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2023/10/23

うーん幸せ!

 ← ミシェル・ウエルベック作『滅ぼす 上』(河出書房新社) 「謎の国際テロが多発するなか、2027年フランス大統領選が行われ、経済大臣ブリュノと秘書官ポールはテレビタレントを擁立する。社会の分断と個人の幸福。フランス発の大ベストセラー。」

 目元というかややこめかみに近い辺りの腫れは、今日になってかなり鎮まってきた。となると、今日も庭や畑仕事。昨日は、砂利を台所の目の前に撒く作業に手間取り、畑の枝葉整理は捗らなかった。今日こそは。

 この二年ほど、薪ストーブあるいは達磨ストーブ導入で迷ってきた。相談する相手もいない。一人では考えがまとまらない。昨夜このままでは埒が明かないと、これまでのスマホ検索じゃなくパソコンで情報摂取。ようやく店の候補を発見。薪やペレットじゃなく、高温(800度)で枝葉をそのまま燃やせるタイプ。店にカタログ請求。自分の体もあと数年は動くだろう。枝葉を焚火できればそれでよかったのだが、富山じゃできないんだし、冬の寒さを超すにも役立つに違いない。 (10/23 14:30)

  ミシェル・ウエルベック作の『滅ぼす 上』(河出書房新社)を読み出して二日目。

 目元の腫れを気にしながらも、昨日もせっせと庭や畑仕事。まずは、台所前の庭に張った防草シートが破れ出したので、ホームセンターで買ってきた砂利12袋を撒いた……まるで足りなかったが。次いで畑へ。過日伐採し散在したままの果樹の枝葉の片付け。量が半端なく2時間では1/3も終わらないうちに宵闇(作業開始が三時半過ぎだった…)。

 幸い目元の腫れ症状の悪化もなく、シャワーを浴び夕食。自分にはやや贅沢ながら、ホームセンター隣接のスーパーで買ったパック入りの寿司の盛り合わせ。うーん、幸せ。

 ひと息付いたところでようやく読書。ウエルベック。長編の1合目。SFっぽい冒頭に(予備知識なしにいきなり読み出した)、「セロトニン」とのあまりの違いにやや戸惑った。が、やはりウエルベック、次第に物語の趣向が呑み込めてきた。五来重の「高野聖」と代わる代わる。西欧の宗教的土壌や歴史と日本の山岳信仰などの土俗的宗教との違いの狭間に沈湎してる。

 さてここにユダヤ教やイスラム教、アラブに食い込んだ欧米の策略、特にイギリスのしたたかという表現では収まらないイスラエルなる国をパレスチナに建国した策略の責任。イギリスの狡さは世界に禍根を残してきた。今もこれからも傷口は広まるばかり。ウエルベック辺りに本作品以上のスケールで描いて貰いたい。イギリス(に限らないが)は本当に罪作りな植民地帝国だったな(植民地を手放す際、必ずその国に紛争の種として二つの領域に分離していく。インドとパキスタン、パレスチナとイスラエルなどなど)。 (10/23 09:28)

 

 「昼行灯20 あの影しかない」今朝未明創作。

 五来重著の『高野聖』 (角川ソフィア文庫)を相変わらず。本書でも柳田國男の文献が何か所でも参照されてる。日本の土俗的な深層古層を学ぶには不可欠の人物だと改めて実感。 (10/23 09:32)

 ミシェル・ウエルベック 著『ウエルベック発言集』(西山雄二 /八木悠允 /関大聡 /安達孝信 訳 白水社)を読了しての感想もどきは書いた。その際、本書から多少でも転記したいと思っていたが、時間の都合でさぼってしまった。以下、転記する:

(前段略)これとは対照的に、同時代において文学が比較的健全である点に注目しておこう。これはきわめて当然のことだ。文学は根本的に概念的な芸術であり、厳密に言えば、まさに唯一の概念的な芸術とさえ言える。言葉とは概念であり、紋切り型(クリシェ)とは概念である。概念、そして言葉の助けなしには、何も肯定されず、否定されず、相対化されず、嘲笑されることもない。ここから文学活動の驚くべき堅牢さが生まれる。つまり、文学はありのままの姿を保ちながらも、みずからを拒絶し、破壊し、文学が不可能であると公言しうるのである。文学はあらゆる入れ子構造に、あらゆる脱構築に抵抗し、いかなる微妙なものであろうとも、さまざまな度合いのあらゆる蓄積に抵抗する。文学はまるで沼から抜け出す犬のように、簡単に立ち直り、身体を震わせて、再び歩み始めるのである。 (p.31)

 

                         (10/23 14:10)

昼行灯19 鳥の餌」 今朝未明アップ。

 せっかくなので同書からもう一か所だけ転記:

 

(前段略)そうです。犠牲は活動の一側面ですーーそれを仕事と呼ぶことはできないでしょう。私が思うに、書くという行為はいわばみずからのうちに否定性、全世界の否定性を取り込み、それに描写を与えることを含意しているのではないでしょうか。その結果、読者は否定的な部分が表現されるのを見て、自分の苦痛を和らげることができるのです。そうした否定性の表現を引き受ける作家は同時に、世界のそうした否定的な部分と同一視あれる危険を冒すことになるわけです。そのために書くことはときに難しい行為になるのです。それはあらゆる否定性を引き受けることだからです。そして実際にこの行動は人類のすべての罪を引き受けたキリストと関係があるのです。したがって実際に、[キリストの犠牲と]類似性があるのです……なかなか良い締めくくりではないでしょうか。 (p.287)

 まあ、キリストとの関係云々は我々日本人(少なくとも吾輩)には理解の及ばない微妙な点だが……。 (10/23 14:20)

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