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2021/07/08

ピンチョン『重力の虹』をじっくりと

Ame ← 『20世紀アメリカ短篇選 上』(大津 栄一郎 編訳 岩波文庫)「オー・ヘンリー,ドライサー,ロンドン,フォークナー,スタインベックら,主として20世紀前半に活躍した作家達の秀作を収める。(中略)鮮かな人間描写で20世紀前半のアメリカ社会をも浮彫りにする短篇集」

 

 家では日々、ピンチョンの『重力の虹(Ⅱ)』を読んでいる。日に読めるのは、せいぜい30頁余り。読書のペースとしては落ちている。が、とんでもない怪作を読むという稀有な体験をしている。ゆっくりじっくり楽しむ。

20世紀アメリカ短篇選 上』を仕事の合間に読んでいる。

 2作目は、イーディス・ウォートンの「ローマ熱」。未知の作家。自慢の子を持つ夫人二人が避暑地で退屈な時を過ごす。一人は話すこともない所在無さに編み物してる。物語の初めは短調で退屈……余程 次の作品に飛ぶかと思ったくらい。が、我慢して読むと……そうか、初めチョロチョロ中パッパだったんだ。嵐の前の静けさ。二人の若い頃の若さ、若さの持つ浅慮 過ちが深く交錯して……。恋する情熱の過ち……その傷が泰平なはずの今になって痛いほどにぶり返す。傑作かどうか分からんが、印象に残る作品だった。

 

 3作目は、セオドア・ドライサー「ローゴームと娘テレサ」。初めての作家。思春期で恋(心)に目覚めたテレサ。親達は娘が傷物になるのを怖れる。一方、娘は遊びたい恋したい。ある日 遊び人の若い男と知り合う。当人同士は真剣なつもり。男何とか娘をものにしたい。娘は、親達との板挟み。それでも男に惹かれる心は抑えられない。男親は、遅く帰った娘に怒り、家の鍵を閉め、娘を締め出す。罰のつもり。が、そこへ若い男が。彼は娘を連れ出す。そのうち親達は娘が居ないことに気付く……。町中を探すも見付からない……。

 4作目は、ジャック・ロンドン「生命の法則」。原題直訳の題名。テーマは、自然の法則、あるいは摂理。自然界に生きるものたち誰しも逃れられない自然の厳しさ。それは人間も例外ではあり得ない。どんな動物も子を為したあとは、遅かれ早かれ他の生き物に倒され喰われ、骨と毛とが残るのみ。ジャック・ロンドンらしい、それが当然だという淡々たる叙述が好ましい。

 

 5作目は、シャーウッド・アンダソン「手」。過去の亡霊に追われて怯え殆ど誰にも心を閉ざす男。彼の手には秘密があった。何故か手を隠しがち。彼は嘗て優しい教師だった。子供たちに優しく語りかけ、肩を撫で髪をさすったりした。指先の愛撫は子供たちの心を解きほぐした。が、ある知恵遅れの子の妄想が悲劇の発端となった。彼は先生に魅せられ、あろうことか先生に不埒なことをされたと、さも事実だったかのように語りだした。先生の優しい振る舞いは、実は子供らを危うくする危ない振る舞いはだと、一気に評価が変わった。先生は忌まわしい奴だと親達はその教師に暴力を振るい、学校から叩き出した。彼の優しい手は、父親達は引っ込めておかなきゃならないものになってしまったのだ。彼は何が何だか分からないまま、できるだけ手を隠そうとする……優しさを隠そうとする怯えるばかりの人間になっていた。
 本作の終わりの場面は切ない。こんな終わらせ方なのかと、作者に助けを求めたくなるほど切ない。

 6作目は、キャサリン・アン・ポーター「あの子」。貧しい夫婦。3人の息子。上の二人は普通だが、末弟は健常者ではない。母は末弟を上の二人より愛す。あの子がああなのは私のせい……。誰にも後ろ指 指されぬよう頑張るも、冬のある日 末弟は引き付けを起こす。医者も見放し施設へと勧める。母は拒むもどうしようもなくなる。父はあくまでクールに妻や子らを見守る。父親と母親の姿勢の違いが切ない……

 

