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2023/02/03

急がば回れ…逃げるが勝ち

 ← 大江健三郎/古井由吉著『文学の淵を渡る』(新潮文庫)「日本文学の最前線を半世紀にわたり走り続けてきた作家が語る、小説の過去・現在・未来。」

 今日は日中は晴れていた。気温も昨日よりは低いが零下ではない。自転車を転がしてスーパーへ。車道には(路肩を除いて)路面はドライ。が、雪は歩道には方々に残っている。そんな箇所に差し掛かるたび、車道に逃れる。車が怖い。若くはないし、グシャグシャの雪でも自転車で突っ込む覇気はない。急がば回れ…逃げるが勝ちだ。

 川崎 長太郎作の『抹香町・路傍』 (講談社文芸文庫)を読書メーターで読みたい本登録した。大江健三郎/古井由吉両巨頭対談の『文学の淵を渡る』にて二人とも川崎長太郎を褒めていた。吾輩は全く未知の作家。何から読み出せばいいか分からない。

 レマルク作の『西部戦線異状なし』 (新潮文庫)はあまりに有名な作品。学生時代から友人らとの話題には出ていた。ドイツ語を学んでいたこともあって、原題も知っていた。が、半世紀も経って未だに未読。べッセル・ヴァン・デア・コーク著の『身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法』にての同作品からの引用文が素晴らしい。読まないと。

 自宅では、べッセル・ヴァン・デア・コーク著の『身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法』と、サマセット・モーム作の『ジゴロとジゴレット: モーム傑作選』 (新潮文庫)とを交互に。モームはさすがに面白い。世間知が豊か(上層階級も下層民のことも)。一気読みはしない。楽しむ。

 外出はスーパーへだけだが、家ではトイレ掃除。せっせと便器を磨いた。すっきり。

 

 大江健三郎/古井由吉両巨頭対談の『文学の淵を渡る』を1日(水)に読了。仕事の合間の楽しみにと、車中に持ち込んだのだが、読み出して両巨頭の対談の高等ぶりに、これはとてもついていけないと後悔気味。

 それでも「日本文学の最前線を半世紀にわたり走り続けてきた作家が語る、小説の過去・現在・未来」ということで、興味深く理解の及ばないながらも付いていった。

 内容的には、「互いに深い敬意を抱く二人が、この22年間に交わした文学的対話を集成。ギリシア悲劇から日本の古典、百年にわたる日本の短篇小説、国内外の近現代文学、外国語詩を読み、それぞれの小説作法や翻訳のはたらき、八十歳を目前に書きたいと夢みる小説について語りあう」もので、興味津々ではあった…が、日本に限っても未読の作品作家があまりに多いことに我ながら愕然。

 古井は今は無く、大江は断筆気味? それでも本書での対談からすると、晩年まで意欲満々だったことが分かる。

 意外なのは、大江が詩が分からずに来たと繰り返し古井に訴え詩を問う箇所の多かったこと。詩と小説の異同を考えさせられた。吾輩の場合、詩も小説も門外漢ではあるが(小説はそれなりにトライしてきた)。

 本書で一番印象的だったのは、最終章の「漱石100年後の小説家」だった。これは、2015年の対談で、「こころ」「道草」「明暗」から約百年ということでの命名。

 大江は若いころは漱石をほとんど読まなかったとか、古井は少年の頃NHKラジオでの「こころ」の朗読が漱石との最初の接触だったとか。漱石は(落語や講談などを聞くのが好きだったこともあってだろうが)「耳から入るとなかなかの名調子で、子供の耳にすんなり入ってくる」という。

 漱石は創作でも漢詩が一番好きだという。漢詩そのものの字面もだが、書き下し文を読むのは耳にも心地いい。小説は大衆向けだから難しい熟語は避けているのだろうが、漢詩の精神は漲っているのは吾輩でも分かる。

 漱石は(文庫本各種はもちろんだが)角川や岩波の全集を(肝心の漢詩を除いて)読破したが、近い将来再度、全集に挑戦しなきゃと思わせられた。漱石は二人も語るように今も日本文学の原点で在り続けているのだ。

 

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