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2022/02/06

おのぼりさんだったなー

Simamura ← ポール・ヴァレリーの「ドガ ダンス デッサン」を読んでる。踊り子のデッサン。ヌードも多数。時代は印象派だったが、ドガはレンブラントやアングルを評価してた。さて画像は、島村信之氏によるものか(かなり画質は落としてる)。現代は抽象表現などを経て、超リアルな表現に。写真では捉えない、肉眼だからこそ欲するリアル。 我々は、いや吾輩はリアルにすがりたいのか? 「島村 信之 | Gallery Suchi (02/04 02:15) …あるいは自らへの問い掛けが、それとも自らへ向き合う力そのものが弱ってしまっているのではないか。

  読書メーターのつぶやきに、「Spanish Moss (サルオガセモドキ)」が! 懐かしい。この植物……エアープラントをイメージの柱に小説を書いた。原稿用紙換算で900枚まで書いて頓挫。題名は、ズバリ「スパニッシュ・モス」。原稿は何処かに仕舞い込んで。データのディスクも原稿共々、引っ越しの際に行方知れず。(02/05 16:29)

 後日調べたら、こんな日記が:「苔の花…スパニッシュモス」(2005/06/12)

 ブライアン・グリーン著の『時間の終わりまで 物質、生命、心と進化する宇宙』(青木 薫訳 講談社)を読み続けている。

「なぜ物質が生まれ、生命が誕生し、私たちが存在するのか? 進化する宇宙は私たちをどこへ連れてゆくのか? ビッグバンから時空の終焉までを壮大なスケールで描き出す!」って本。著者は量子物理学の専門家。専門的な内容を噛み砕いて……と思ったら、大違いだった。いい意味で裏切られた。視野の広さ造詣の深さ、考察の鋭さ、素養の豊かさ…… (02/03 21:16)

 

 「北京オリンピックのスノーボード代表、芳家里菜選手が3日の練習中のけがでけい椎損傷と診断され、大会を欠場することになりました。」(NHKニュースより) 着地時の転倒? 心配。雪質は関係ないよね。 (02/04 01:07)

 

 世は鎌倉時代か? 大河は観ない。でも、鎌倉へは何度か。東京に転居して初めて訪れた観光地が鎌倉だった。大仏さんとかあちこちうろうろ、とある骨董店へ。店先の刀……真剣にしびれ、買うかどうするか迷った。 (02/05 16:08)
 迷った挙げ句、50万円はフリーターの自分には贅沢だと諦めた。高校時代から持ってる木刀で我慢。今も木刀は健在。
 思い出した! 上京間もなく、皇居の周りを歩いていた。なんと、木刀を手にして。勿論、袋に入ってる。と、声をかけられた。振り向くと、警察官。それは何だと。成る程、皇居の周りで刀っぽいものを手にして歩いてたら、不審者だよね。我輩は全く気にせず出歩いてた。目的や動機は分からない。当時の日記を開けば分かるかな。
 もし、刀……真剣を持ってたら、刀を手に皇居の周りを歩いてた? まずい。ちょっと署まで御同行を だった?
 つくづく、おのぼりさん だったんだなー と思う。(02/05 20:43)

 

Dogas ← ポール・ヴァレリー 著『ドガ ダンス デッサン』(塚本 昌則 訳 岩波文庫)「ドガの肉声を交えた、ヴァレリーの美術論。幻の初版でのみ知られる、ドガのダンスのデッサン五十一点を掲載。[カラー版]」

