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2020/09/28

ツーリング日和だったけど

Ageha_20200928195001 ← 過日、偶然撮影したミカンの葉っぱの上のサナギ。鳥の糞に擬態していた。今日 観てみたら、葉っぱの色に。葉っぱの表に居て 大丈夫なの?

 今日は秋晴れ。ツーリングに出かけたくなる陽気。だが、仕事の谷間の日なので、体は動かない。ただ、茶の間から外の天気を恨めしく眺めるのみ。
 睡眠不足の解消のため、部屋では寝たり起きたりの繰り返し。その合間に、『夏目漱石全集〈4〉』 (角川書店 1974年)や、森山 武著の『雪国を江戸で読む 近世出版文化と『北越雪譜』』(東京堂出版)とを交互に少しずつ読んでいた。漱石、凄い。ただただ感嘆するばかり。若いころの吾輩には読解できるはずもなかった。

 ボッカッチョ著の『デカメロン 上』(河出文庫)を読みだしている。短い語り(物語)の連続。数頁から十頁ほど。今のところ、坊主や金持ちを題材の話しばかり。当時は、坊主はそんなに腐敗してたのか、それともボッカッチョは余程坊主や金持ちに恨みがあったのか。まだ、150頁だけどね。
「『デカメロン』は、ジョヴァンニ・ボッカッチョによる物語集。ダンテの『神曲』に対して、『人曲』とも呼ばれる。また、デカメロンはギリシャ語の「10日」(deka hemerai) に由来し、『十日物語』とも和訳される。1348年から1353年にかけて製作された」とか。翻訳される方は、間違っても題名を「デッカイメロン」と訳さないよふに。
 「刑事メロン物語」と訳すのも アカン。

 

 我が家の庭には、エノコログサもないけど、ヒガンバナもない。近所から分けてもらいたい。
 四月下旬、ホームセンターで買ったマリー・ゴールドの赤の種。夏になって咲いてみたら、花はまるで違う青い小花。話が違う!
 ところでなぜ、我輩、発作的に普段 眼中にないマリー・ゴールドを買ったのか。つい先日、テレビで歌うのを視聴して気付いた。かの人気歌手のヒット曲(の題名)に知らずに影響されていたんだ!

 

Poe ← 『ポオ評論集』(八木 敏雄 編訳)「短篇小説の名手,詩人としても知られるポオ(1809-1849)だが,彼はすぐれた理論家・批評家としての顔も持っていた.その明確な方法意識を示す「詩作の哲学」「詩の原理」等の著名な評論,クーパー,ホーソーン,ロングフェロー,ディケンズ等を論じた同時代評を収録.ポオ一流の筆法で書かれた9篇から成るアンソロジー」

ポオ評論集』を読了した。仕事の合間に読んだので、やや丁寧な読みとは言い辛いか。
 本書の内容は、上記の通り。評論が率直で面白いが、本書の中心は、ポーだけあって、「詩作の哲学」「詩の原理」だろう。
「詩作の哲学」では、大概の作家、特に詩人は、一種の精妙なる狂気ーー恍惚とした忘我の境地で創作すると思われるのを好みーー反対に、世間に創作の舞台裏をのぞかれるのを(中略)極端に嫌悪する。」が、ポー自身は、「そうした嫌悪感とは無縁だし、自作の創作過程を逐一思い出すのにいささかの難儀も感じない」と言う(p.161-3)。
「詩の原理」での主張も興味深いが、その要点をまとめるのはやめて、一番感じた記述を引用するにとどめておく。
「人間精神の奥深くにひそむ不滅の本能なるものは、明らかに美的感覚にほかならない」とした上で、「さまざまな形や音や香りや情緒を音声や文字によって再現することは、喜びの源泉」だが、「再現するだけでは詩ではない」と言う。
「ある人が歌い描写する風景や、音や、香りや、情緒を他のすべての人類が共通して覚えるように覚えるだけではーーその人は、いまだ聖なる詩人の名に値しない。彼方には、その人がいまだに達成することができていない何かがあるのだ。われわれにはいまだ癒されざる渇きがあり、それを癒す水晶の泉をその人はいまだわれわれに示さないのである。この渇きは人間の不滅性に由来する。それは人間が永遠の存在であることの結果であると同時に証なのである。それは星を求める蛾の願い。それはたんに眼前の美をめでることではないーーそれは天上の美に達しようとする狂おしい努力なのである。墓場の彼方の栄光に対する恍惚たる予感に打ち震えながら、時間の支配下にある事物や思考を無限に組み合わせることによって、おそらくは永遠にのみ属する諸要素がそなえ、かの美しさの一端にでも触れようとわれわれはあがき求めるのである。かくして詩によって、あるいは、最も魅惑的な詩のムードである音楽によって、涙を流し、ついには声に出して泣くのは、(中略)詩をとおして、音楽をとおして、われわれが一瞬あいまいに把握できる、かの聖なる歓喜を、あますところなく、今この地上において、ただちに、かつ永遠に捉えることがえきないことに対する、腹立たしい、耐えがたい悲しみのゆえなのである。」(p.201-3)
 繰り返すが、この箇所がこの評論の要諦だと吾輩が言おうとしているわけではない。初めて本評論などを読んだ当時もだが、一番、自分が感じ入った一文だというだけだ。詩の分からない、詩の門外漢の吾輩だけれど、そんな吾輩の心胆を突き刺してくれたのである。

 

 最後に、Henry Wadsworth Longfellow (1807-1882)の詩を一つ。
 それは、 確か、中学の英語の教科書に載っていたもので、我輩が初めて感動した英語の詩(「AO Henry Wadsworth Longfellow Poems AmblesideOnline.org」より)。

The Arrow and the Song

 

I shot an arrow into the air,
It fell to earth, I knew not where;
For, so swiftly it flew, the sight
Could not follow it in its flight.

 

I breathed a song into the air,
It fell to earth, I knew not where;
For who has sight so keen and strong,
That it can follow the flight of song?

 

Long, long afterward, in an oak
I found the arrow, still unbroke;
And the song, from beginning to end,
I found again in the heart of a friend.

I hear the crowing cock, I hear the note
Of lark and linnet, and from every page
Rise odors of ploughed field or flowery mead.

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