宇宙大の竜の尾
← 庭のあちこちに育っている。まもなく開花しそう。咲いてみないとどんな花だったか分からない。
風邪、治りかけている。治ったと思ったら、咳が出てくる。夏風邪の辛さ。外仕事ができない。その分、読書タイムが増えているのが皮肉な恵みである。
過日、メモしたように、ミシェル・ウエルベック 著の『ショーペンハウアーとともに』(アガト・ノヴァック=ルシュヴァリエ 序文 澤田直 訳 国書刊行会)を読んで、ショーペンハウアー熱がぶり返した…というわけではないが、思い切って久しぶりにショーペンハウアーの主著を読み返すことにした。今度で通算、五度目か。
ウエルベックがショーペンハウアーに感化され影響をかなり受けていることは知らないではなかったが、上掲書を書こうとしたほどだとはおみそれした。
ショーペンハウアーを理解する友がいる。しかも、ウエルベックだ。彼の本も、『素粒子』以降、翻訳は読んできた。これから、ウエルベックについても一層、熱が入りそうである。
← 『ショーペンハウアー全集 第二巻 意志と表象としての世界 正編1』(斎藤・笹谷・山崎・加藤・茅野訳 1972年 白水社)
『ショーペンハウアー全集 第二巻 意志と表象としての世界 正編1』を読了した。ショーペンハウアー哲学の主著であり、理論的な肝に当たる場所。
同時に、ショーペンハウアー理解の上では鬼門となる巻でもある。一般の方は、続く第三巻、◦意志と表象としての世界 正編2から読むのがいいかも。彼の(一般読者にとっての、ウエルベックにとってすらの)本領は、音楽や絵画など芸術論にあるのだ。
この我々の生きる世界は、我が意志と表象としての世界である。カントが物自体としたものをショーペンハウアーは、あっさり意志であると喝破する。我々人間は、この世界を認識できる。認識し感じ取った世界を科学で分析し、文学で表現もできる。目にし感じる世界は、努力次第で何処までも細密に記述していくことができる。この世界はだから分析の対象でもある。
科学の対象としての自然、文学や芸術の対象としての世界、音楽や数学によって示される世界。宇宙から、山の果て、森の奥、海の底、地の底。生命など欠片もない世界が広がっている。宇宙は絶対温度で数度しかない。零下どころではない、死の世界。だが、宇宙船が縦横に走っている。ビッグバンで創出された世界は、今も動いている。何処から来て何処へ。我々は何処からきて何処へ向かうのか。命のない世界は、沈黙を守り通すのか。そうではない。全ては動いている。根底には何かがあり、知り得ぬ世界から見果てぬ世界へと変幻を繰り返していく。我々はようやく宇宙を意識し始めたばかりだが、この地球の上にあっても、際限のない動きが我々を駆る。人間の意識も知恵の欠片も盲目的な意志の嵐に抗うことはできない。ただできるのは、認識し、感じ取り、表現し、その感じたものを指し示すこと。だからこそ、音楽などの芸術が存在するのだろう。この宇宙のうち、最先端の科学で多少なりとも理論化されているのは、ほんの4%に過ぎない。あとの96%は、暗黒エネルギーであり、暗黒物質なのである。我々の宇宙理解の旅は緒に就いたばかりなのだ。物自体…生への盲目的な意志という宇宙大の竜の尾を掴み始めてもいないのだ。
ということで、今晩にも、第三巻に突入である。
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