  ポール・ヴァレリー 著の『ドガ ダンス デッサン』を読了。読み終えたというか、仕事の合間にヴァレリー のまさにデッサンするかのような文章に溜息しつつ、ドガのデッサンを眺めていたというべきか。
 清水徹訳の筑摩書房版では、「20世紀最大の批評家ヴァレリーが、強い精神の力を持って自ら志向するものへと深くきびしくつき進んでいった画家ドガの「肖像」を、デッサンとは何かをはじめとして、多彩な32の断章によって見事に刻み上げた円熟期の傑作」とある。ヴァレリーに比重を置いている。塚本訳では、「ドガの肉声を交えた、ヴァレリーの美術論。幻の初版でのみ知られる、ドガのダンスのデッサン五十一点を掲載。[カラー版]」と、カラーであり、ドガのデッサンに重きを置いている。吾輩は両者を右往左往していた。ドガは印象派と位置付けられているが、我輩には、エドガー・ドガ(1834年 - 1917年)はアングルを高く評価していたというし、何故そうなのか理解できなかった。
ドガの作品にはバレエを扱った主題、ことに楽屋や練習風景、舞台袖といった一般人では出入りできない場所での場面を描いたものが多い。」それは、「オペラ座の定期会員になってい」て、「座席を年単位で購入する定期会員は、オペラ座の楽屋や稽古場に自由に立ち入ることが許されていた」からである。稽古はもちろん、『浴盤』なる作品があるように、丸裸での様々な姿も存分に描けたようだ。
「デッサンは、簡便な絵画の試作・下絵であるだけでなく、絵画の基本的な習熟の手続き」として大切な過程で、デッサンの習熟は絵画への土台となる。バレエやダンスなど踊り子らの絵画作品は一般にも知られている。同時にあくまでもデッサンに拘るドガでもあったようだ。踊り子に執心することで、あくまで動きや息衝きの瞬間を切り取りたいという強い願望があったと感じる。踊り子は静物ではなく、まさにいま生きている、動いている、命の躍動を呈して、その熱さはどこまで追っても追いきれない。が、だったら、ドガの生前使われ出していた写真はどうだ。当時はまだ写すのに手間取っていて、デッサンには敵わないものの、遅かれ早かれ写真の瞬間切断力は圧倒的だろう。では、人間が描く、デッサンすることの意味は何処にあるのか。それは、カメラにしてもファインダーのこちら側には人間の肉眼、捉えんとする意志があるように、つまるところ、対象を時よ止まれとばかりに自らの美感が欲する瞬間を切り出さんとする意志以外の何物でもないだろう。
 その裏側、ヤヌスの双面神のように、ドガの孤独が張り付いている。ヴァレリーはむしろ、ドガに強靭な孤独を嗅ぎ取ったのだろう。「ドガはいつも自分g独りだと感じていて、それも孤独のあらゆるあり方において独りだった」とした上で、ヴァレリーは、「ある種の探究は、要求することが無限にあるために、その探究に乗り出す者を孤立させる。その孤立が感じ取れないこともある。だが、自らを深化させる人間は、いくらひとに会い、彼らと会話を交わし、議論をしても、結局は自らが本質と思うものだけをとっておき、自分の大いなる構想には無用と感じるものしか他人には打ち明けない。」そう、大いなる構想は作品の中に、制作する過程の中に息衝くしかない、そのことを知るのがドガであり、ヴァレリーなのだということだろう。(02/07 19:)

エドガー・ドガを解説 - 踊り子を描いた画家 | 黒猫の美術教室」などを参照のこと。

 今朝はカーテンを開けたら、いきなりカラスと野鳥との壮絶な空中戦が。ムクドリ(?)をカラスが執拗に追っている。ムクドリも必死。対決したらカラスには敵わないだろうが、ムクドリのほうが小回りが効く。急旋回して何処かの繁った木立ちに紛れ込む。(02/03 13:39)
 鳥達は夜陰に紛れて(?)ひもじさに一晩を明かす。夜明けとともに餌探し開始だ。雪解けで畑や田圃の土が顔を出してる。啄む鳥達。が、冬なのだ。木の実も少ない。昆虫も蚯蚓も土の中。となると、狙うは弱い相手。逃げ惑う鳥を追うしかない。
 昔、某駅前でハトとカラスの戦いを観た。ハトが駅前の舗道に何かを見付けた。地上すれすれに滑空。車道を横断して。突然、何やら鈍い音が聞こえたような。車に牽かれた? が、車が行き過ぎると、ハトの姿が見えた。無事だった?
 違った。何処か接触したのか、ヨロヨロしてる。負傷したのだ。路肩に寄っていく。すると、黒い影が。カラスだ。目敏くも格好の獲物を見付けたのだ。ハト 目掛けて一直線。ハトもカラスの気配を感じたのか、弱った体の余力を振り絞って舞い上がった。が、
 普通なら逃げ切れる……簡単には追い付かれたりしないはずが、弱った体ではカラスにたちうちできない。車に接触した地点から数十メートルも離れていない地点でハトは……(02/03 13:57)

 

 ゲーテの「若きウェルテルの悩み」の感想が。懐かしい。高校時代、片想いの人がゲーテの詩が好きだと知り、柄にもなくゲーテの詩集を、更には「若き……」をせっせと読んだ。憧れを知る者だけが……。詩集も小説も右の耳から左の耳へと素通りしていって、そこには風の音さえなかった……。所詮は我輩は縁なき衆生なのさ。(02/03 17:21)

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