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2019/11/17

三度目の正直 ソローの偏屈さに感銘する

247494 ← ソロー 著『森の生活(上)(ウォールデン)』( 飯田 実 訳 岩波文庫)「ウォールデン湖畔の森の中に自らの手で小屋を建て,自給自足の生活を始めた.湖水と森の四季の佇まい,動植物の生態,読書と思索――自然と共に生きた著者の生活記録であると同時に「どう生きるべきか」という根本問題を探求した最も今日的・普遍的なアメリカ文学の古典」。

 今日は秋晴れ。ただ、冷たい乾いた風が痛いほど。買い物も近いほうのスーパーへ。帰宅してからは、外出着のままで裏の庭へ。畑を覗いたら、落ち葉が吹き溜まっている。でっかいポリバケツを持ち出し、一時間ほど落ち葉拾い。アンズやクリやキウイの果樹の下を這うようにして作業。僅か一時間で下着が汗びっしょり。

 拾った落ち葉は、我が方針によって、庭の樹木の根元などに敷いた。堆肥とするのは言うまでもないとして、これから寒くなる中、落ち葉で木の根元の布団にする。

 ソロー 著の『森の生活(上)』 を今朝未明読了した。
 十数年前、読みかけたことがあった。が、やや単調な記述の連続に辟易気味となり、中途で放棄した。
 が、ネット検索してみて分かったのだが、中途の挫折は二度あった:「読書雑記」(2005/10/13)
 それはそれとして、この中で、ソローの森の生活に絡め、以下のように書いている:
 

 そうなのだ。「森での暮らしと大自然の素晴らしさを新鮮な感覚で綴っ」てあって、それはそれは素晴らしいのである。
 が、正直、小生は馴染めない。そういう生活を送った人が居るし、現在だって居るのだろう。そんな生活を送れたなら素晴らしいのだろうとも思う。何かの切っ掛けで、ことに寄ったら、山の間伐材の伐採の仕事や炭焼きの仕事の下働きを志願することだって絶対ないとは言えない。
 否、環境問題が喧伝される今日である、むしろ山の環境の保全という仕事はこれからの時代の地味な花形仕事になる可能性だってそれなりにありえるとさえ思う(そこそこの待遇で誘われたらトライするかも?!)。
 しかし、仮に小生がソローが暮らしたウォールデン池の周辺のような環境に暮らせるチャンスがあったとしても、さて、その生活する日々の我が胸中に去来する念というのは、一体、どんなものだろうか。
 決して晴耕雨読の生活に満足しきることはできないだろう。明窓浄机に似つかわしくない小生の性分も不満を募らせる一因となるかもしれない。
 何も美酒佳肴の日々を望んでいるわけではない。内清外濁なる己を自覚してもいる。けれど、水魚之交の友がいないと退屈して死にそう、ということもない。鶏口牛後の逆を行く人間だが、そのその牛は人の群れでなくても山や海という自然であっても何ら問題はない。
 無為自然というより徒食の輩であり、明鏡止水どころか被害妄想の塊であり、酔眼朦朧、思案投首、遅疑逡巡の典型のような奴である。
 軽挙妄動に走らない代わりに、行雲流水とばかりに生きることも叶わない。
 有為転変は世の習いというけれど、小生に言わせれば我が胸中こそがかくの如しなのである。
 気宇壮大なことなど誰も居ないところでしか呟くことができず、泥中之蓮ならば素晴らしいが、泥中之泥に過ぎないのである。
 幣衣破帽は己が志の故であり、粗衣粗食を標榜したいが、貧乏暇無しの結果に過ぎず、ウォールデン池の傍で背水之陣の覚悟のもとに暮らしたいが、意気軒昂な日々も三日天下のうちに萎え果て、森の生活の日々の予想外の困難に打ちひしがれ、清流に身心を漱ぐ日々も薬石無効に終わり、斎戒沐浴も河や池でよりもスパでのほうが快適だと懐かしみ、夢幻泡影もただただ都の享楽の日々への愛惜の念に他ならず、漫言放語だ悲歌慷慨だ夜郎自大に過ぎない、あっという間に青息吐息の惨状を晒すに過ぎない。
 森の生活、しかも、人との交わりのない、通信手段もないような隔絶した草の庵での生活に鎧袖一触、すごすごと退散するに違いない…。
 要は雑念が多すぎる、心が揺れ動きすぎる、世俗を断ち切る覚悟もまるでない、山の緑と空の青と川の白と山の香の赤だけでは飽き足りないのだ。行く手を阻むのはネオンの類いではなく、むしろ定まらない自分の中の掴み切れない妄念なのだろう。

