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2022/04/07

週末は薪ストーブ小屋で?

 ← D.G.ハスケル[著]『木々は歌う  植物・微生物・人の関係性で解く森の生態学』(屋代通子[訳] 築地書館)ジョン・バロウズ賞受賞作。「1本の樹から微生物、鳥、ケモノ、森、人の暮らしへ、 歴史・政治・経済・環境・生態学・進化すべてが相互に関連している。失われつつある自然界の複雑で創造的な生命のネットワークを、時空を超えて、緻密で科学的な観察で描き出す」 

 

 今日は休み。午後遅めの時間には雨の予報も。だが、午前中にスタートしたら雨の降りだす前に帰宅できる…。そう、バイクでのツーリング日和。が、腰を痛めて、乗れる自信が薄れてる。つい、億劫になって、えい、いいや、今日は午後から庭仕事だと、日和ってしまった。情けない。

 作業着に着かえ、ドブ浚いやら落ち葉拾い、雑草毟り、観音堂の草取りと、みっちり二時間余り、頑張った。ついでに、さりげなく、納屋を見て回る。さて、あの小屋を薪ストーブ小屋にするか…。判断が付かない。踏ん切り以前の問題。

 薪になる枝葉など大して出ない。昨日の日記に書いたように、せいぜい、週に一晩か二晩、夜明かししたら薪(枝)は尽きる。今日は休みという日に薪ストーブ小屋で読書するのも楽しいかもしれない。さて、どうする?

 

  D.G.ハスケル[著]『木々は歌う  植物・微生物・人の関係性で解く森の生態学』を昨夕、読了した。本書の紹介文にある「1本の樹から微生物、鳥、ケモノ、森、人の暮らしへ、 歴史・政治・経済・環境・生態学・進化すべてが相互に関連している。失われつつある自然界の複雑で創造的な生命のネットワークを、時空を超えて、緻密で科学的な観察で描き出す」 という説名で尽きている。

 思わぬところで、川端康成の『雪国』が参照されていた。特にこの小説の最終場面が始まるきっかけの記述を廻って。「世をすねた島村は、木々の鳴る音にまじって足音を聞きつけると、人間どうしの関係に背を向け、冷たい夜陰に身をにじませていく。世界から零れ落ち、孤独な空虚へと吸い込まれていくのだ。」ここをハスケルはどう扱っているかはネタバレなので書かないが、大好きな小説『雪国』を久しぶりに読み返したくなった。

 詩文のような記述に読み浸る。例えば、「樹木は移動ができないだけに、放浪する動物などよりはるかにしっかりと、自分が地球のどの位置にいるかを自覚していなければ繁栄できないのだ。樹木は生物界のプラトンだ。対話を通じて、木々こそが、この世の美と善とに、美しさの面から、また倫理の面から審判を下すのに最適の位置にあることを示しているのだ。」この一文には前後の脈絡がある。その辺りを読んだうえでこの一文に至ると、感懐深くなるわけである。

 とにかく付箋だらけになる。随所で関連の事象を調べてしまう。

「都会の音は、発達した感知機器と結びついて多くの生物を惑わしている。電線やトランスミッターだらけの都会では、いままで聞いたこともないような電磁波の波が田園地帯より強く漂い、これが鳥の磁覚(コンパス)を惑乱する。電波の靄のなかでは、鳥はどこをどう曲がっていいかがわからない。ディーゼルの煙は花の芳香物質を束ねて縒り合わせ、ミツバチを酔わせる。」以下、都会での生物たちにつらい現実をこれでもかとハスケルは語る。

 本書の最後の章は、「ゴヨウマツ」を巡っての話だ。原爆と盆栽の木であるゴヨウマツとが深い関りを持って描かれる。詳しくは書かない。最後まで読み応えのある記述が続く。本書はジョン・バロウズ賞受賞作だとか。あのバロウズだろうか。バロウズの本を吾輩は追っかけみたいに読んできたものだ。その賞を受賞したのも頷ける。

 

 ← 岡谷 公二 著『アンリ・ルソー 楽園の謎』( 平凡社ライブラリー ) 「ゴーギャンなどの画家、ジャリやアポリネールらの詩人、そしてシュルレアリストに熱讃された画家ルソー。死後ますます評価の高まる画家の、「幻視のリアリティ」の秘密に迫る唯一の評伝

 

 岡谷公二 著の『アンリ・ルソー 楽園の謎』を昨夜半過ぎ読了した。本書は、古書店で発掘した。名前を目にした瞬間、手にしていた。画集で、あるいは展覧会で楽しめばいいのだが、どんな人生だったのか、興味が湧いてしまった。

 好きな画家は内外を問わず少なからずいる。初めて好きになったのは、ゴッホだったかムンクだったか。やがてエゴン・シーレやルドン、クレー、清宮質文、ヴォルス、松本竣介と加わっていった。そのどれも異彩を放つし個性的だ。

 だが、好きとか何とかじゃなく、見た瞬間からそれはその人だけの世界だと思い知る画家がいる。それが、デルボーとこのアンリ・ルソーだ。別にこの二人が似ているとか共通するものがあるとかじゃない。それぞれに確固とした世界があり、その作品を見た瞬間、その人だと気付かさせる。夢の中なのか。現実なのか。その境が分からない。ある日常の中の一場面を辿っているはずなのに、気が付いたら夢幻の世界に迷い込んでいる。メビウスの輪のような現実。彼の絵に感想など要らない。というか評する言葉が見つからない。本書を読んで、少しはルソーが分かったと言えるだろうか。分からない。むしろ謎が深まったような気がする。なぜ、ルソーはあんな絵を描くのだ?

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