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2022/07/26

ただの一人も声掛けなし

  ← ユヴァル・ノア・ハラリ (著)『21 Lessons 21世紀の人類のための21の思考』 (柴田 裕之 (訳) 河出文庫) 「『サピエンス全史』で全世界に衝撃をあたえた新たなる知の巨人による、人類の「現在」を考えるための21の問い。待望の文庫化。」

 待望のユヴァル・ノア・ハラリ 著の『21 Lessons 21世紀の人類のための21の思考』をようやく読めた。ずっと文庫入りを待っていたのだが、昨年末に出ていたことを迂闊にも知らずにいた。

 たまたま知り合いが単行本持っていたので、借りてきたのだ。借りた以上は早速読む。

 期待に違わぬ内容だった。「“知の巨人”が、テクノロジーや政治をめぐる難題から、この世界における真実、そして人生の意味まで、人類が直面している21の重要テーマを厳選。正解の見えない今の時代に、どのように思考し行動すべきかを問う」というもの。

 幅広い知見と深い考察。著者がユダヤ人ということで、やや警戒していたが、ノーベル賞受賞したユダヤ人の通例で、多くはユダヤ教の宗教的な領域の外で行動していた。ハラリ氏もそうだ。ユダヤ教の枠に囚われずに思考している。だが、同時に、ユダヤ教の桎梏を過度に意識しているようでもある。そのことが、フロイトやかのスピノザらの無神論の系譜にもつながるのか。

 世界を知ること。世界を知りたいという猛烈な欲求。哲学を志向する人間は中学か高校の頃に、何よりもそのことに関心を持ってしまう。我輩ですら、そうだった。高校二年の頃に、中央公論社から世界の名著シリーズが出た際は、刊行順に買っては読んでいった。一冊読み終えるのに一か月を要した。鉛筆を片手に書き込みを厭わず…。

 世界の中にいる自分。というか、私は何処にいるのか。吾輩は二つの障害を抱えていて、一つは誰の目にも明らかであり、一つは自分ですら気づかないほどに深甚なものだった。その後者に吾輩は孤絶を強いられた。誰と居ても、一人でいても私は泥沼の中で喘ぐばかりだった。

 世界は見えない。私も不確か。私の脳髄自体が腐乱しているとしか思えなかった。だが、何が自分をそうさせてしまうのか、皆目分からずにいたのだ。原因の一端にアラフォーになって気づいたが手の施しようがなかった。医者の手が多少の改善を齎したのは、五十代の半ば過ぎ。体は悲鳴を上げていた。

 何かが見えるとか感じるとか、何かということ自体が闇の中だった。

 本書を読んだ結果、吾輩は、三十代半ば近くに読んだはずの、『世界の名著 (1) バラモン教典 原始仏典』  (中公バックス)を書架の隅っこから引っ張り出す羽目になった。その経緯…契機はハラリの上掲書の末尾にある。

 ま、吾輩ごときの本書の感想など不要だろう。

参考:「『21 Lessons 21世紀の人類のための21の思考』 特設サイト|河出書房新社

 

 ← 堀田 善衞 (著)『時代と人間』(徳間書店)「「乱世」の時代を生きた人物について述べながら、歴史の中の「観察者」ということの意味を考える。全13回にわたって放送された「NHK人間大学 時代と人間」のテキストを単行本化。92年日本放送出版協会刊の再刊。」

 堀田 善衞 著の『時代と人間』を24日の夜半過ぎに読了。仕事の合間に読む本じゃないが、車中の喧騒の中の沈思の時を過ごした。本書は再刊本。特設コーナーで発見し、慌てる必要もないのに、本を手に取り、さっさと籠に収めた。

『広場の孤独』『漢奸』での芥川賞作家だが、肝心の小説は入手は難しい。若いころに読んだきり。未だに再読が叶わずにいる。高岡市の出身だが、大きな括りでは富山県出身の作家ということもあり、『ゴヤ』四部作や『定家明月記私抄』(正続)あるいは『方丈記私記』など、かなりの著作を読んできた。

 戦争を知る世代の作家ということもあり、戦後の日本での国際派作家の堀田氏は吾輩にとってもある種の指針で在り続けた。

 この上は、何とか早く、『広場の孤独』『漢奸』などを入手できるよう、願っている。

参考:「復刊記念特別WEBサイト 堀田善衞「時代と人間」 - 堀田善衞年譜

 

 ← 昨年のツーリングでの一コマ。

 今日も晴れ、休み。昨日は庭仕事に頑張ったし、今日はバイクでツーリング……と思ったが、庭の惨状に諦めた。長く乗ってないので、バッテリー対策のため火入れだけ。その間、玄関先の草むしり作業。

 昨日は庭先をメインに剪定。今日は車道沿いの生け垣をメイン。が、その前に玄関先の草むしり。ところがふと、思い付いたことが。

 それは、豪雪に倒壊した柘植のこと。やや大きい……枝葉が繁茂して重たいから起こせない。枝葉をバッサバッサと刈り落としたらどうだろう。軽くなって、一人でも起こせるのでは。

 早速やってみた。枝葉を大胆にカット。もう貧相なほどに。で、起こそうとした。ダメだった。傾いた状態で固まってる。浅はかだった。

 さて気を取り直して車道の生け垣へ。枝葉が繁茂して車や人の通行に支障が出る懸念。

 一方、生け垣の枝葉を伸ばしてるのは、車や人への配慮でもある。と言うのも、生け垣の直下には用水路が口を空けている。生け垣の枝葉は、通行者らがあまり端に寄り用水路に落ちるのを防ぐために伸ばしている。

 我輩としては案外気を使っているのだ。つまり、枝葉をあまりカットするのも考えものなのである。…それにしても、昨日今日と長時間作業したけど、ただの一人も声掛けなし。これが我が町なんだな。 (07/26 20:50)

 

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