螺旋回転するフィラメントは神の心臓の鼓動の証し? | トップページ | 松の木2本が難問だ »

2025/09/24

奈落の底へ落ちるように

 昨夜も前夜に続き、怖いほど町は閑散。人影が疎ら…というより見つからない。車も対向車が稀。景気はいよいよ悪化の一途。奈落の底へ落ちるように。 あの猛暑が一気に冷え込んで秋が深まってる。 (09/24 03:52)

 さて、気分を変えて旧稿から抜粋して示す:

 月の光が、胸の奥底をも照らし出す。体一杯に光のシャワーを浴びる。青く透明な光の洪水が地上世界を満たす。決して溺れることはない。光は溢れ返ることなどないのだ、瞳の奥の湖以外では。月の光は、世界の万物の姿形を露わにしたなら、あとは深く静かに時が流れるだけである。光と時との不思議な饗宴。

 こんな時、物質的恍惚という言葉を思い出す。この世にあるのは、物質だけであり、そしてそれだけで十分過ぎるほど、豊かなのだという感覚。この世に人がいる。動物もいる。植物も、人間の目には見えない微生物も。その全てが生まれ育ち戦い繁茂し形を変えていく。地上世界には生命が溢れている。それこそ溢れかえっている。 

 自分が消え去った後には、きっと自分などには想像も付かない豊かな世界が生まれるのだろう。いや、もしかしたら既にこの世界があるということそのことの中に可能性の限りが胚胎している、ただ、自分の想像力では追いつけないだけのこと。

 そんな瞬間、虚構でもいいから世界の可能性のほんの一端でもいいから我が手で実現させてみたいと思ってしまう。虚構とは物質的恍惚世界に至る一つの道なのだろうと感じるから。音のない音楽、色のない絵画、紙面のない詩文、肉体のないダンス、形のない彫刻、酒のない酒宴、ドラッグに依らない夢、その全てが虚構の世界では可能のはずなのだ。     (拙稿「真冬の月と物質的恍惚と」より)

 

 ← 画像は、土屋 光逸 作『高輪 泉岳寺』(木版)

 土屋 光逸(つちや こういつ 明治3年<1870> - 昭和24年<1949>)は、「川瀬巴水らと並んで新版画を代表する風景版画家」エミール・ギメ著『明治日本散策 東京・日光』でやはり泉岳寺(四十七士…近松門左衛門)の話題。懐かしい!「古代の東海道沿いに住んでいた - 壺中山紫庵」 (09/23 22:40)

 エミール・ギメ著『明治日本散策 東京・日光』 ( 岡村嘉子訳 解説 :尾本圭子 角川ソフィア文庫)…… 仕事の車中での待機中に 再読してる。やはり名著。面白いし、観察眼が鋭いし、人懐っこい。文章が上手い。読んでて楽しい。お薦め。 (09/24 01:52)

|

« 螺旋回転するフィラメントは神の心臓の鼓動の証し? | トップページ | 松の木2本が難問だ »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

タクシーエッセイ」カテゴリの記事

書評エッセイ」カテゴリの記事

美術エッセイ」カテゴリの記事

社会一般」カテゴリの記事

恋愛・心と体」カテゴリの記事

読書メーター」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 螺旋回転するフィラメントは神の心臓の鼓動の証し? | トップページ | 松の木2本が難問だ »