読書とは人の頭で考えること
← 昨日は、放生津八幡宮へ。
大伴旅人の末裔が宮司を勤めていることで(少なくとも富山では)テレビでも取材を受けていた。週日だからか、閑散。お賽銭、我輩としては、大枚をはたいた。昨日は風があったが、爽快な天気。前夜の停電騒動、バイクを駆っての放生津八幡宮への参拝、会社での研修、町内会での雑務、玄関先の冷蔵庫の電源確保、ゴミ当番など、やたらと用事が重なって、読書は50頁。数年来ない低レベル。挽回しなくっちゃ。
放生津八幡宮は、海辺にある。昔はまさに海岸を臨む、小高い丘にあり、境内には巨大な松があって、海を行く船の目印になっていたとか。今も樹齢百年を越える松がある。ただ、管理に苦労しているようで、見事な松とは言いがたい。この周辺は、景勝の地だったらしく、家持や芭蕉らも歌や句を残している。句碑もある。今は、海辺が漁港などとして整備され、往時を偲ぶには、多少の想像力が要る。観光地と呼ぶには、人気が今一つで、周辺は雑草の伸び放題。周辺には、漁港も含め食堂もあるし、境内にはトイレも(何故か、ど演歌が流れていた)。
ショウペンハウエル (著)『読書について 他二篇』 (斎藤 忍随 (翻訳) 岩波文庫) についての呟きがあった。
本書を初めて読んだのは、高校生の頃。傲岸で高踏的で世の中を、世の人々を睥睨している。その姿勢は辟易したものの、「読書するとは人の頭を借りて考えること」(数十年前の記憶なので、正確な表現は忘れた)という下りにやられた。そうだよなー、自分で考えることが肝心で、それができない奴が読書するんだよなー、なんて。が、自分なりに読書体験を重ねてきて思うことは、本を書くほどの人というのは極めて有能な方で、自分には読書という形でその人の考えをなぞることも至難だという悲しい現実。
ま、そんな他愛もない思い出はともかく、吾輩はむしろショーペンハウアーの哲学に魅せられた。こうした断片的なエッセイでは飽き足らないと、彼の主著である「意志と表象としての世界」に挑戦した。無論、翻訳だが、以来、違う人の訳で四回、この大著を読んできた。大学を哲学科にしたのも、ショーペンハウアーとウィトゲンシュタインに魅せられたからであり、原書で読みたいと思ったから。その思いは半ばしか実現できなかった。
ショーペンハウアーの哲学は、彼の世捨て人的な生活もあって、厭世思想だとされる。生への盲目的な意志が宇宙の根源にある。宇宙も人も生まれ活動し展開し変幻を繰り返す。その活動の一端が我々でもあるが、その根源的な動機は掴み切れない。生きることへの野蛮なまでのモチベーションは何処にあるのか。宇宙が生まれ、星々が生まれ、太陽系が、地球が生まれ、やがて生命体が生まれた。この流れが必然なのか、偶然のなせる業なのか、いずれにしても生命は生まれて数十億年史て我々が生まれた。なんのための命なのか。懸命に意味を探る我々。
生への盲目的な意志は、やがてニーチェにも影響を与えたが、そこは今は扱わない。進化論が19世紀の半ば頃は、適者生存とか、強者が弱者を圧倒するとか、生存闘争とか、まさに産業革命後の成長への趨勢、無数の犠牲を払ってでも社会が発展するのは無条件にいいことであり、疑う余地も余裕もない、そんな社会を裏付けるとは言わないまでも、そんな盲目的に活動する社会をこそ表現する哲学と受け止める余地もあった。
生への盲目的意志。それは吾輩には神を言い換えたのではないかと吾輩は勘繰っていた。神はこの世を説明するキーワードだが、安易には出せない。我々にわかるのはとにかくこの世界があり、多種多様な生命が活動し、人間が活動する、その背後には神の手があると言いたいが、神は人間には語りえぬ存在。話をやや端折るが、進化の謎は不可思議そのもの。もっと言うと生命が、宇宙が不可解。ビッグバンという開闢のあとは、宇宙は転げ落ちるようにやがて地球に人間に、我々は何処から来て何処へ行くのかを問わざるを得ない知性に至った。
生への盲目的意志は、留まるところ、生きることの意味を問わざるを得ない私の衝動に繋がってしまった。ここに飛躍があるのは否定しないが、吾輩にはショーペンハウアーの哲学は、今もって今を生き今を問う哲学であり続けている。
← 一昨日訪れた放生津八幡宮。名勝の地だった奈呉の浦。大伴家持や芭蕉、宗祇らが句や歌を残した。悲しいかな八幡宮の直下の浜には立派な漁業施設が出来ている。往時を偲ぶには、かなりの想像力が要るかも。
「万葉集」は、一度、中西版で通覧したが、それで終わりのわけがない。そろそろ、再読したい。
「万葉集」の編纂者の一人とも言われる大伴家持の歌は、470首ほどが収められている。驚いたことに、その半数に近い数の歌は、国司として赴任した富山(高岡・伏木)で詠んだもの。彼は晩年の数年は、陸奥の国に赴任した(65歳の頃)。当時、蝦夷の反乱が激しく、多賀城を足場に闘った。やがて、家持は多賀城の地で最期の時を迎える。
我輩は高岡ではないが富山生まれ(母は高岡)。東京で暮らす前に仙台に6年、暮らしていた。が、多賀城を訪れた記憶がない。情けない。屁理屈だが、両方の地に我輩も縁があることだし、もっと万葉集や家持に関心を持っていきたい。
何年か前、デリダだったかの著書で(自信がない)、彼がやはり初めて箸で食べる行為をリアルに生真面目に描く叙述があった。滑稽ではないが、初めて箸を持つものには、麻痺している神経を通じさせようとする、難儀な試みなんだなーと、妙に感心したものだ。
「フェルメールと天才科学者:17世紀オランダの「光と視覚」の革命」にて、デカルト(乃至大陸の合理論)の哲学に対して生まれたイギリスの新しい科学論(経験論)の中心的人物として、かなり重要視されている。神の創った世界である自然という書物を観察し読み解くこと、科学の力でより深く自然を探究することが、神の意に沿うことだと主張した。
まさに、顕微鏡や望遠鏡で、それまで見えなかった自然の姿を知り、画家であれば、鏡やレンズの力を借りて、これまでの画家にない効果を絵画表現の上で試みた。ベーコンは当時にあって、そうした機運を後押しする哲学者だった。
といいつつ、ジョン・ロックを始めとするイギリス経験論の哲学者は一通りは昔、読んだのに、ベーコンは読んでない。多分、当時はデカルトに入れ込んでいたからか、ベーコンの主張が(今となっては当たり前過ぎて)とっくに陳腐で旧弊に感じられたからかもしれない。つまり、あくまで哲学史的意義しか我輩には感じ取れなかったのだろう。
ところで、言うまでもないが、20世紀にはフランシス・ベーコンと同姓同名の有名な画家がいる。好きとは到底言えない画風だが、その存在感ある絵画は、一度観たら忘れられなくなること請け合い。この画家は、17世紀の哲学者の末裔である。
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