「ウィトゲンシュタインの愛人」を読みだす
← デイヴィッド・マークソン 著『ウィトゲンシュタインの愛人』(木原善彦 訳 国書刊行会)「地上から人が消え、最後の一人として生き残ったケイト。彼女はアメリカのとある海辺の家で暮らしながら、終末世界での日常生活のこと、日々考えたとりとめのないこと、家族と暮らした過去のこと、生存者を探しながら放置された自動車を乗り継いで世界中の美術館を旅して訪ねたこと、ギリシアを訪ねて神話世界に思いを巡らせたことなどを、タイプライターで書き続ける。」
お陰さまで本日は青天なり。昨日 崩した雪山の残骸がかなり融けてくれた。やはり、固まりを小さくしただけのことはあった。
今日の庭仕事。まず、駐車場の屋根に溜まっていたカエデや松などの落ち葉の払い落とし。脚立に登って。びっくりするほど溜まっていた。次は、枝葉の伐採作業の続き。まだまだ終わらない。さらに、納屋に山積みの枝葉を細かくして70リットルの燃えるゴミ用袋に積め込む作業。やることが山盛り。
明日には我が家の庭の頑固な根雪もほぼ消えそう。明日は風呂場の修理(ボイラー式からガス給油方式へ)のための工事もあるので、工事現場の片付けなど、今日は大わらわでした。雪が少なくて助かった。
相変らず漱石を読み続けると共に、デイヴィッド・マークソン 作の『ウィトゲンシュタインの愛人』を読み始めた。漱石は関西各地を訪れて朝日新聞社から命じられた講演をそれぞれの地で。講演の入り口というか、前振りが漱石らしい。落語か講談を聞くようだ。うねうねくねりつつ、気が付くと本題に入り、盛り上がり、パッと切り上げる。芸人のコツか。
さて、デイヴィッド・マークソン 作の小説は、1988年発刊の作品。なんと奇妙な小説。いや小説なのか。やたらと教養と才能と感性に溢れた、中途半端な箍の外れた認知症者が虚実混交の世界を徘徊してる?
設定は、後書きによると、「正気を失った女が浜辺の家に暮らし、日々の出来事や思い出をタイプライターで綴りながら、そこに記された言葉と自分との関係の中にある絶対的本質をつかもうとする、そんな物語」とか。
本作にはヴィトゲンシュタインの愛人は登場しない…らしい(小生は未だ読んでる途中なので断定は控える)。正気を失った女性が勝手にそう思っているのか。小説の要諦は、アウト・オブ・マインド…心から離れた状態と、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』に示される存在論にある。後者は、世界とは、(物ではなく)起きている事全てのことという定義から始まる厳格な論理構造の哲学。最後は、「語りえないことについては、沈黙するほかない」という結語に集約される。
「6.41とそれに続く命題群は、倫理もまた先験的・超越的であると論じ、言語によっては検証できないとする。それは美学の一形式であり、表現不可能なのである。自由意思、死後の生、神についてかれは論じはじめる。かれはそうした論題を検証して、そうした事柄の議論はすべて、論理の誤用であるとする」(「論理哲学論考 - Wikipedia」)。
本作の語りては、世界の生き残りであり、正気を失った女性が思い出す事思うことを綴っていく。誰に向かって、何のために。綴ること自体が目的なのか。訴える相手がなくて書くことに意味があるのか。語りえる(書き得る)のは、曖昧な記憶を頼りに思い出すこと、閃いたことの数々。傍証はあるようなないような。孤独や死の不安、神への思いなどは綴られない(今のところだが)。
正気を失ったらしいのだが、この世に一人生きて正気を失うという形容にそもそも意味があるのか。
ま、ちょっと先走ったようだ。読み終えたらまた、何かしら書いてみる。
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