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2019/06/24

7が言えない

122002_xl ← 深田久弥/著『日本百名山』(新潮文庫)「者は、長い年月をかけて、北は北海道の利尻岳から南は屋久島の宮ノ浦岳にいたるまで、それらすべての山頂を極めつくして、本書を綴った。日本人の生活に深く結ばれ、私たちの精神的風土の形成に大きな影響を与えてきた山々の個性を、短い文章のうちに、見事に際立たせた名著」

  二十年ほど前に(恐らく)父が購入し読んだだろう本。吾輩は、読んだかどうか、記憶が定かではない。

 父は若いころ、登山に熱中していたと、聞いたことがある。十年前父が亡くなったあと、父の遺品を整理していたら、寝室の押し入れの上にある袋棚に登山靴を発見。若き日の思い出として取っておいたのか、いつかは再び登るつもりで保存していたのが、そのまま忘れ去られていたのか。吾輩は登山経験はない。せいぜい高尾山や富士山に登ったことがあるくらい。立山にも登ったけど、ただの観光の一環だから、登山とは到底言えないね。吾輩は、登山じゃなく、ツーリング。

 昨日のブラタモリは白金特集。80年代、高輪に住んでいた。三田、高輪、芝、麻布、白金辺りはうろついていた。悔いているのは、友人にも薦められていた自然教育園というか、庭園美術館に行かなかったこと。何時でも行けるってダメだね。聖心のキャンパスには入ったけど、明治学院大学の中は覗いただけ。彼の作品は大概読んだ島崎藤村が教授していた(女子学生に手を着けた)。
 そういえば、ブラタモリが始まった頃、三田特集だったような。しばらく、録画、保存してあったんだが。さて、あと、芝浦や海岸辺りを特集してくれたらうれしい。界隈の波止場…桟橋などは、ドラマの撮影によく使われた(撮影現場にしばしば遭遇)。ヘリポートのある倉庫があって、俳優がよく出入りしているのを目撃した。

Iketani ← 池谷 裕二【著】『脳はなにげに不公平―パテカトルの万脳薬』(朝日新聞出版)「目の前の人のマネをすると好感度が上がる、上流階級の人のほうがモラルが低い、手を握るだけで記憶力がアップする──そんな脳の不思議と科学の最新知見を、人気の脳研究者が軽妙かつやさしくつづった」

 昨日、車中にて読了。最新の脳科学を簡潔に知る手助けにはなったかな。だからといって、我輩が脳科学や、まして脳や心への理解が深まった訳じゃない。ところで脳細胞は、3際までに間引きされ、それ以降はほとんど死なないって知見は大事。脳細胞が減っちゃったから、なんて言い訳は通用しない。正直に、使ってきませんでしたというべきみたい。

9784480096029_20190624214101 ← パウル・クレー 著『造形思考(下)』( 土方 定一 翻訳 , 菊盛 英夫 翻訳 , 坂崎 乙郎 翻訳  ちくま学芸文庫)「形態そのものでなく形成や造形を捉えること。そして「運動」と「反対運動」の均衡を見出すことにより、構図上の平衡が成立するという」

 相変わらず、折々読んでいる。で、相変わらず、読んで理解できない。本人は理論的に書いているつもりなんだろうこけど、まるで理解できない。それでも、読んでいけるのは、ごくたまに箴言のような文言に遭遇するから。何より載っている絵の数々が楽しいし素晴らしい。モノクロだけど、いたずら書きのような線画でさえ、味がある。
 クレーの絵には音楽があって、リズム感があり、メロディーさえ感じられる。ある種の際どい、崖っぷちのバランス感覚さえも。崩れるギリギリのところで、危ういはずなのに、さも愉しげに堪えているのだ。ユーモアさえ欠けていない。

018434_01 ← 森田 真生 文『アリになった数学者』( 脇阪 克二 絵 福音館書店)

「数学する身体」の著者の本ということで、出版を知って即日予約ゲット。絵本だったとは。我輩には、童話や絵本を楽しむ柔らかな感性は乏しい。ハリポタなどファンタジーも敬遠しがち。頭が堅いのである(物理的に…じゃなく。頭が悪い…とは自分では認めたくないが)。

 小一の頃、担任の先生に、10から1まで逆に言えと言われた。クラスの大概の子は出来たが、我輩は出来ず、教室の後ろに立たされた。水の入ったバケツを持たされて。10から9、9から8までは何とか言えたかな。7近くなると、頭はボーとしてきていた。チコちゃんの言う意味じゃなく、必死になって考えても、頭の中で数字らしきものが何かの亡霊みたいに揺らめいている。

 紅く分厚い闇の中でボクが足掻いている。先生やクラスのみんなの嘲笑うような視線が身体中に突き刺さっている。いや刺さっているのはボクの醜い顔にだ! 見られたくない、早く消えてなくなりたい。ボクには無理だって最初から、分かってたじゃないか! そう先生に訴えたかったけど、言えるはずもない。立たされるのはボクだと、貴女は知ってたよね。授業が終わって、頭を冷やしに校舎の外の蛇口へ。ざーと流れる水で流したのは冷や汗だけじゃなかったはず。

 高校時代、ペアノからフレーゲへ、さらにはラッセルを介してヴィトゲンシュタインに至りついた。論理学や記号論というより、1とは何か、数学とは、やがては言語とはという問い掛けへ。数学的に証明された定理は、あらゆる宇宙で妥当する。物理学の法則は我々の宇宙には当てはまるが、それ以上のことを担保するわけじゃない。そこが数学の不可思議の一つ。

 書いているうちに思い出したことがあった。7が言えなかったのだ。ジュウ キュー ハチーまではなんとか拙いながらも言えた。7が関門であり難関だった。ボクには発音が困難でまともに発声できない音韻が幾つかあった。それは、「も」や「ま」、「ん」であり「な」も難しかった。「も」は「ぼ」になり、「ま」は「ば」になり、「ん」は、鼻の穴から息が抜きづらくせいぜい「む」か「ふ」で誤魔化す。そして「な」は「だ」と(他人には)区別が出来なかった。本人は「ななー」と言っているつもりなのだが、どうやっても「だだー」にしかならない。自分でさえ「だだー」なのだ。
 周りのみんなにはどう聴こえていたことやら。

 そうだ、ほんとにたった今思い出したのだが、頭が悪くて10から逆に1までを言えなかったんじゃなく(それも全く違っていたとは言い切れないが)、「7」が「なな」が発音出来なかった、どうやっても、自分にさえ「だだ」にしか聞こえない、無様さにおしひしがれていたのだ、立ち尽くしているしかなかったんだ。

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