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2020/12/25

今夜も一人 いつも独り

Soseki9-2_20201225195901  ← 『夏目漱石全集〈9〉』 (角川書店 1974年) 「彼岸過迄」や「現代日本の開化」「中味と形式」「文芸と道徳」などのエッセイ、日記、書簡、同時代人の批評(赤木桁平)、作品論(山田智彦)など。吉田精一:解説と注釈

 通院している内科医院。年末年始は医院は休みだし、来週前半までは拙者にも仕事の日がある。なので、少々早いが、思い切って昼頃 医院へ。患者さん 少ない。職員も少ない。閑散。薬局も暇そうだった。というか、世間は家族や仲間とクリスマスなのか。スーパーも客が少ないのは そのせいか。我輩は、普段 買わないお餅を買ってきた。数値は相変わらず高値安定。困ったものだ。

 今夜も一人。誕生日も一人。というか、いつも独り。なんて、昨夜、ついつい呟いてしまった。何人もの方からコメントを頂いた。こんなこと、公の場で呟いちゃいけないね。反省

  自宅での入浴二日目。風呂場での垢すりも久しぶり。

 角川版の『夏目漱石全集〈9〉』を読了した。2週間ほど費やして読了。ゆっくりじっくり。これで11冊。あと、4冊。だが、第11巻が欠けている。「こころ」所収の巻。我輩には「こころ」が欠けている?
 古書で全集は見つかるが、第11巻単独は見付からない。ああ、こころが見付からない。


 漱石は、「坊っちゃん」など印象的な作品はあるが、ストーリーテラーという印象は薄い。「彼岸過迄」は世評は低いか。修善寺の大患からの回復期で、期待に応えねばと漱石はかなりのプレッシャーがあったようだ。数編の短編を組み合わせて複合的に人物を描こうとする、そんな工夫を凝らしたり。その努力が実ったかどうか、危ういところだ。が、本巻を読んで感じたのは、併載されている講演集との(ある意味での)類似性。どの講演も前振りが長い。長いがいつ本題が始まるのかなと思っているうちに、気が付くと本筋の話に呑み込まれ聴衆は熱中する。余談を交えたりして客の注意を持続させつつ、みんなが乗ったところで、さっと終わる。落語か漫談を聞いたよう。おあとがよろしいようで、ってわけである。
 筋があるのだが、それよりも「書きこんで行くうちに、次第に彼本来の人生観察、心理解剖に油がのり出し、それをぐいぐいとふかく追求して行くことで、この作品の後半を奥行きのある、すぐれたものにした」(吉田精一の解説より)、その書き込みの山場にこそ漱石の真骨頂があると感じる。実際、本作の終わり方もあっけないものだった。でも、途中の熱気があったからいいかな、みたいな。

Kazan-2  ← ドナルド・キーン/著『渡辺崋山』(角地幸男/訳 新潮社)「田原藩士として武士の本分を堅守しつつ、西洋文明の正確な理解に努め、瞠目すべき写実を独創した、徳川後期有数の画家。不遇な幼少期から非業の自刃に至るまで、維新という一大革命の前夜、その文化状況の危機を象徴するかのように、時代を先駆けた崋山の運命的な生涯を等身大に活写」

 ドナルド・キーン著の『渡辺崋山』を昨夜、ようやく読みだした。崋山は幕末の偉人。気になる存在だったが、なかなか関連する本に手がでなかった。古書店で見つけた時は、あったと叫びそうになった。思いがけない出合いだった。謹厳実直の印象。だが、画家としても優れ、先人の画を模倣して描くのはもちろん、春画も熱心に模写したとか。色欲のない奴はダメだとも。昨年、惜しくも亡くなられた。遅すぎる追悼の意を込めて読む。

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