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2023/07/17

体力気力の減退に悲しむ

 ← スティーブン・ブディアンスキー 著『クルト・ゲーデル 史上最もスキャンダラスな定理を証明した男』(渡会圭子 (訳) 森北出版)「アインシュタインをして「アリストテレス以来の最高の論理学者」と言わしめ、フォン・ノイマンを陶酔させた天才の生涯を、プリンストン高等研究所全面協力のもと掲載された、多数の未公表写真とともに綴る。不完全性定理の簡潔な証明も収録。」

 今日日曜日は休日だった。富山も35度の猛暑。

 月曜日は有休を取り連休にして溜まった庭仕事を少しでも片づけたいと思っていた…が、土曜日の仕事が残業になって日曜日の生活のリズムが狂ってしまった。庭仕事に汗を流す気力が萎えてしまった。体力不足もだが、気力の減退をつくづく自覚する日となってしまった。情けない。悲しい。

 スティーブン・ブディアンスキー 著の『クルト・ゲーデル 史上最もスキャンダラスな定理を証明した男』を16日(日)夜半に読了。ゲーデルの伝記ということで即入手、即読んだ。やや遠い昔、ダグラス・R. ホフスタッター 著の『ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環』(白揚社)が刊行された当時もこの浩瀚な本に手を出した。エッシャー、バッハ―にゲーデルを組み合わせるなんて、憎い書き手だと感じつつ(この本については、拙稿「ウロボロス…土喰らうその土さえも命なる」参照)。

 ゲーデルの不完全性定理については、今春 読んだ(新刊ではないが)ジョン・D・バロウ 著『科学にわからないことがある理由 -不可能の起源-』(松浦俊輔 訳 青土社)でのバロウの説明が門外漢には非常に参考になった。

 このバロウの本の内容案内には、「宇宙論における「人間原理」の第一人者が、宇宙の神秘、最先端テクノロジーから宗教、芸術、政治まで、あらゆる分野の〈不可能〉を精査し、科学史上最大の謎にして、人間の知的探求の原動力である「不可能」という核心的問題に肉薄する」とあるが、「限界こそ科学の可能性である!」が肝なのだ。かのゲーデルの不完全性定理もこんなふうな理解が可能なのだと、妙に勇気づけられたものだ。

 被害妄想というか深甚な精神障害に終生苦しめられた天才の障害。深刻な症状を呈する時期と平穏で普通の交際も楽しむ時期とが幾度となく繰り返す。クルト・ゲーデル(1906年 - 1978年)は、オーストリア・ハンガリー帝国出身の数学者・論理学者・哲学者。「1931年、ゲーデル数の概念を用い、20世紀の数学基礎論、論理学にとって最も重要な発見とされる「不完全性定理」を発表した。これは、ヒルベルトが数学の無矛盾性を証明するために推進した「ヒルベルト・プログラム」に関連して研究されたもの」で、「ヒルベルト学派の主張した有限の立場を忠実に用いて、手法としての超数学を具体化することで、皮肉にもそのプログラムが本質的に不可能であることを暗示するというものであった。」(「クルト・ゲーデル - Wikipedia」など参照)。

 本書は、そうした数学(論理学)の業績を語るのが本筋ではなく、ゲーデルの生涯をこそ描くのが主眼。ゲーデルに負けず劣らず奇矯な奥さんアデーレや、苦しい時期のゲーデルに寄り添ったアインシュタインや終生ゲーデルを支えたジョン・フォン・ノイマンなどとの付き合いが縷々語られる。

 宿痾のように付きまとった被害妄想だが、その障害にはあるいは生地であるオーストリア・ハンガリー帝国で吹き荒れたナチズムや反ユダヤの激烈な嵐も少なからず関わっていたかもしれない。そのウィーンからの出国にも、ジョン・フォン・ノイマンの献身的な活動が預かって大きかった。正直、フォン・ノイマンの男気(おとこぎ)に感動してしまった。そんな事実があることを今更ながら知った。

 本書には末尾に不完全性定理の簡潔な証明も収録されているが、我輩には少なくとも99%理解できなかったし、不完全性定理を理解するための本でもない。

 著者ブディアンスキーの本書での最後の言葉は転記するに値する。「ゲーデル自身は、自分の証明が人間の創造性に大きな希望を与えると固く信じていた。人間はこれからも常に直観によってある種の真理を認識できる、それは最先端の計算機でさえなしえないことだと、彼は一貫して主張していた。ゲーデルが彼の定理のもっとも遠大な意味合いについて信じているいたことが正しければ、人間の心の推論、学習、計画、問題解決能力を、厳密な意味で複製できる機械は決して現れないだろう。ゲーデルは人間の知識や信頼の限界ではなく、人間の精神のかけがいのない独自性だけをみていたのだ。」

 

 ← 数年前の我が家の南面する壁面。蔓延る蔦を剥ぎ取る前の状態。

 電気代の高騰もある。少しでも電気代をけちりたいと、(内緒で)冷房の25度と暖房の25度では、どちらがどうなのか確かめたくなった。が、何事にも先人は居るもので、ちゃんとメーカー側が返事を用意されていた:「冷房の25℃と暖房の25℃、なぜ同じ室温にならないのか - ウェザーニュース

 壁中に蔦を這わせてはどうか、そんな姑息なことも試みたことがある。が、我が家の壁面は波形トタン。トタンの裏側にまで蔦(蔓)が這って、悲惨な結果に。”蔦の~絡ま~るチャペ~ルで”はレンガの壁でないとアカンと思い知った

 大きな声では言えないが、昔、灯油ストーブの設定を夏場に25度にしたらどうなるか……一瞬 実験する誘惑に駆られたこともある。 (07/16 22:46)

 

 スマホに未登録の電話番号の着信 複数回。調べてみたら、「太陽光パネルメンテナンス営業」の電話番号だった。営業(勧誘)の電話か、単なる間違い電話か。いずれにしても我が家に太陽光パネルはない。……尤も現下の猛暑で家屋全体がサウナ状態! というか、太陽光(熱)吸収蓄積家屋だ。 (07/16 20:16)

 

 さて、上掲書を読み終え、中断していた閻 連科作の『硬きこと水のごとし』に戻る。合間の息抜きにミネルヴァ書房の『ミネルヴァ通信「究」7月号(通巻第一四八号)』を繙くつもり。

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