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2021/06/03

ヴァージニア・ウルフ 作『オーランド―』の周辺

Orland ← ヴァージニア・ウルフ (著)『オーランドー』(杉山 洋子 (翻訳) 国書刊行会)「両性具有の詩人オーランドーの伝記の体裁を取りながらV・ウルフが仕掛けた、無数の隠し絵を読み解く楽しみ。ウルフ文学の中で異彩を放つ、遊び気分にあふれた、麗人の冒険を描くファンタジック・ロマンス」

 昨日午前、水道メーター周辺の水漏れが工事された。吾輩は、徹夜仕事からの未明の帰還ですっかり寝ていて工事には気付かなかった。午後4時過ぎ、庭仕事を始める際に、現場を見て回った。乾いていた。漏れが改善されたと理解する。現場を掘り返した土が我が家の土地(庭)に積み上げられていた。

 

 ヴァージニア・ウルフ 作の『オーランドー』を読了。本文は昨夕読了したが、昨日の庭仕事に疲れ果て、解説というのか、訳者による「隠し絵のロマンス」を読むのに日付を超えてしまった。初めて本作を読む方はこの充実した一文を読んでからがいいかもしれない。ちなみに、吾輩は読了の後に読んで、しまった、惜しいことをしたという思いをした。この解説を読んだからといって本作を理解できたとは到底言えない。一度じゃ無理だろうし、他の作品も併せ読んだほうがいいかもしれない。
 と云いつつ、大好きな彼女の日記を始め、それなりに何作かは読んできた吾輩だが、作品を楽しめたが理解できたかと問われると、覚束ない。楽しめたんだから、それでいいじゃないか、とも云えるか…。
 本訳書は、1983年に「世界幻想文学大系」において最初に刊行され、92年に新装版が発行。吾輩は、先月だったか、古書店で発掘した。単行本を入手できたことはラッキーだった。

 若きガルシア=マルケスは、「ダロウェイ夫人」に学ぶところが多かったと言うが、「百年の孤独」を読むと、「オーランド―」なる小説の自在な展開に一層影響されたのではないかと感じる。「オーランド―」は、「自らの恋人であったイギリスの詩人ヴィタ・サックヴィル=ウェストをモデルとした半伝記的な物語」であり、「女性の作家がジェンダーを直接的に扱った作品として『オーランド』の題名は女性文学史においてその名を馳せている」なんてことはしばしば目に触れる言説である。「主人公の青年貴族オーランドーは、エリザベス1世統治下のイギリスで生まれ…(中略)…船員とのやり取りを通じてオーランドーは自らが女性に変身したことを自覚し、女性であることの歓びを覚える。 そして、18世紀・19世紀のイギリス社交界に舞い戻ったオーランドーは、(中略)文学的に成功し、女性としての地位も築いたオーランドは、結婚・出産を経験し、女性として余生を送る」といった作品。
「オーランド―」は、1928年に出版されたヴァージニア・ウルフの小説。当時はどういう時代だったか。物理学では、アインシュタインやハイゼンベルク、ディラックらによる、量子力学の勃興期だった。光の粒子と波との二重性がようやく量子力学で一定の決着を見た。「シュレディンガーの猫は、1935年にオーストリアの物理学者エルヴィン・シュレーディンガーが発表した物理学的実在の量子力学的記述が不完全であると説明するために用いた思考実験」で、このパラドックスがウルフに影響を与えたはずもないが、量子論の齎した衝撃は、ピカソらの活動に影響を与えていた。時代の最先端の科学の動きは知的革命として、世界の認識の転換を余儀なくさせただろう。
 折しも現代において「過去、性別は身体の形状や、性染色体によって決定される一意的なものと考えられてきた。しかし、先天的に染色体、生殖腺、もしくは解剖学的に性の発達が非定型的である状態にある性分化疾患の症例を研究するうち、性分化疾患の場合、身体の性と性同一性はそれぞれ必ずしも一致しない場合があることがわかった」という認識は、ようやく近年、理解が深まりつつある(但し性同一性障害は差別用語という指摘がある)。ウルフに限らず性同一性の違和感を覚えて生きざるを得なかった先覚者は、メカニズムが理解できようが、肉体は、男性女性の二重性を我が身の問題として自覚を迫られただろう。ジェンダーフリーではなく、桎梏としてのジェンダーパラドックスだったわけだ。

 量子力学の示す光…物質の粒子と波の二重性という謎めいた性格。作家に限らず、心身に桎梏とジレンマを抱える人間は、ある種の芸術的可能性を予感させられるのではなかろうか。物理学の門外漢だろうと、パラレルワールドを妄想させ、男性女性という縛りを揺るがせる何かへのヒントが示されているという予感。世界を認識する自由度、表現する自由度の猛烈な拡大。プルーストやジョイス、そしてウルフなのである。
 本作は、あまりに多くの要素がぎっしり盛り込まれている。一筋縄でいくはずのない作品。ジェンダーフリー的に自由自在を生きているようでいて、社会という偏見の桎梏という巨大な闇の海にあって、本作のような翔んでいるふうな自由さが描かれている一方で、現実には決して偏見からフリーに生きるなどはできない。伝記を装った物語として描くことも、当人としては楽しんで書いているようで(実際、楽しめるのだ)、その実、強烈に粘る海を懸命に泳ごうとする苦しさを感じてしまう。
 余談になるが、小説(文学)においてというわけではないが、男性として抱く一番の謎は、女性が男性を愛することである。男性たる吾輩は同性を愛するなど経験はない。というか、偉業を為す人物への畏敬の念、信頼できる人物への尊敬の念などは別にして、日常男性に関心を抱くことはない。が、女性は男性を愛する。どうして男が好きになれるのか、謎なのである(あるいは女性も、なぜ男性が女性を愛するか、欲するのか謎なのだろうか)。小説でも、男性作家の描く女性像に違和感を覚えることが多い。作品として好きなのだが、違うだろうと、突っ込みを入れたくなることがしばしば(有島武郎『或る女』モーパッサン「女の一生」フロベール「ボヴァリー夫人」トルストイ「アンナ・カレーニナ」イプセン「人形の家」などなどは繰り返し読んできた)。だからといって自分自身、女性理解が深いわけでもない。だから、あるいは庭も関わらず女性(作家の作品)への関心は深い。女性は女性自身をどう理解し描いているか知りたくてならないのだ。


 以下、過去曲がりなりにも読んできた女性作家の数々。あまり多いとは言えないか:


ジェーン・オースティン、ジョージ・エリオット、ヴァージニア・​ウルフ、ブロンテ姉妹、メアリー・シェリー、アガサ・クリスティ、ダフネ・デュ・モーリア、マーガレット・ミッチェル、アリス・マンロー、トニ・モリスン、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ、カーソン・マッカラーズ
小川洋子、樋口一葉、石牟礼道子、円地文子、小野不由美、角田光代、川上弘美、倉橋由美子、清少納言、紫式部、谷村志穂、山田詠美、村山由佳、群ようこ、金原ひとみ、高山羽根子、幸田真音、林真理子、高村薫、河野多惠子、曾野綾子、有吉佐和子、幸田文、林芙美子

 

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