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2021/05/28

禅とオートバイと真空と…思い出せない小説

Zen ← ロバート・M.パーシグ著『禅とオートバイ修理技術〈上〉』(五十嵐 美克【訳】ハヤカワ文庫)「かつて大学講師であった著者は失われた記憶を求め、心を閉ざす息子とともに大陸横断の旅へと繰り出す。(中略)彼が探求していた“クオリティ”の核心へと近づいていく。だが辿り着いた記憶の深淵で彼を待っていたのはあまりにも残酷な真実だった…。知性の鋭さゆえに胸をえぐられる魂の物語」

 今日(28日)の報道で、我が富山県。直近1週間の人口10万人あたりの感染者数……京都府や神奈川県より多くなった。もう少しでトップ10入りの勢い。やばい‼

  26日、富山 皆既月食 期待したけど、月 曇ってて 雲による皆既月食。風情なし。ツキがありませんでした。

 我が家で一番おぞましい時間帯は、朝、それも晴れの朝。玄関は東に向いている。朝日が玄関に当たる。玄関の戸は曇ガラス。曇ガラス越しに廊下に日差し。埃が、綿埃が、これでもかと照らし出される。埃の舞うのがあられもなく浮かび上がり、眼を背けたくなる。…背けてる。

 昔……若い頃 読んだ小説の作者や題名が思い出せない。<私>は、家族と共にある病院を訪れた。入院して間もない友人を見舞いにきたのだ。当時は精神病院と呼ばれていた。陰では🌑チガイ病院と嘲られ忌避されていた。友人は何故か、医者と同じく白衣だった。一見すると医師か患者か見分けがつかない。それどころか……
 白衣の友人はとても気さくで、遊びに来た友を歓待するように、やあやあとばかりに迎えるのだ。彼の眼は私に向けられている。傍に居る両親らには、軽く会釈するだけ。私をそんなに待っていたのか……
 友人は近付いてくると、左手で私の右腕を軽く掴み、左手を私の後ろに回し、私の肩をやんわり抱いた。が、次第に私をぎゅっと抱き締めた。こんなところに入院して、さぞかし不安だったのだろう。彼は私の体を抱きながら、長い廊下を奥へ奥へと導いていく。幾度か曲がり階段を登り降りし、いつしかビルの突き当りかと思える一角へ。気が付くと両親は傍にはない居ない。
 私たちは鉄格子の部屋の前に立っていた。中は真っ暗で様子は分からない。君はこんな薄暗い部屋に? いや、そうでもないよ、中に入ったら馴れるもんだよ。ま、ちょっと入って御覧よ。気味が悪い……とは、さすがに友人の前では口に出来なかった。怖いもの見たさで、ちょっと強がって見せて、部屋に足を一歩 踏み込んでみた。すると、突如 背中でガチャンという重々しい音がした。白衣の友は鉄格子の向こうだった。隣には両親が悲しい眼をして立っていた。私は入院させられたのだ。
 思えば、友人が白衣でいたこと自体、おかしかったのだ。
(上掲の呟きに、ある方が、『ドグラ・マグラ』を想起したと。かもしれない。二度は読んだはずだが、もう、覚えていない。再読しないと。)

 ロバート・M.パーシグ著『禅とオートバイ修理技術〈上〉』を読み続けている。半ばまで読んできて、ようやく本作の面白さに気付いた……と思いたい。語り手の息子のクリスと、パイドロスが鍵なのだ。気付くのが遅い!

 飛び級で15歳で大学へという著者。
 間もなく読み終えるスタニスワフ・レム作の「完全な真空」。レムというと、「惑星ソラリス」。その主人公は、心理学者のクリス。一方、本作「禅とオートバイ……」の鍵を握る人物は、主人公の息子クリス。ただの意味のない偶然だけど、「惑星ソラリス」を再読したくなった。

 

Vacuum ← スタニスワフ・レム 著『完全な真空』 (沼野充義 /工藤幸雄/長谷見一雄 (訳) 河出文庫)「『新しい宇宙創造説』、『ロビンソン物語』、『誤謬としての文化』など、<存在しない書物>をユーモラスに読み解く究極の書評集」

 

 スタニスワフ・レム 作の『完全な真空』を今朝未明読了。「『新しい宇宙創造説』、『ロビンソン物語』、『誤謬としての文化』など、<存在しない書物>をユーモラスに読み解く究極の書評集」というもの。飛び切りの頭の回転の良さで、並の人間など論旨についていくなど不可能で、文章を読み返しても凡俗な吾輩は降り切られてしまう。
 まずは、真空という概念の理解が肝心。物理学的には:「真空( vacuum)は、通常の大気圧より低い圧力の気体で満たされた空間の状態。また物理学の理論における概念として、古典論における絶対真空、量子論における真空状態を指す場合にも用いられることがある。一般にはこの古典論における絶対真空をイメージされることが多いが、「なにも無い状態」は実現不可能である。ある容器内の中身を可能な限り排出してもゼロにすることはできず、極めて希薄な物質が残る。宇宙空間が真空とされることが多いが、そこでも希薄な物質が必ず存在している」(「真空 - Wikipedia」より)という。
 さらに、「量子論における真空は、決して「何もない」状態ではない。例えば常に電子と陽電子の仮想粒子としての対生成や対消滅が起きている」という。激しく泡立っていて、瞬間的には、膨大なエネルギーが生じることもある。そもそも宇宙は無からビッグバンで生じたとも考えられる。虚無からの創出が宇宙なのだ。
 哲学的には:「デモクリトスの原子論では、万物の根源である粒子アトム (atom) が、無限の空虚な空間であるケノン (kenon) の中で運動しているとして、真空の存在を認めていたが、アリストテレスは「自然は真空を嫌う」」としていた。
 レムはアリストテレスじゃないが、真空など認めたくはなかったのだろう。だからこそ、<存在しない書物>をでっちあげてでも文学の時空の穴を埋めようとしたのだろうか。あるいは、古今の文学時空にも穴はある。その穴の存在を示すため、空無を何処までも完璧に埋める営為を示してみたのだろうか。ドン・キホーテ的な、喜劇的な企図と言うしかない。ま、読者たる吾輩は、生真面目に翻弄されるしかないのだろう。
 思うに完全な真空と称するに値する書とは、飛ぶ鳥跡を濁さずではないが、読んだあと、記憶に何も残らない書なのではなかろうか。つまり、書き手がどんなに力んでも実現は叶わず、全ては読者に掛かっているということである。

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