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2022/10/28

これが限界なのだろう

 ← 村田沙耶香著『星が吸う水』(講談社文庫) 「性行為には、本物と偽物がある。 人肌を求めるだけなら、それは、恋じゃない。」

 昨日27日は休み。秋晴れとはいかず、薄日で肌寒いが、久々、美術館へバイクでミニツーリング。往復で40キロ余り。今月スカイウエイブからやはり中古のフォルツァで。小型なので軽快感を味わえた。何処か構える感じだった大型とは大違い。買い物へも既に何度も。

 久しぶりに晴れなのに庭仕事なしで過ごした。その分、読書の方は進まなかったが、仕方ないね。今月も15冊ほどか。自分の生活スタイルからしてその辺りが限界のようだ。悲しいがこれが現実なのだろう。

 

 村田沙耶香作の『星が吸う水』を26日(木)仕事の合間に読了。読書メーターが本作を知る切っ掛けだったか。「星が吸う水」と「ガマズミ航海」の2作が併載。

 読了直後には、「一歩、間違えばポルノだが、ギリギリ踏みとどまっている。何故か。女性主体、女性目線、女性の生理的感覚からの<性愛>を描いてユニークだし、必死にホントの性を追い求めているからか。」と呟いている。

 小生は、女性作家の書く小説を読むのが好きだ。生理感覚も違うだろうし、まして性的事象については、男性作家の書くものは凡そ想像が付くし、大概が詰まらない。セックスの最中の女性は何をどう感じているのか。知りたくてたまらない。

 なかなかそんな欲求不満を解消してくれる本には出合えない。さて、本作はどうか。

 セックスについて昂じて抑えがたくなった扇情を宥める行為を、男なら<抜く>という表現をすることがある。本作では、女性ながらそういう感覚を持つ。あるいは持ちたい女性の目線で書いている。射精した瞬間の感覚は男性だけのものか。では、女性はどう感じているのか。そもそも男女は同じ生理感覚を持ちうるのか。

 <男>をしゃぶるのも、<男>に跨って膣に咥え込んで揉みしだき味わうことも、共に主体的に楽しみたい。交情を男に抱かれたとか、奪われたとかじゃなく、男と対等に楽しみたい。遣った遣られたじゃなく(膣はもう一つの口か)。

 だけど、男女対等はありえる? どうあったら対等なのか。本当の恋、真実の愛への飢餓感は、恋や愛への飢餓感とは違うらしい。「性行為じゃない肉体関係」とは何だ?

 男社会の中に逼塞するのではなく、自立した女性として主体的に生きる。特に男女同権とは程遠い日本の社会では難しい。セックスをするという表現を女性が男性並みに使えるのか。性に奔放かみだらな女に見做されるのがオチだろう。

 が、性を魂の飢餓感の交情だとしたら、年齢を問わず、男女間を問わず、半永久的な渇望の世界だろう。

 さて、冒頭の、「そんな欲求不満を解消してくれる本には出合えない。さて、本作はどうか。」に対する答えに本作は応えてくれたか。もう一歩何かが足りない。何故か。それは、「誰でもいいから体温を咥(くわ)えたいって気持ちは、恋じゃない。言葉の意味を、一度だけ崩壊させてみたい。」というが、その崩壊ぶりが未だ中途半端に終わっているからだろう。

 

 ← 映画『ときめきに死すポスター。監督:森田芳光 沢田研二・杉浦直樹・樋口可南子

 書庫を漁ってたら、丸山健二作の『風の、徒労の使者 』(景山 正夫 (写真)集英社(1978年))を発見。吾輩が買って読んだのは、1980年頃。

 1980年代の半ば過ぎまでは、バイクに夢中で、買う本…つまり読む本はオートバイ関連が大半を占めてた。その中で、オートバイ乗りでもある丸山健二の本書に出会った。 (2022/10/27)

 コメントで、丸山健二原作の映画『ときめきに死す』が話題に。ジュリー主演らしいが、樋口可南子が出ていたとか。我輩、樋口可南子のヘアーヌード写真集を秘蔵している。 (10/28 02:44)

 

 拙稿「バンクシーをも呑み込む現実?」をアップ。

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