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2020/10/03

撮影ならぬも名月に感激

Moon ← 凄まじいほどの月影。何とか撮影したいが、拙者、今だ嘗て成功したことがない。そんな中、やや郊外に行く機会に恵まれた。高岡市常国の一角。常国神社がある。表通りを外れ、脇道へ入り込んで行くと、街灯もない道へ。辺りは真っ暗。おお、満月だ! が、撮影するも朧月に。ダメだ。でも、観月できただけでもありがたかった。

 日本学術会議会員105名の推薦名簿から政府が6人の候補を任命しなかったというニュースにびっくり。そして恐怖。アメリカのトランプ大統領方式を真似たのか。学問の自由、表現思想の自由は、憲法にある。

 コンポストの傍に野良猫。我輩の顔を観て ニャーゴと甘えるように。先ほど捨てた生ゴミの中に僅かな肉や魚のクズ。そうか匂うんだな。さすがに蓋は開けられないか。ダメだよ、そんなに肥えてるじゃないか。餌場はいっぱいあるんだろ。鳴き落としには負けない。我輩だってひもじいんだぞ。

 スーパーで買い物する。レジに並ぶ。皆さんの買い物籠の中の豪勢なこと。肉や野菜やワインや……。野菜はともかく、肉はこの数年買ってない。くそ! 3密回避もいいが、他人の買い物籠は見えないようにしろ! って言いたいよ。

 謎の女。心惹かれる。いい女なのだろう。翻って吾輩はというと、うだつの上がらない奴。

 角川版の漱石全集(の第四巻「虞美人草」)を読み続けている。全体の3分の2ほどを読んで漸く辛うじて面白く感じられてきた。何処まで構図を理解できているか覚束ないが。


512406_20201003201501 ← 森山 武 著『雪国を江戸で読む  近世出版文化と『北越雪譜』』(東京堂出版)「雪深い越後の生活を記録した『北越雪譜』の刊行を巡って、江戸の有名作家たちとの交流や当時の出版文化が垣間見える秀作。」

 森山 武 著の『雪国を江戸で読む  近世出版文化と『北越雪譜』』を読了した。

 感想や気づきは何度となく呟いてきた。「雪深い越後の生活を記録した『北越雪譜』の刊行を巡って、江戸の有名作家たちとの交流や当時の出版文化が垣間見える」というユニークな本。本書は書店で物色していて出会った本。最初は、題名の「雪国」で、川端康成の名作を巡る本なのかと勘違いした。手に取ってみると、鈴木牧之作の『北越雪譜』の刊行を巡る本だった。
 懐かしい。こちらは日本語版もだが、英訳版も読んだものだった。江戸時代にあって雪国を扱う本など珍しいに違いない。唯一かどうかは知らなかったが、牧之の魚沼には及ぶべくもないが、富山も嘗ては雪国だった。38豪雪当時の光景は今も脳裏に刻まれている。あの惨状が毎年の光景とは考えたくもない。
 雪景色は、雪を知らないか滅多に降らない地方と雪国とでは受け止め方はまるで違う。雪景色を単純に美しいとか楽しみと思えるのは、雪を知らないか、大人の労苦を知らない子供だろう。
 筆者によると、「板本『北越雪譜』とは何か。それは、鈴木牧之という地方在住の文芸愛好家によって、彼の好む文芸の中心部に向かって投げかけたアイデアと原材料が、紆余曲折の展開を見せて、最終的には山東京山(京伝の弟)を中心とする江戸の本作り職業人(京水・京山・丁子屋平兵衛、そして筆耕・彫師等)と牧之との協働によって形を為した、全くの共同制作物」だという。関りというと、滝沢馬琴の名も逸するわけにはいかない。場合によっては馬琴が制作に携わったかもしれなかった。
 ちなみに、2020年は牧之の生誕から250年。筆者は、牧之と同じ魚沼生まれ。思い入れも一入。

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