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2022/02/03

東京マラソンに絡む繰り言?

Takahasi ← 高橋尚子選手が先頭集団にいる! 足の筋肉を見よ! (画像は、「東京国際女子マラソン…感動のラストシーン」より)

 石原慎太郎氏が亡くなられた。さすがに追悼の特集がテレビでも盛んにされていた。
 吾輩は思想的に人間的に同氏が好きではないので、今ここであれこれ言うつもりはない。
 同氏が東京都知事だった頃は未だ東京都に在住していた。同氏が知事ということで鬱陶しい思いをしていたことを思い出す。


 さて、ちょっとだけ同氏に絡んで残念な思い出がある。それは吾輩の好きなマラソンに関わること。吾輩は、青梅マラソンなど若いころはマラソン大会に出場して楽しんだものだ。
青梅マラソンの思い出(前篇)」(2010/02/23)
青梅マラソンの思い出(後篇)」(2010/02/24 吾輩の雄姿がチラッと…)


 同氏は、2007年に始まった東京都で行われる東京マラソンに当時の東京都知事の石原慎太郎が主導的役割を果たされた。
「東京都心部で行われていたマラソン大会は、「東京国際マラソン」(男子)と「東京国際女子マラソン」、一般市民ランナー・障害者向け10kmロードレースの「東京シティロードレース」があった」。それらを一つに統合して、東京マラソンが企図され実現に至った。その経緯などは「東京マラソン - Wikipedia」などを参照願いたい。


 その統合された、「東京国際女子マラソン」の「コースは国立霞ヶ丘競技場をスタート・ゴールとして(第12回大会を除く)、大森海岸交番前を折り返す42.195 km」である(詳しくは「東京国際女子マラソン - Wikipedia」参照)。
 実は吾輩は、1990年頃より2008年2月まで、東京は大田区の大森界隈に住んでいた。マラソンの折り返し点である大森海岸交番へは歩いて10数分か。何度か折り返し点近くまで見物に行ったものである。


Tanigawa ← 余裕で(?)復路を走る谷川 真理選手。彼女は往路の選手らに声を掛けていた。太ももの絆創膏が痛々しい…。(「06東京国際女子マラソン…やるだけのことはやったのだ!」参照)

 

 特に思い出深いのは、間近で高橋尚子選手や谷川真理選手らを目にできた05年や06年の大会。07年は、仕事の関係で泣く泣く観戦を断念した。08年の2月には東京を離れた吾輩にとって、東京在住最後のチャンスだったのだが
 それが近い将来の東京オリンピックを見据えて、走るコースが変更されてしまった。自宅から自転車なら数分で行ける場所である折り返し点で、往復の2回、選手らの頑張りを観戦できていた。
 尤も、新しいコースも自分には感慨深い場所。レインボーブリッジの袂近く(港区海岸)に吾輩の通った会社があったし、居住地は港区高輪だった。

 お台場へは、特に整備される前はバイクで何十回と向かった。当時は、空き地がほとんどで、整備された土地も芝生状態。その芝生は広々としていて、寝ころがって読書したりした。折々、プラスチックの玉を撃つ対戦ゲームをする連中が出没したものだった。そんなのどかな(?)自由感溢れる場所だったのだ。いずれにしても、お台場もレインボーブリッジも、更には都心だって馴染みの場所ではある。ただ、平和島は観戦に便利だったというだけのことだ。

 

東京国際女子マラソン…感動のラストシーン」(2005/11/21)
06東京国際女子マラソン…やるだけのことはやったのだ!」(2006/11/19)
ドキドキしてきた週末でした」(2007/11/20)
最後の東京国際女子マラソン」(2008/11/17)
マラソンの思い出…恋」(2008/07/22)

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