 7作目は、ジョン・ドス・パソス「メアリー・フレンチ」。不況下のアメリカ。今もだが嘗てのアメリカも貧富の格差が深刻。(一部の)アメリカ人の忌み嫌う左翼やら社会主義やら労働組合運動などが勢いを持つかのような時期の話。別に主義がどうとかじゃなく、貧富の絶望的な格差に憤る気持ちだけで活動の手伝いをしている女性。が、運動の渦中にあると、想像を絶する軋轢に苦しむし、悩む仲間の姿を目の当たりにする。殺されたり自殺したり男女の悶着は理想を追っていたって日常茶飯事。何をやってるやら分からなくなる。酒と睡眠薬だけが頼りになってしまって……

 

Kemusi ← 庭先で見慣れない毛虫。キンエノコロかネコジャラシに似ている。可哀想に何処へ行けばいいか途方に暮れてる。スジモンヒトリではという指摘を頂いた。参照:「スジモンヒトリ本土・対馬・屋久島亜種

 

 

 「ドン・キホーテ」を読むと誰しも逃れられないに駆られるだろう。それは正気と狂気の境は奈辺にありや、そもそも己れがまともな……健全な精神の持ち主だと、何を以て、あるいは誰が保証するのか。読めば読むほど魂が宸翰となり本がある。ダニエル.パウル・シュレーバー「ある神経病者の回想録」(講談社学術文庫など)である。誰よりも明晰な知性の持ち主であるシュレーバーの回想。明晰判明は健全なる精神の保証たりえないとしたら……あなたならどうする?どう正気だと証明する?

 

Suga_20210708052501 ← 『須賀敦子が選んだ日本の名作: 60年代ミラノにて』 (河出文庫) 「須賀の編訳・解説で60年代イタリアで刊行された『日本現代文学選』から、とりわけ愛した樋口一葉や森?外、庄野潤三等の作品13篇を収録。解説は日本人にとっても日本文学への見事な誘いとなっている」

 

須賀敦子が選んだ日本の名作: 60年代ミラノにて』を自宅で読んでいる。

 

 第7作目は、太宰治の「ヴィヨンの妻」。主人公は、大谷! 断っておくが、あの大谷翔平とは関係ない……が、妙に明るく読んでしまった。しまった!

 

 8作めは、林芙美子「下町」。りつは、シベリアから戻らない夫を、七才の男の子を連れお茶の葉を行商しつつ待つ。ふとした切っ掛けで気立てのいい一人暮らしの男と知り合った。男は実はシベリア帰りだった。気の合う二人。雨の日、子供も一緒に3人で浅草界隈で映画を観た。立ち見。子供も疲れ女は仮の宿の塒に帰る気がせず、男にこの辺りに宿はないかと訊ねる。二人で探し、とある旅館に3人で泊まる。ラーメンで空腹を満たす。子を挟んで3人は川の字になって寝る……結ばれる。

 

 9作目は、三島由紀夫「志賀寺上人の恋」。「太平記」中の記述を基にする。が、例によって三島独自の観念的妄想。高徳の老僧は杖を頼りにようやく歩く骨と皮だけのような存在。ひたすら脱俗解脱の果ての浄土を請い願う(浄土の様を三島は「往生要集」の記述を援用して描く)。誰もが徳を認める都でも知られた高僧。志賀の里にある僧院に都(京極)の御息所が花見に訪ねる。老僧は、その美しき御息所に一目惚れ。ついには我を忘れ、杖を突いて都の御息所の元へ。

 

 本書十作目として、「楢山節考」で有名な深沢七郎の「東北の神武たち」を読んだ。貧しい農村。その中でも最貧の農民が主人公。ろくな土地もなく嫁の来ては期待できない。村でもバカにされている。貧困は性的飢餓を意味する。ある理由(親の不始末で罪を癒やすため遺言で)で某農家の女は村の全ての男を毎夜 夜毎に夜這いを受け入れなければならない。全ての男……。だが、主人公の彼だけは嫌だとかの女は拒否する。男たちは次々に夜這いする。だが、やがて、彼だけは拒まれていることが皆に知られる。
 そんな中 彼の父は知り合いの主婦に奴の相手を1回でいいから頼まれる。が、彼の苦境を知った村の老婆が彼が可哀想だと、自分がひと肌脱いでやると彼に迫ってくる。あの頼まれた主婦がやってこようとする晩のことだ。彼は一晩にして二人の<女>に持てることになった!?

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