中国や朝鮮への関心は絶やさない
← 古井由吉/著『辻』(新潮文庫)「日常に漂う性と業の果て、破綻へと至る際で、小説は神話を変奏する。生と死、自我と時空、あらゆる境を飛び越えて、古井文学がたどり着いた、ひとつの極点」
台所の流しの灯り、先月からチラツキ始めた。昨日、球を交換。目がちらつかなくていい。夜だと、我が家の台所の灯りが近隣に目立つ。交換が面倒ってことじゃなく、球をホームセンターで買うか、近所の大きなドラッグストアーで買うかで迷った。ドラッグストアーで電球の球など売ってるのか分からない。あるんだね、文房具もある。これで、家庭菜園関連グッズが売ってたら、ホームセンターへ行かなくて済むかも。
今年は、アンズ、マッタク収穫しなかった……サボった。あとは、栗と柿とミカン、カボチャかな。栗、収穫、仕方が分からん。拾えばいいのか。
古井由吉作の『辻』を今朝未明、読了した。
本書について、昨日、「かなり意図的にゴツゴツというかギクシャクした表現をしている。読みやすく馴染みやすい文章表現は敢えて避けている。何処か翻訳調でもある。壁や天井や路面のデコボコにぶつかり擦らせることで、独特の現実感と実在感を醸し出している」と書いた。
読了して改めて感じたのは、やはり、かなり方法的であり自覚的だということ。
ちなみに表題の「辻」は、辞書によると、「1 道路が十字形に交わる所。四つ辻。十字路。2 人が往来する道筋。街頭」とある。いうまでもなく、小説では、道路や街頭ばかりでなく、人生の辻であり、家の内外の辻を意味する。辻は直角とは限らない。あらゆる角度で人は出会い交わり、あるいは交差し、すれ違う。人と人が出会うのは偶然なのか必然なのか分からない。目の前の人はただの通りすがりの人なのか。それとも我が人生を左右する人なのか。日々接していてさえも、出会うことはなかったりする。人はそれぞれの航路を行く。並んでいても接していてさえも、人の描くそれぞれの線は孤独の形跡を一瞬刻み闇に消え去っていくのだろう。
庭仕事は、1週間に一度と思っていたが、今日はやや気温が低かったので、二時間ほど。暑くて参るってこともなく、降雨で中断。激しい雨ではなく、雨音は聞こえていても、体に滲み出ている汗ほどにも濡れない。今日は庭木(サツキやツゲなど)の剪定と、草むしり。伸びるだけ伸びている。後日、一部に固まる土を撒く。草むしりの面積を少しでも減らしたいのだ。
風邪(?)は、治っていない。咳がまだ出る。作業を終えシャワーを浴び、軽食で一服後、本を読もうとしたが、10頁も進まないうちに寝入ってしまった。気が付くと夕方7時。真っ暗に。ミネルヴァの梟の感覚だ。
← 陳 舜臣 (著) 『弥縫録(びほうろく)―中国名言集』 (中公文庫)
高校から大学にかけて座右にあった三木清の本(「人生論ノート」や「読書と人生」)を読みたくて書庫を漁る……も見付からず。ふと、開高健の「輝ける闇」が目についた。読むか……が僅か数年前に読了。近くに本書を発見。中国関係の本は、父の蔵書か。蔵書印が押印。我輩の本らしい。昭和61年刊行(入手)。全く覚えてない。読み出したら思い出すだろうか。欧米の文化もいいが、吾輩は中南米の文学やアフリカ、そして何と言っても、古来より日本に圧倒的な影響を与えてきた中国や朝鮮への関心も絶やさないよう心掛けてきた。明日、車中で読むよ。
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