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2020/11/02

終日の雨だったのだが

Douji   ← 画像は玄関の奥の廊下で、次の出番……玄関の棚という脚光を浴びる場への登場を待つ置き物

 今日はどうやら終日の雨。心置きなく庭仕事はサボれる。昨夜半過ぎに仕事から帰宅。寝たり起きたりして、ようやく目覚めた……と思う……思ったが甘かった。その後も居眠り。会社の研修会へ行ったりして、読書に専念できるようになったのは、夕方五時半過ぎから。なかなか思うようにはいかない。

 仕事の他に庭や畑仕事に精出したわりに、よく読めたかな。永らく書庫の奥に鎮座し埃をかぶったままだった角川版漱石全集を基軸に、懸案だったデカメロンも読み始めたし、久々オースターを読んだ。サイエンスものも好著に恵まれた。充実した読書と思える:「2020年10月の読書メーター

Sei ←  沢山 美果子 著『性からよむ江戸時代 生活の現場から』(岩波新書 )「小林一茶はなぜ妻との交合をつぶさに書き留めたのか。生まれた子は自分の子ではないと言い張る夫と妻の裁判の行方は。難産に立ち合った医者の診療記録にみる妊婦の声や、町人が記す遊女の姿……。史料の丹念な読み込みから、江戸時代に生きた女と男の性の日常と、それを規定する「家」意識、藩や幕府の政策に迫る」

 沢山美果子 著の『性からよむ江戸時代 生活の現場から』を読了した。仕事の合間の楽しみで読む本じゃなく、「史料の丹念な読み込みから、江戸時代に生きた女と男の性の日常と、それを規定する「家」意識、藩や幕府の政策に迫る」という労作であり、本格的な研究書。江戸時代は女性も含め、性的におおらかだとか、呆気ラカンとしているというイメージ(先入観)がある。ホントにおおらかなのか。現実は(時代によって変遷があるが)幕府の政策や、家の存続や人口増加の思惑もあって、堕胎などは禁止されるし、女性は子を生む存在であり、家事一切を担うのであり、夜は亭主の相手を責務とする。「人の妻たるものは、夫にあれこれ不満を持ってはならない。家の繁栄を第一に考え、夫を大切にし、親たちへの孝行を尽くし、そして子どもさえあれば十分である」顔形など容姿に拘ると、家に災いをもたらしかねない。おおらかというより、身を慎む余裕などなかったことの裏返しだったと思ったほうがいいのだろう。江戸時代の家などのモラルは明治にも遺り、それどころか、現代においてすら一部の男たちに遺っているのではなかろうか。

Deka2_20201102203301 ← ボッカッチョ 著『デカメロン 中』(平川祐弘 訳 河出文庫)「ボッティチェリの名画でも有名なナスタージョ・デリ・オネスティの物語をはじめ、不幸な事件を経てめでたく終わる男女の話、機転で危機を回避した話など四十話を収めた」

 ボッカッチョ 作の『デカメロン 中』を読了した。仕事の合間の楽しみとして。訳者の平川祐弘は、吾輩は、小泉八雲『骨董・怪談』などの翻訳で知っていただけ。こんな研究者だとは、本書を読むまで全く知らないできた。上中下巻ともに、それぞれに同氏による最早研究書と呼ぶしかないような解説が付いている。
「新曲」のダンテ(1265年 - 1321年)、ペトラルカ( 1304年 - 1374年)ボッカッチョ(1313年 - 1375年)は、詩人(韻文)と散文の書き手と違いながらも、共通するところがあるとすると、それぞれの当時のイタリア方言で書いたという点だろうか。ボッカッチョは、ダンテを尊敬し、研究し、常に意識してきた。中世最後の詩人とも呼ばれるやや古い宗教観に比べ、ボッカッチョの散文は我々でもそれなりに楽しめる、理解もできる価値観が垣間見られる。男性は当時として当然なのだろうが、女性が主体的に性も含め謳歌しようと積極的であり、旦那が夫としての務めを果たさないなら、妻は(夫に隠れてだが)自由に羽目を外すってのが面白い。まあ、ペストで王や僧などの権威が崩壊しなか(偉そうにしていても、ペストには為す術がなかったのだから)、宗教観倫理観などが大変貌を遂げつつあったのだから、自然の成り行きだったのだろう。

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