いつしかコーヒーを飲まなくなり
← イアン・スチュアート 著『数学の真理をつかんだ25人の天才たち』(水谷淳 訳 ダイヤモンド社) 「新しい数学の世界を切り拓いた天才たち25人の思考のプロセスを、世界最高の数学エッセイスト、イアン・スチュアートがあぶりだす」。
裏の小道。かつては砂利道だったが、砂利を取り除き、防草シートを張った。昨日は、入り口付近に玉砂利を10キロ入りの袋を4袋敷いた。が、まるで足りない。今日、さらに4袋を買い込んできた。買い物は午前中に済ませた。案の定、午後から雨に。今日は、さすがに堂々と庭仕事をサボれる。
イアン・スチュアート 著の『数学の真理をつかんだ25人の天才たち』(上掲)を昨夜から読み始めた。
アルキメデス、フワーリズミー、ニュートン、 ガロア、ポアンカレ、ラマヌジャン、 マンデルブロ、サーストン…… などなど。こういったテーマの本は、大好物。我輩としては、エミー・ネーターをも扱っているのが、本書を手にした理由かもしれない。日頃の庭仕事の御褒美ということで、ゆっくり楽しんでいく。
我ながら不思議に感じることがある。それは、コーヒーを喫する習慣のこと。学生になって一人暮らしを始めたからか、あるいは高校を卒業間近の頃からか、友人らと喫茶店(決してカフェではなかった)で駄弁るようになり、当たり前のようにコーヒーを注文した。学生時代は友人らのアパートに集まっては、夜を徹してヨロズ談義に耽った。ジャズやクラシックは絶えず流していた。誰のアパートかによって、ジャズかクラシックかロックかフォークかの違いがあるのだった。不思議なことというのは、このコーヒーを欠かさないという習慣。
自分一人過ごす時も部屋にはインスタントだったりドリップを気取ったり、コーヒーは切らしたことはなかった。が、20年ほど前のある日、帰省して父母らと寛いでいたら、母がコーヒーする? なんて呟いた。お茶は既にお代わりも済んでいたし、気分転換にコーヒーもいいかな、と思ったが、ある事実に気が付いて、小さな衝撃を覚えた。それは、父母らにコーヒーを飲む習慣があったことに今更ながら気付いたからではなかった。恐らくは母が抱える病にコーヒーが効果的だと、栄養士さんか誰かにアドバイスされたのかなと思うだけだった。
そうではなく、あれほど長年コーヒーを欠かさずにきた自分が、いつの間にやら全く飲まなくなっていたことに気付いたことに驚いた。インスタントのコーヒーを父母らに淹れながら、そういえば、部屋には常備が当たり前だったインスタントのコーヒーがない。何かを契機に買わない飲まないと決めたわけでは決してない。ただ、全く欲しいと感じなくなっていたのだ。しかも、部屋にインスタントがないことにすら違和感を覚えていない。
体質の変化なのだろうか。生活に変化があったのか。確かに友人らの家を訪れることも、友人らを迎えることもなくなっている。街の喫茶店に屯することも滅多にない。気が付けば街中に喫茶店じゃなく、カフェが目立つようになっている。仲間で駄弁ることを許さない空間。テレビでもインスタントコーヒーの宣伝はなくなった。そんな広告営業に手間暇懸けるより、コンビニやカフェのチェーン店に売り込んだほうが効率的だろう。味の素が、テレビで宣伝せず、即席ラーメンや即席の味噌汁会社に卸したほうが効率的となったのと似た経緯か(ちょっと無理があるか)。
まあ、環境が自分に自宅で(も外でも)ゆったりコーヒーを喫する心のゆとりを奪っていたのは確かだ。バブル経済が絶頂期だった頃から弾けてドン底に落ち込んだ頃、数年に渡って週日は睡眠時間が二三時間の日々が続いた。睡眠障害を業病とする自分が、である。窓際族になり、名ばかりの課長になって、会社に毎日夜半近くまでたった一人で残業をこなしていた。スケジュールが決まっているので、課長たる自分がやりきるしかなかった。しかも友人の勉強会(講演会と懇親会)の手伝いで、週末は講演会のテープ起こしに費やされた。
さらに、89年1月に一念発起して、ワープロを買い込み、日々創作活動に励んだ。夜半に帰宅して、睡眠時間を削っての創作(後に会社を首になった際、自費出版した)。朝は会社の誰よりも早く出社。課長として、どんなトラブルにも対処しないといけない。
その頃はまだ、会社ではコーヒーは飲んでいた。が、家に戻ったら、買い物にも行けず、そもそもコーヒーをゆっくり飲む時間も心のゆとりもなかった。あの悪夢の数年で体を壊した。毎年体重が2キロか3キロずつ増えて、気が付いたら標準体重を 10キロ以上オーバーしていた。
見事に会社は首に。重責からは解放されたが、体は戻らなかった。
帰省して父母らとコーヒーを喫して、自分にコーヒーを飲まない、そもそもコーヒーが傍にないことに気付いたのは、その頃か。あるいは、父母は自分の体型の変化に気が付いて(会社を首になったことにも気付いたのか)、体にいいからと、せめてもののことと、コーヒーを勧めたのだろうか。父母がいない今、真相を確かめるすべもない。言えるのは、あの数年で社会も自分も変わってしまったということだけ。
← サミュエル・ベケット 著『ゴドーを待ちながら 』(安堂信也 /高橋康也 訳 白水Uブックス) 「田舎道。一本の木。夕暮れ。エストラゴンとヴラジーミルという二人組のホームレスが、救済者・ゴドーを待ちながら、ひまつぶしに興じている──。不条理演劇の代名詞にして最高傑作」。
サミュエル・ベケット 作の『ゴドーを待ちながら 』を昨夜読了した。読了したという言葉がこれほど空しく響く作品も珍しい。一体、どういう状態になったら読んだと言えるのか。筋を終えたらOKか。不条理劇の嚆矢とも見做せる作品だけに、劇の幾つかを観て、理解を深めたら読んだと思っていいのか。
そもそもゴドーとはいったい何者なのか。安易にゴッドと思っていいのか。が、神という呼称で一体なにを思い浮かべたらいいのか、誰が告げることができよう。人には神の名を口にすることはできない。が、神を信じ、ひたすら神の世界がこの世に実現することを待てばいいのか。何をどうやっても、人間にできることは、ホームレスの駄弁以上のことではなない。神の前では、天才だろうとホームレスだろうと、吾輩に言わせれば、地上のどんな動植物だろうと、団栗の背比べに留まるのだ。人はただ、沈黙の中で、あるいは多弁を弄して、何物かのいつの日かの到来を待ち続けるだけなのである。
上記した吾輩の体験も不条理劇だったろうか。
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