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2019/10/16

快晴微風は読書日和?

Blueeye_20191016201601 ← トニ・モリスン作『青い眼がほしい』(大社淑子訳  ハヤカワepi文庫)「人間としての価値や美しさは白人の世界にのみ見出され、そこに属さない黒人は存在意義も認められていない。白人が定めた価値観を痛烈に問いただす、ノーベル賞作家の鮮烈なデビュー作」。 

 今日は秋晴れ。微風。ツーリング日和。バイクは車検でない。自転車でかるく散歩するか。が、昨日、庭仕事に頑張ったので、晴天が勿体ないが、読書に専念。そう、つまり、上掲の本(と「平家物語」)を読むのに集中した。

 ガキの頃、一人遊びの定番があった。それは、連判状ごっこ。将棋の駒やタイル、木片など、あらゆるチップを歩兵や武将などに見立て、連判状の納められた箱を無事に目的の相手に届ける。当然、行く手を阻む敵が襲ってくる。何とか守ろうとするが、大砲からは防ぎようがない。あるいは、時代は現代になり、要人(指揮官)を中心に戦車や大砲、兵士らが隊列を組む。防備は万全か。ダメだ。空から攻められたらどうする? 戦闘機が要る。戦闘である以上、あらゆる可能性を考慮しないと。
 そう、守るべき要人、指揮官は自分である。何日も何ヵ月も、もしかしたら一年以上も、この遊びに凝った。奥の座敷に籠って。普段は近所のガキ仲間と外で暗くなるまで遊ぶ。夕方からは漫画かテレビ。一人遊びは、遊び相手の見付からない、日曜の朝とか。私は一人遊びで何をしていたのか。自分をどうやったら守れるか、懸命に考えていた。周りを何重もの警備網でガードし、頑丈な建物に籠り、空も地下からの敵からも守る。が、何をどうやっても、穴は見付かる。心配の種は尽きることがない。
 一年以上も試行錯誤を繰り返したが、どう知恵を巡らしても、堤防は決壊する……。当時、自分は何から守ろうとしていたのだろう。何が、誰が自分を攻めようとしていると感じていたのか。脅威の真の種は何だったのか。言えるのは、最後には諦めるしかない、自分を守る術などありえないという、悟りというか諦め。
 何故、こんなわけの分からないことを書き出したか。それは、今、読んでいるトニ・モリスン作「青い眼がほしい」の中で、似たような一人遊びする場面に遭遇したからである。遠い昔の、とっくに忘れていた児戯めいたゲームを思い出させた。思い出させるほどにモリスンの叙述はインパクトがあるという証左か。

 さて、トニ・モリスン作『青い眼がほしい』を読了した。昨日の朝から読みだして、いろいろ雑事はあったものの、本夕、早くも読み終えた。読むのに疲れた。発想法や展開についていけない。作者が後書きで書いているように、戦後のアメリカにおいても(今、改めてトランプ大統領の人種差別政策で露わとなってきたが)色濃く残っていた白人による黒人差別。あるいは、日本人や中南米など有色人種差別というべきか。
 では、本書は黒人差別をプロテストする小説なのか。違う。本当に人種差別自体の構造や問題点を摘出するためには、黒人も人間であり、ずるかったりワルだったり黒人同士での争いだったり、特に本書では女性、それも生理前後の少女の視点から黒人少女らの複雑な心理模様をつぶさに描かないといけない。となると、ありがちなプロテスト文学とは手法自体から構築しないといけない。
 著者はかなり苦労したようだ。読む吾輩にしても、どこまで理解できたか覚束ない。が、インパクトは強烈である。
 表題の「青い眼がほしい」は、ある程度想像が付くように、黒人の少女らの白人(美の象徴でありスタンダードでもある)願望の象徴ととりあえずは理解していいだろう。それ以上の理解は、読まないと分からない(吾輩には説明できない)。

 こんなすごい作品が40年以上も昔に書かれていた……日本でも翻訳されて久しい……最近まで知らずに来たのが情けない。

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