「幼年時代」作家足らんとする意志
← トルストイ 著『幼年時代』(藤沼 貴 訳 岩波文庫) 「自伝小説『幼年時代』は,とりわけ心理描写と人物の性格づけにすぐれている.豊富な天分が遺憾なく発揮された巨匠の処女作」。
この数年、家の中では蚊取線香を使ったことがない。一応は用意してあるが、何年前に買ったものやら。が、何故か、車の中に(多分)一匹いる。もう、1週間になる。車に乗るたび刺される。痒くなる。雌なのか。我輩と同居してるつもり?
トルストイ 作の『幼年時代』を読了した。トルストイの大半の作品は一度ならず読んできた。が、この「幼年時代」と「少年時代」は手付かず。特に、「幼年時代」は処女作とか。読んでみて、読みやすいし親しみやすい。トルストイと肩ひじ張らずに読める。が、同時に、トルストイのその後の作家業や資質を彷彿とさせる作品でもある。
彼は、ホントに自伝として本作を書いたのだろうか。「24歳でコーカサスにて執筆した」という。本作は、語り手が十歳の頃、ママが亡くなった時点で幼年期を卒業するという設定になっている。だが、実際には、トルストイが二歳の頃に母を九歳の頃、父を失っている(本作ではママが亡くなった後も息災)。
明らかに創作なのである。だとしたら、創作の意図は何処にあるか。出世作となった本作に作家としての野心が潜んでいたと見做しても、勝手な憶測とは言えないはずである。
本作を読んで一番感じるのは、あったかもしれない過去の<事実>をそのままに描いたかのような、作家の意志である。思い出があって、それを描いたとしても、その思い出は記憶の彼方に手の届かぬ幻の宝石として輝いている。決して触れることは叶わない。他人には触れ得ない真実だが、本人ですら触れることは叶わない闇の中の青白い炎なのである。
作家足らんとするものに何が一番大切なのか。それは表現手法ではなく、心でしか感じ得ない世界を描くという意志なのではないか。本作にはその意志を感じた。
昨日、「昨日の夕食は、肉野菜。ミックス野菜と焼き肉200gを買ってきて、炒めて食べた。ガス調理は夏場はしないと決めていたけど、不意に食べたくなった。今夜は、なぜかソバ。冷たい奴じゃない、熱い奴。具が売ってなかったので、天かすを載せて。夕食だけは暑いものを食べるほうが体に優しいかなって」と書いた。
今夜は、うどんの鍋セットを買ってきた。鍋焼きうどん。冷たいものを取ることが多いが、体は熱いものも欲しているに違いない。
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