9784309253701 ← デイヴィッド・R・ビガン 著『人類の祖先はヨーロッパで進化した』(馬場 悠男 監訳・日本語版解説 野中 香方子 訳 河出書房新社)「ヨーロッパからアフリカへ逆戻りして、人類が誕生した! 人類の特徴は、いつ、どのように進化したのか? 人類誕生以前の、3000万年にわたる知られざる類人猿の進化を明かす」。書店で、細菌観連、宇宙論、苔の話、脳科学、などなど迷ったが、久しぶりに人類進化の話を読もうかなと選んだ。

 しかし、ある本を読んでソローの本書を読み返したくなった。ソローの毅然たる姿勢に感銘を受けたのである:「今福龍太『ハーフ・ブリード』の示すメキシコ

 

本書で小生のあの『森の生活』のヘンリー・デイヴィッド・ソローへの観方を根底から変えられてしまった。
 ソローは、アメリカで最も独創的で非‐体制順応的な思想家なのだ!
 ソロー自身、一度投獄されたことがある。
「それは一八四六年七月二三日(ないし二四日)の出来事である。この日、湖畔に自ら建てて独り自給自足の日々を送っていた丸太小屋から、修繕に出していた靴を受け取りにコンコードへ出掛けたソローは、町で顔見知りの収税吏サム・ステープルズと偶然出くわした。サムはそこで、ソローが滞納している税金を支払うように柔らかく促した。いま手持ちがなければ、自分がかわりに一時的に払ってあげてもいいとさえ申し出た。だがソローはそれを拒否し、税の不支払いは自分の信条によるものであることを強調した。税の支払い拒否は刑務所行きになることを告げたサムにたいし、ソローはそれなら獄に入れてくれて構わない、と応答する。引っ込みがつかなくなったサムは、やむなく義務としての仕事を履行し、ソローをその夜、コンコード刑務所に拘留することになったのである。
 この年の四月、アメリカ国家はメキシコに侵略し、アメリカ・メキシコ戦争が勃発していた。ソローは、この戦争の不義をただちに糾弾し、自らの一方的な利益のために不法に他国を侵略する国家への人頭税の支払いを拒んだのである。奴隷制という悪辣な制度を存続させ、他国を武力によって侵略する国家の横暴にたいして、ソローは自らの「市民」としての立場を放擲するように、納税拒否という非暴力的手段によって抵抗したのだった。ソローはこのときの行動の拠り所となった考えを、後世に大きな思想的影響を与えることになった著名なエッセイ「市民政府への抵抗」(1849)のなかで詳述している。そこでソローは、人間を不正に投獄する政府のもとでは、正しい人間が住むのにふさわしい場所もまあ牢獄である、と決然と書きつける。そして、黒人の逃亡奴隷や仮釈放されたメキシコ人捕虜、さらに自分の種族に加えられた不幸行為に抗議してやってきたインディアンなど、この時代の被抑圧者のすべてが、自由で不屈の精神を持った自らの同胞たちと出会えるとすれば、それは牢獄のなかにおいてしかないことを確信する。(以下、略)」

 こうしたわけで、『森の生活(上)』 を新たな気持ちで読み直すことにしたのである。
 本書を読んで改めてソローの偏屈なまでの都会や時代にかぶれる世間への忌避の念の強さである。一つの姿勢として感銘受けるものだが、自分にはできないだろう。
 さ、明日からは下巻に突入である。

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