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2021/09/26

東海道中膝栗毛踏破 ? !

Nihonsi ← 播田 安弘著『日本史サイエンス 蒙古襲来、秀吉の大返し、戦艦大和の謎に迫る』(ブルーバックス)「蒙古は上陸に失敗していた! 秀吉には奇想天外な戦略があった! 大和には活躍できない理由があった! 日本史の3大ミステリーに、(中略)船舶設計のプロが挑む。リアルな歴史が、「数字」から浮かび上がる!」

 

 今日26日(日)は休み。予報では夕方まで雨…のはずだった。ということは庭仕事は堂々休める。と思ったら、昼下がりには雨が上がった。やるっきゃない。今日は裏の庭の庭木の剪定。脚立を持ち出して、剪定ばさみや高枝切鋏などでドンドン伐採していく。落ち葉の季節の前にすっきりさせたい。落ち葉掃除の大変さを想えば、数日の作業も時折の雨も苦にならない。でも、汗だく。夕方6時を回ると、すっかり宵闇。暮れるのが早くなった。何処となく心淋しい。人恋しい。
 ところで、今日気が付いたのだが、我が家には棕櫚が3ペアある。表と、裏へ続く通路際と、裏庭それぞれに1ペアずつ。が、今日見たら裏庭には棕櫚は一本しかない。おかしい。昨年はここもペアだったはずなのに。

 播田安弘著の『日本史サイエンス 蒙古襲来、秀吉の大返し、戦艦大和の謎に迫る』を仕事の合間の楽しみに読んできて、今朝未明読了。
【謎の一】蒙古軍はなぜ一夜で撤退したのか? 船舶設計のプロが蒙古軍が上陸を図った博多湾の水深などから一日では上陸は難しいし、上陸地そのものが博多市街から遠い浜だったと推認。鎌倉武士は、一騎打ちではなく、集団騎馬突撃で戦った。そもそも、蒙古軍は海を超える時点で船酔いなどで体力を消耗していた。さらに、台風の季節が近づいていて、まともに戦う前に退去する必要があった、とも論じる。
【謎の二】秀吉はなぜ中国大返しに成功したのか? 本能寺の変のとき備中高松城にいた羽柴秀吉が、変を知るや猛スピードで2万の大軍を率いて京都に戻り明智光秀を破った「中国大返し」はなぜ実現できたのか?が問われる。膨大な兵站などから短時日では無理で、船を使うのも現実性が薄い。そもそもあったのかどうかが疑わしい。実現できたとしたら、光秀の変を事前に察知していて、予め要所に兵站を用意していたと考えるしかない。(これは吾輩の憶測だが、光秀が三日天下に終わったのも、口を封じるため光秀を早急に始末する必要があったのかもしれない。)
【謎の三】戦艦大和は「無用の長物」だったのか? 大和は使い道はあったのに、出撃を逡巡するうち、その好機を失った。結果、大和と共に艦隊を構成すべき巡洋艦や駆逐艦が失われた。大和の装備や大砲などは素晴らしい技術だ、などと縷々書いてあるが、何か繰り言に感じられ、説得力が乏しかった。(吾輩の感想だが、孤立無援の大和は悲劇の光に包まれ、宇宙戦艦ヤマトとしてロマンの中に息づくしかなかった。日本軍の愚行の美化だ。)

 

Kurige2 ← 十返舎 一九 作『東海道中膝栗毛 (下)』(麻生 磯次 校注 岩波文庫) 「しくじりや滑稽を重ねつつ,にぎにぎしくも東海道を桑名まで上ってきた御両人,ここからはお伊勢さまへと鼻先を向ける.(中略)こうして大坂まで,古典のもじりから地口・洒落のたぐいが全篇をおおい,珍しい風俗も挿絵を添えて紹介されてゆく」

 

 十返舎 一九 作の『東海道中膝栗毛 (下)』を24日(金)読了。車中にて。
 上巻を読み始めたのは十日頃か。コロナ禍で旅行も行けない中、せめて本の上で長旅気分と読み出した。94年頃、新潮社の文学全集の中の一巻を図書館から借り出して読んだっけ。長いとは到底言えない2週間ほどの旅も明朝には草鞋を脱ぐことになりそう。徒歩での長旅など今生 やることはないだろう。東海道は、新幹線やバイク(高速道)でなら何度か。夜行や寝台車でも通過したことはある。当時は日に30キロから40キロは歩いたとか。歩くのは明るいうちだけ。一日だけでも無理。明治の初期まではそうだった。想像するなんて無理。久しぶりに芭蕉の旅…奥の細道の旅を追体験してみるかな。勿論、本の上で!
「「膝栗毛」とは、自分の膝を馬の代わりに使う徒歩旅行の意である。」
「文才とともに絵心のあった作者による挿絵が多く挿入され、江戸時代の東海道旅行の実状を記録する、貴重な資料でもある」
「弥次郎兵衛(やじろべえ) 東海道の旅に出発当時数え歳50歳(満49歳)。屋号は「栃面屋」。肥っていて、作者によると「のらくら者」「ただのおやじ也」という。作中では下俗で軽薄な性格設定がされているが、一方で楽器を演奏し、古今の書籍に通暁し、狂歌や漢詩、また法律文書も自在に作成するなどきわめて教養の高い人物として描かれる。駿河国府中出身、実家は裕福な商家であったが遊蕩が過ぎて作った借金がもとで江戸に夜逃げ(中略)江戸では神田八丁堀の長屋で密陀絵などを製作して生活していた。」
「喜多八(または北八)「きたはち」 出発当時数えで30歳(満29歳)。弥次郎兵衛の居候。元々は弥次郎兵衛の馴染みの陰間であったが、弥次郎兵衛とともに江戸に駆け落ちしてくる。ある商家に使用人として奉公したが、使い込みをした上に、女主人に言い寄ろうとして嫌われ、解雇されて行き場を失い、弥次さんとともに旅立つ。」
「一九は、頻繁に取材の旅をしたが、京都は未見で、『名所図会』などによったのではと言われる。狂歌が多くはさまれている。狂言、浄瑠璃、歌舞伎、浮世草子、落語、川柳などに関する彼の素養が、篇中に生かされている。長編としての一貫性がととのっているとは、言い難い。」
「名香「黄熱香」は十度焚いても香を失わないところから、「十返しの香」とも呼ばれる。後の筆名「十返舎」はここから、「一九」は幼名の市九から来ている。」
 一日 30キロから40キロ歩いた。日没前に次の宿場(宿)に。以上は、Wikipedia より。

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