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2020/03/12

リハビリに庭仕事

Huki ← 昨日 退院し、晴天の今日、リハビリを兼ね庭仕事。小一時間と思っていたけど、ついムキになる悪い癖が出て、気が付いたら二時間半。やばい、後で足腰に来そう。画像は、庭仕事の最中に見付けたツワブキ(?)。いつの間にか育ち始めていたようだ。

 昨日の午後からできる限り読書に専念……のはずだったが、僅か三日の不在の間に溜まった雑事を片付ける必要があった。庭仕事はともかくまだ確定申告も済ませていない。

 福島第一原発の「水」問題。あの異様なタンク群。中身は原発施設に流れ込む地下水と、冷却用に使用された(あとALPSを通過した)処理水との二種類ある。素人の考えだが、冷却用に使う水は、何度もリサイクルして使うことはできないのか。そうすれば、少なくとも冷却用の水によるタンクの増量は避けられるはず。が、一番の問題は、ALPSでも分離できないトリチウムだろう。
 課題は、トリチウム。「汚染水は、長期保管し、その間にトリチウム分離技術の開発」するのが困難でも現実的な課題ではないか:
2019年12月24日、汚染水処理対策委員会宛に、汚染水を意図的に放出せず、並行してトリチウム分離技術の開発・適用を求める署名4万1521筆を提出」!

325508 ← ベンジャミン・マクファーランド 著『星屑から生まれた世界  進化と元素をめぐる生命38億年史』(渡辺 正 訳 化学同人)「かのグールドは偶然性にとらわれ,生命のテープを再生しても人類(ホモ・サピエンス)が現れる可能性はゼロに近いとみた.けれど著者は,生物が使える元素は地球の地質史が決めたため,何度テープを再生しても,進化はほぼ同じ道をたどると主張する」

 ベンジャミン・マクファーランド 著の『星屑から生まれた世界  進化と元素をめぐる生命38億年史』を読み始めた。
 化学屋のが読み解く生命史。数十億年に及ぶ進化は、化学の原理に従ってきた。元素の誕生 → 地質学 → 化学 → 生物学
 星屑という言葉、表現が好き。書店のいつも覗く物理学や生物学、宇宙論の書架ではなく、化学の書架で。化学のコーナーはサッと眺めて行き過ぎるはずだった。本書は平積みじゃなかった。本書の背を観た瞬間、題名が我が目を捉えた。ちなみに、化学同人という出版社の本は初めてじゃなかろうか。
 我々は……というか、この世の全ては星屑、星屑の成れの果て、星屑以外の何物でもない。元素が反応しあってこの世が成り立っている。生物はもとより社会も化学の原理に従っている。だからといって神秘なるものが消え去るわけじゃない。まだまだ分からないことが山ほどあるのだ。星屑の世界を窮めるなんて先の先。

 本書『大洪水の前に マルクスと惑星の物質代謝』も入院前、読んでいる途中だった。さすがに、病床で読む本じゃない。帰宅してから続きを読みだしたが、3部構成の本書、第三部に来て本書の醍醐味を味わえる。世界的規模の先進国の農産業が貧困な土地の既存の土壌を破壊する。痩せた土地をよみがえらせるのは、化学肥料か鳥などの糞か、川の丈量からの新たな土壌か。が、人間による土壌の破壊が気候変動をも呼ぶ。自然の変化も土地の風土性を変える。そんな議論が19世紀半ばに行われていた。
 これって20世紀後半の議論では。マルクスの資本論は3部構成。第一部はマルクス自身が書いた。二部と三部はエンゲルスの編集による。実はマルクスの手元には膨大なメモがあった。上掲のような当時の最新の農業についての専門家からの議論がメモられている。まるくすが自分で資本論を完成させていたら、20世紀のマルクスや、さらには人間と経済、環境、自然を巡っての議論はまるで違っていたかもしれない。吾輩のような門外漢は、本書の第3部から読んだほうがいいかも。

29187142_1 ← 斎藤 幸平 (著)『大洪水の前に マルクスと惑星の物質代謝』 (Νυξ叢書 堀之内出版)「資本主義批判と環境批判の融合から生まれる持続可能なポスト・キャピタリズムへの思考。マルクスのエコロジー論が末節ではなく、経済学批判において体系的・包括的に論じられる重要なテーマであると明かす」

 斎藤 幸平 著の『大洪水の前に マルクスと惑星の物質代謝』 を今朝、読了した。

 感想めいたことは、読んでいる最中に折々書いてきた。この手の社会科学の本は久しぶり。ましてマルクスに関連する本を今になって読むとは。しかし、新刊書である。時代の要請があっての本だろう。吾輩は、正直、題名に惹かれて手にした。
 既に書いたように、マルクスは資本論を完成できずになくなった。今の第2部、第3部はエンゲルスの編集になるもの。実は、この編集から漏れたマルクスの遺稿が近年徐々に刊行されつつある。その中には、19世紀半ばでありながら、20世紀後半となってようやく世界の経済学者に留まらず環境に関心を持つ者たちが危機をつのらせる問題意識が示されていた。当時の農業や経済の研究者には今で言うエコロジーの認識に通じるような問題意識を持つ識者がおり、マルクスは経済学のみならず生物学化学とかなりの自然科学を学習しメモしていた。

 現代世界の環境はもとより経済事情を鑑みれば、民族や宗教的対立もさることながら、最新のはずの金融工学を武器の新自由主義経済学の限界は明らかだろう。そこには人間が不在なのである。だからこそ、著者によれば今こそマルクスなのだろう。
「一八六〇年代には、リービッヒやフラースの議論をきっかけとして、環境破壊や人類の生存条件の悪化などの問題が多様な専門家たちによって真剣に論じられていた。(中略)一九世紀の自然科学に触れる中で持続可能性の問題に深い関心を持ち、自らの経済学体型のうちへと取り込むようになったことは、まったくもって自然な流れであった」と言える。
「マルクスの方法論をもとにして、マルクスの死後に明らかとなった科学的知見を積極的に取り込むことによって、マルクス主義のエコロジーはグローバル環境機器の時代にこそ一層深化させられなければならない。(中略)マルクスへ帰れ!」

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